#20 声を出したらいけないの?
NPO法人にいまーるの理事・臼井です。
にいまーるは、障害福祉サービス事業を中心に手話普及活動も行なっている団体であり、ろう者と聴者が一緒に働く職場です。
障害福祉サービスの利用者は全員耳が聴こえません。
しかし、スタッフの比率は、ろう者2割:聴者8割と、聴者が多いので、双方の文化の違いが垣間見え、時には食い違うことも多々あります。
そんな職場から生まれ出る、聴者とろう者が共に仕事をする中での気づきを連載していきます。
今回は手話の世界のおける「声」ついて書いていこうと思います。
手話の世界における「声」は、珍しくもあり、時には異質なものになったり、でも人を救うことにもなったり。と不思議な存在感があります。
音声言語の世界では、声を使って話すことが当たり前なのでわざわざ「声」がどういう存在なのかを考えるまでもないでしょう。
手話の世界では、手話を使っている人が声を出して手話を使う場面がしばしば見られます。
いわゆる日本語対応手話(手指日本語)であり、日本語の文法に合わせて手話で表すものなのですが、私も相手や状況に応じて使っています。「だって、その方が効率的だし、仕事が円滑に進むじゃん」という理由なのですが、誰にでも声を出しているわけではなく、私の場合は発音が不明瞭なので相手のチャンネルに応じて使い分けています。
巷では「声を使って手話をするなんて、けしからん!」という鬼のような形相で語る人もいますが、この主張はあながち間違っていないと思いますし、理解はできます。
「声」を使う立場や使用目的によって、この主張が意味するものが何なのかを考えさせられることがあるように私は思います。
手話を学んでいる聴者で、まだ手話の読み取りが難しかったり動体視力がどうも強くない人がいます。目で見るよりも耳で聞く方が能力的に長けているのもあるので、その人に対しては「声」を使うことがベター(時にはベスト)だと判断する時があります。よほど声が大きくなければ誰かに責められることはないし、むしろ「ああ良かった、通じてホッとした」という安心感がお互いに得られることもあります(私が実際にそうなので)。
一方で、「声」を聞く相手がろう者だった場合。
聴力のレベルはさておき、ろう者と会話をするときに「自分が発する声が、ろう者には聞こえていない」という状態を、どれくらいの人が意識しているのでしょう。
手話を使いながら声で話す(声を使いながら手話で話す)ことを良しと思う人たちは、伝えたい相手の耳には私の声が全く届いていない、という現実をどう受け止めているのでしょう(もちろん、残存聴力を活かしたり、日本語のリテラシーが抜群で尚且つ読唇術が長けている人であれば「声」が確実に伝わっている可能性はグンと高まります)。
相手の耳が聞こえていようが聞こえていまいが、そんなのはお構いなしに「声」を出しながら話した方が自分の考えがまとまりやすい、という人もいます。「声」を自分のために使うという選択を自覚できているので良い方法だと思いますし、ろう者である私も日本語で考えるときは「声」を出しながら話した方がスムーズにいきます。
しかし、手話通訳士でさえも「声を使って話をするとき、ろう者の引き攣った表情が見えなくなる」ことがあったり、日本語対応手話で話をしている聴者の「声」に引っ張られて手話表現が間違っていることに気づかないままだったりすることもあります。
かといって「手話使う時は、声を出さなければ良い」では解決できないような気がします。
個人間であれば、「声」の必要性はそこまで高くないですが、聴者とろう者が集まるコミュニティだと、手話のできない(堪能ではない)聴者の比率が高ければ高いほど「声」がもたらす影響は無意識のうちに耳が聞こえない・ろう者のメンタルを蝕むことがあります。
「声」がもたらす影響力の大きさを知っている一流の手話通訳士や優秀なろう者たちは伝わっていない(通じていない)会話に気づきやすく、擦り合わせのための作業を厭わないのですが、一般的にはなかなか「声」というのは気付かれにくい存在なのかもしれません。デフコミュニティの中でも不思議な存在感を持つ「声」を改めて意識してみると面白い発見も出てくる気がしませんか。
タイトルに対する答えは「伝えたい相手に確実に伝わるように努めるなら、どっちでも構わない。相手をよく見てね。」
文:臼井千恵
Twitter:@chie_fukurou
Facebook:@chie.usui.58
編集:吉井大基
Twitter:@dyoshy_
Facebook:@daikiyoshii4321
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