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無を超えていく、無限。人はそれを「余白」と呼ぶのだ。【極私的考察】

今回は、知っているようで知らない余白のお話。

歴史ある紙屋 中庄株式会社さんのシビれる一文に出会い。
もう、この一文を読んで、余白について書くしかない!と思い立ったのです。

「紙の最大の価値とは余白ではないかと思う。」


日本画といえば、「余白」が多いのも特徴ですね。
私は、なーんにも分からない小さな子どもだった時は、祖母が描いた日本画を見て「背景多いな」って思っていました。おい。

余白という字面だと、なんだか「余っている白いところ」という印象もあって、
余分な部分、という受け取り方もできちゃう。

ところが、いやいや、トンデモナイ。
まさに「余白」は「価値」なんだということが言えたら、この記事は大成功です。


では今回の【極私的考察】、行ってみましょう!

<見出し>
1. 西洋の余白、東洋の余白
2. 「未完の美」と「余白の美学」は同じなのか?
3. 日本的余白の役割・効果
4. おまけ

1. 西洋の余白、東洋の余白

西洋と東洋の余白の違いについて述べながら、余白の意味を探っていくことにします。

まず、西欧においての余白はコチラ。

西欧芸術においては「画面全体を絵具で塗りつぶすのが原則で、塗り残した空白があれば未完成を思われる」
余白は「有に対する無、有の欠乏状態としての無」(注1)


「あれ!この絵塗ってないところあるじゃん!」ですね。「余白」では無く、ただの「塗り残し」。オー、ノー。

「有」と「無」の二元の道理で物事を捉えた場合、
西欧の価値観であれば「無=欠乏」に分類されるということなのです。

欠乏というのは、欠けている状態、有るはずなのに無い、というアンチテーゼを意味します。そう考えると、あまりポジティブな状態ではなさそうですねえ。

「西欧芸術では、基本的に伝えようとするものは表現されねばならない。」(注1)

この考えは、西欧的なコミュニケーション性格とも通じますね。
伝えたいことは、はっきり表現する。特に多民族国家に顕著である印象です。

表現メディアにもよりますが、例えば油絵の場合、
地のキャンバスがそのまま残された作品は、少ないように思います。

が、何も無い空間を表現するため、何色かの絵具で「塗り潰す」油絵作品には、私は何度も出会ったことがあります。

つまり西欧においては、余白のような「何も描かない表現」は、成立し難い土壌があると考えられます。


次に、日本においての余白はコチラ。

「空白の空間は無限に多彩、豊穣な美の感覚を見る者のうちに呼び覚ます」
「有と無の全体を包摂するような、あらゆる存在の可能性をはらんだ無」(注1

なんということでしょう。
日本の「余白」は、白く余っていることなんかではありません。

そのスペースに、あらゆる可能性をはらんでいながらも「無」

これを知った時、私は宇宙を思い出しました。
空気さえも無い真空の空っぽでありながら、無限に続いていく空間。

そう、余白は、宇宙さながらの広がりがある訳です。

受け取る人により、どのように捉えてもいい余裕の大きさ、懐の深さ。
想像力をどこまでも広げても楽しめる無限の世界。

「画面の一部をあえて空白のまま残すことによって画家はそうした絵を超える絵の世界を生み出すのである。」(注1)

…これが余白の美学。


2. 「未完の美」と「余白の美」は同じなのか?

おっと、「未完成」というキーワードで思い出しました。
西欧には「完成しない状態を美しい」とされる美術品がありますね。

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そう、「未完の美」で有名な、ミロのヴィーナス。
腕が欠損せずに残っていたら、ここまで人々の心を魅了しなかっただろう、という説もありす。

このケースは「過去に有ったけれど、今は無い」のですが、初めから無かったとしたら…西欧ではどう評価されたでしょうか。ふむ。


そして、日本にも古くから「未完の美」の概念はあったようです。

乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。

なるほど、これは意図的な「未完の美」。

その白く美しい姿から通称「白鷺城」と呼ばれる姫路城。
このケースは、「完成してしまえば、あとは衰退するだけだから、あえて完成させないでおこう」という思想があったのですね。

「未完の美」と「余白の美学」は、「無い」という点では共通していますが、その意味するところは異なるようです。

無いことで、あえて何かを表現しようとする、という試みが余白の特徴と言えそうです。


3. 日本的余白の役割・効果

さてさて、余白に話を戻します。

日本画において余白がどのような役割を果たしていたのか。
これは、調べましたらね、もうワンダホーとしか言いようがなかったです。

(この日本的余白の役割・効果については諸説あるが、ここでは(注1)石田(2013)と、(注2)大久保(2015)の二つの説を取り上げた。)


日本的余白の説、一つ目はコチラ。

余白が「風景をつなぐ」、「非合理的な空間を繋ぐ」などの、
空間と空間を「繋ぐ」効果。(注2)

こうした「繋ぐ」余白は、様々な不合理さを含めて受け止める
緩衝帯としての役割を担う、と言い換えられると思います。

そして、この「非合理的な空間を繋ぐ」余白の効果特性は、
合理的になるよう変化を強いられることなく、繋がることができる点にある、と私は考えています。

例えば、人は繋がらないものを、複雑に抱えて生きています。
途切れた記憶、
どうにも相容れない思い、
解せない出来事…

それらを余白が「繋ぐ」ことで、そのままの姿を保ちながら、
「非合理」さもひっくるめて、
1つの世界に同居することが許される。

なんという懐の深さでしょう…!!


もう1つ、日本的余白の役割・効果についての説を紹介します。


「空っぽであればこそ、そこにいかなる世界でもよびこむことが可能になるという虚無の原理」 によって、
「直接には描きだしえない、まさに暗示によってしか引き出しえないもの」が表現できる。(注1)

「空っぽ」を、心になぞらえてみると、
心という部屋に、何も入っていない引き出しができた、という例えができるかもしれません。

この引き出しに何も入っていないことが、ポジティブに感じられる。

空っぽだからこそ、何でも入れられる可能性が広がっているし、
新しく部屋にやってきたものを受け入れることもできる、
なんなら、このまま何も入れなくてもいいかもしれない。

この例えのように「いかなる世界」も受容する、宇宙のような余白空間。
余裕やゆとり、という言葉の性質を帯びていると私は感じています。

人生に、あらゆる可能性を招き入れる「余地」

実際に、私が精神病院のアトリエで日本画を一緒に行なった方は、
作品に余白が登場した時期と同じくして、
現実の行動レベルにおいても対人関係が充実し、会話の増加が見られたケースがありました。


4. おまけ

えー。最後に身も蓋もないお話をすると。

職業画家が活躍した時代は、画面全部に描き込みを施すと、数がさばけないので余白をできるだけ多くとった、とかナントカ。ゴニョゴニョ。
ま、そういう説もあります。


以上が、余白の意義についての考察でございました。

まとめると、余白とは、無でありながら、価値ある余地。ということでしょうか。


「余白」については、様々な見解が述べられていて、調べていて楽しく、
いかに魅力的なテーマなのか!と改めて実感した次第です。
(また西欧と日本の対比が切り口でしたが、西欧批判ではありません。念の為。)

私が「おお!」と感銘を受けた文献などから検証した、狭く深くの【極私的考察】であることを追記して、終わりにしたいと思います。


<引用文献>(直接引用部分はカギカッコで表記)

(注1)東京女子大学紀要論集(2015).65, (2), 大久保喬樹, 余白と座:日本的心性の展開 その三, 31-61

(注2)石田智子(2013). 探幽画における余白について−名古屋城上洛殿障壁画を中心に−. 文化交渉:東アジア文化研究科院生論集2, 47-59



ありがとうございます。サポートは、日本画の心理的効果の研究に使わせていただきます。自然物由来の日本画材と、精神道の性質を備える日本画法。これらが融合した日本画はアートセラピーとなり得る、と言う仮説検証の為の研究です(まじめ)。