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チェーホフと悲しみ

アントン・チェーホフはロシア最大の劇作家の一人であり、『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』『桜の園』の四大喜劇を残したことでも知られていますが、彼の仕事の多くは当時のロシア民衆の百科事典のような短編小説郡によって構成されています。

モスクワ大学医学部を卒業した彼は小さな田舎の郡会医の助手になり、やがて自宅で診察を行うようになるのですが、この頃から人々への細かい観察の富が蓄積され始めます。彼の作品に登場するチェーホフ的な小市民のコレクションはこうした形でその土台を築きました。

チェーホフは当時の他の作家や知識人、ボリシェヴィキや大勢の社会民主党員たちのように、声を大にして自らの社会思想を主張するようなことはしなかった。だからといって、彼がロシア民衆の悲惨や窮状に無関心であったというわけでありません。彼が人々のために成し遂げた医療や建築における慈善事業については一冊の本が書けるほどですが、ここでは文学の話に絞ることとします

チェーホフが書く小説の特徴は次のような点です。おぼろげな景色に漂う閉塞感、噛み合わない会話、絶望の淵に立たされて「別のことを話す」人々。ここには引き出すべき特別な道徳や思想はなく、チェーホフは人々の言葉や行動を書くことに終始しています。書かれた言葉や行動は、全体の雰囲気を伝えるために選びぬかれていて、チェーホフはその選択を通して当時のロシア人を細かく書き分けることに、芸術的な喜びを感じていたのだと思います。

 私はチェーホフの小説を説明してほしいと言われたとき、「気まぐれ女」の次の一説を思い出します。

「そうですね……。この雲は叫んでる──光り方が夕方らしくないのでね。前景はなんだか噛み砕かれている、何かが、いいですか、これじゃあね……。百姓小屋がまた何かに押しつぶされて、哀れな泣きごとを言ってる……この隅をもう少し暗くしなくちゃあ。だがまあ、全体としては悪くない……。上出来だ」

『ともしび・谷間   他七篇』「気まぐれ女」松下裕訳、岩波文庫

ツルゲーネフの最良の部分を受け継いだこの作家は、驚くほど小さな軽い筆致で、出来事や人々を描写します。表現の倹約家であったチェーホフは、控えめに語ることを旨としていましたが、その表現は選び抜かれた細部によってウィットに富んでおり、ほんのり湿った感じがします。

カザンスコエの定期市から人びとがあとからあとからとつづいていた。百姓女たち、新しい縁なし帽をかぶった職工たち、乞食たち、子どもたち……。荷馬車が砂ぼこりを立てながら通り過ぎ、その後ろから馬が一頭、まるで売られなかったのを喜んでいるかのように駆けて行く。かと思えば、言うことを聞かない牛が角を引かれて行く。そのあとまた荷馬車がやって来て、ほろ酔い機嫌の百姓たちが足をぶらんぶらんさせて乗っている。ばあさんが、でっかい帽子、でっかい長靴の男の子の手を引いている。その子は暑いのと膝も曲げられない重たい長靴とで疲れ切っているくせに、玩具のラッパを思いきり、ひっきりなしに吹いている。もう下り坂にかかって通りのほうへ曲がって行ったのに、ラッパの音は相変わらず響いてくる。

『ともしび・谷間   他七篇』「谷間」松下裕訳、岩波文庫

小説はその表現の制約上、書かないものを決めなければなりません。あまりに多くを書けば文章が重たくなりすぎて、読者の想像するイメージは霧散してしまいますし、かといって少な過ぎれば、これまた読者に正確なイメージを伝えきれない。小説で書かれる言葉は、実のところ読者の想像力を解放するものではなく、むしろ制限するものです。作家にとって言葉とは、御者にとっての手綱や鞭のようなものであり、手綱や鞭で馬を操るように、作家は言葉を使って読者の混沌とした想像力を、自らの意図する方向へと導くのです。この点においてチェーホフはまさしく達人であったと言えます。

彼は「谷間」のなかで、カザンスコエの定期市から帰ってくる人々や家畜のにぎやかな行列をほぼ100語で完璧に描ききります。チェーホフは行列の脇に立ち、次から次へと通り過ぎて行く人、物、動物を見つめている。疲れてはいるが、どこか明るい男や女たち。売れ残ったことを喜ぶように駆けて行く一頭の馬が行列全体を勢いづかせ、人の流れの単調さを消し去っていく。ほろ酔い機嫌の百姓が荷台に座って足を揺らしているところも見逃さずにちゃんと書き留める。男の子の吹く玩具のラッパの音が高らかに鳴り響き、フェードアウトしていくかと思いきや、曲がり角の向こうからまだ響いてくる。こうした情景描写の見事な筆致は、チェーホフの作品においていくらでも見つけてくることができます。

しかし、このような達人的技量をさしおいてなお、人々を魅了する素晴らしい点が、チェーホフの小説にはあります。それは作家が、人物たちに与える、弱さや脆さのうちに美を秘めた豊かな〈悲しみ〉の情緒なのです。若松英輔さんのエッセイに次のような一節があります。

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っているというのである。ここでの美は、華美や華麗、豪奢とはまったく関係がない。苦境にあっても、日々を懸命に生きる者が放つ、あの光のようなものに他ならない。

『悲しみの秘儀』若松英輔、文春文庫

チェーホフがいにしえの日本語の微妙な概念を理解していたと言うつもりは全くありませんが、悲しみが持つ非論理的な美しさについては共通の見解を持っていたのではないでしょうか。

チェーホフが描く人物たちは愚かで弱く、無能で、神経質な人たちでした。彼らは結局、何一つ成し遂げられなかったのです。しかし、すべてに敗北はしたけれど、人間の尊厳の意識だけは持ち続けるチェーホフ的人物たちは、たとえ絶望のどん底に這いつくばっていたとしても、絶対に希望を捨てません。チェーホフが書く男や女たちは、弱くて脆いがゆえに魅力的である、としばしば言われます。その点については『荷馬車で』における次の一節がよく引用されます。

«И непонятно, — думала она, — зачем красоту, эту приветливость, грустные, милые глаза бог дает слабым, несчастным, бесполезным людям, зачем они так нравятся».

「全く分からない」、と彼女は思った。「どうして神はこんなにも弱くて、不運で、役立たずな人々に、美しくて、優しい、悲しく、甘美な目をお与えになるのだろう。なぜ彼らはこんなにも魅力的なのだろう」

НА ПОДВОДЕ(http://chehov-lit.ru/chehov/text/na-podvode.htm)

近代ロシア文学において、不滅の真理へ到達するという途方もない目標は、常に文学の道連れであり、最も重要な関心ごとかつ義務でもありました。しかし、チェーホフはこの「不滅の真理」に対してはやや冷ややかな態度をとっているように思えます。なぜなら、真理は論理的な思惟で到達できるのではなく、ただ実践を通じてのみ感じ取ることができるからです。チェーホフにとってそれは自分にできることは何かを考えることであり、学校や図書館を作ったり、医者である自分を頼ってやってくる人々を無償で治し、あまつさえ寝床まで提供してあげたりすることでした。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、詩は「感じる」ものであると言います。詩は、風や光を感じるように感じとられなければならない。海や山がそこにあるように、詩はそこにあるのです。チェーホフの真理に対する態度はこれと似ているかもしれません。真理は言葉で説明できないし、理解もできないが、実践を通じて、真理が放つ精神的な光のようなものは感じとることができる。

チェーホフが描いた人物たちは愚かで弱く、無能な理想主義者たちでした。彼らは何一つ成し遂げられない、役立たずの、哀れな人間でした。彼らはより良い世界を夢想しては現実に敗北し、嘆き悲しむことしかできない。ですがチェーホフはこれを快く迎えます。人生には、深い悲しみを通してでしか感じとることができない何かがあるからです。

    陽はもう落ちて、小川の上や、教会の囲いの中や、工場の近くの空地には濃い、乳のように白い靄がかかっていた。いま、早々と夕闇が迫り、下のほうにともしびが瞬いて、靄がその下に底なしの淵を隠しているような気のするとき、リーパと母親──乞食のような境涯に生まれつき、そのおどおどした、おとなしい心以外のあらゆるものを人に与えながら一生貧乏暮らしをして行かなければならないと覚悟していた二人にも、この広大な不思議な世界、数限りない生活のつらなりの中にあって、自分たちだって生きる値打ちがあるのだ、誰かさんよりは偉いんだという考えがふと浮かんだかも知れなかった。ここの高みにすわっているのはなんとも心地よかった。彼らは幸せそうにほほえんで、いずれは下へおりて行かなければならないことを忘れてしまっていた。

『ともしび・谷間   他七篇』「谷間」松下裕訳、岩波文庫

この忘れがたい場面は何度でも読み返し、ことあるごとに思い返す価値があるように思えます。

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