③わたしにとっての芸術とは

わたしの中での芸術とはなんなのか。
それは、どんな状況下でも慰めだけは与えてくれる存在です。ときには、祈りを可視化して伝えてくれるものでもあります。

これだけは、発信する側、受信する側、それぞれが対等に得られる報酬であり、権利であるとわたしは考えています。

凄惨な状況下の元で、明日の希望は見えないかもしれません。体を起こす力さえ失われる状況に陥ることもあるかもしれません。

しかし芸術に触れた記憶は、記憶の引き出しの中に確かに納められていて、求めたときに慰めだけはそっと与えてくれるものではないかと思いますし、自分の中ではそういうものであり続けてほしいと願ってもいます。その慰めは、生きていくことへのアンサーに繋がることもあるかもしれません。

死を待つ身だとしてもそれがささやかな支えとなることもあり、また、その記憶は自分の中に残されてさえいれば、それは誰にも奪われることのない財産です。

社会がその価値を知らなくても、社会に認められなくても。生きる上で必須なものではなくとも。

そのささやかなものの価値を、生きる上での大きなエネルギーとしての財産価値になることだけは「冷静に」知っている身であり続けたいと、わたし自身は願うのです。

しかし、この価値はすべての芸術に当て嵌まるのかと言えばそれもまた少し違います。

芸術といえど、ジャンルは様々であり、個人の好き嫌いも含めて、ひとつひとつにどの程度の価値があるのかは、芸術を営む人々の中でも差が生じるような気がします。少なくとも、わたしはそうです。

わたしは、この世に存在する芸術と呼ばれるもの、すべてを愛せるような人間ではありません。そしてこのことは、自分が作るものに対しても他者がそのように感じる可能性にももちろん気付いています。

そのような芸術という大きな括りの中で、わたしは別役実さんの作品に、生きていくことを支えられた出来事があります。ですから自分にとっては特別なものですし、別役さんの作品に触れて得る価値をわたしなりに少しだけ、知っています。

正直に言ってしまえば他の作家さんの作品であれば、さらに言えばこの「山猫からの手紙」でなければ、あっさりと公演中止や延期を考えたかもしれません。

ではなぜ、この「山猫からの手紙」をこの状況下でまだ諦めていないのか。手放せていないのか。その理由を④で述べていきます。