④作品から読み取れること、その1

「山猫からの手紙」の中で扱われている、別役さんの描く人間の本質、繰り返される歴史、人間にとって避けられない死との向き合い方という普遍的なテーマは、偶然にも、コロナ騒動の中で改めて注目されるべき点が浮き彫りになっている作品だとわたしは今、感じています。

人間は凡ゆる悲劇の中で、その悲劇と何を取り引きして、何を引き換えに生きているのでしょうか。

わたしは日々の中で、男1のようにふとした瞬間にも「自分は今、何をしようとしているのか」という問いに向き合わされることが何度もありました。そしてそれは、最近さらに増えたような気がします。

コロナの件で言えば、認識している情報以外にも正体不明の「わからない」という漠然とした謎の不安に飲み込まれる瞬間もあったかもしれません。

極限の状態で、それぞれ自分は何をするべきなのか。わたしたちがあるべき姿とはなんなのか。わたしたちが生きていく上で取るべき責任とはなんなのか。

責任とは、使命にも置き換えられるかもしれません。それはもしかしたらきっと本来は、誰かに決められるものではなく、自らの視点で見出し、孤独と戦いながらも、ときに運命や社会の風評に抗いながらも、最終的には己で答えを導き出し、築いていくしかないものかもしれません。

しかし、今自分がしようとしていること、それを瞬間瞬間で省みることは、そのときの自分にとって大切なもの、本当に必要なものはなんなのかを改めて知ろうとする作業でもあります。

それは己の死を意識しはじめた瞬間から生まれる問いなのかもしれません。その問いと向き合い続けなければいけないのは、苦悩との対面でもあります。

しかし、苦悩と付き合い続けてでも「自分は今、何をすべきなのか」「何を選ぶべきなのか」選択肢を拾い集めながら、自らに問い続けることの必要性を、多くの人がこの戯曲から改めて試され、呼び覚まされるような気がわたしにはしたのです。

それはいつか迎える死までに見つけたい、手に入れたい、幸せについての問いかけにも繋がるのではないでしょうか。

己の責任(使命)を越えた先にある「幸せ」とは、ひとりぼっちで生み出せるものではないのかもしれません。なぜならわたしたちはいくら己の責任を果たそうとしたところで、この世界でひとりぼっちで生きていくことには到底向いていない生き物だからです。

この世界と関わり合うことで生を営むわたしたちは必ずどこかで、他者の幸せを願う瞬間も訪れるかと思います。

ちょうど今このとき、わたしたちはきっと共通に、この世界への憎しみや絶望感、無力感を味わい、同時に世界の平穏や幸せについて今まで以上に考え、祈る瞬間があるのではないでしょうか。

その祈りが届いたとき。世界の一部でもある己を含めた、世界全体の幸せが訪れたときに。わたしたちには心から笑える瞬間が訪れるのかもしれません。

他者と共存している世界の幸せを祈る、個の執着を越えた思考。これはきっと誰にでも、本質的に埋められているものだと思うのです。

皮肉にもコロナ騒動のせいで、どこかの誰かが犠牲になっているこの現状で、その思考はより強くなったり、他者との目に見えない結びつきは今まで以上に強く感じたりしませんか。

わたしは、どこかの誰かの犠牲を以って生まれた絶望感と、それによって生まれる祈りを通じて、この世界との結びつきは切れない縁だということを思い知らされたりしました。犠牲は、払うもの側からしたら到底喜べるものではない、ということを解っていてもです。

残酷なものですが、自分や他者への幸せを願うときにはきっと、誰かの犠牲があること、犠牲という概念があることを知って初めて、祈りという概念が生まれたりすることもあるのかもしれません。