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合理的配慮の経験と考察-インクルージョン-

大学において合理的配慮を使用した感想についてここでは述べる。
そもそも合理的配慮とは、インクルージョンの一貫であり、インクルーシブ教育という健常児と障害児が同じ空間で教育が受けることができ、特別支援といった阻害されることなくともに学ぶことでよりよい「共生社会」にしようというものである。サラマンカ宣言やSDGs4においても教育の目標として掲げられておりインクルージョンの促進が目指されている。

私はうつ病(主症状)と広汎性発達障がい(背景)と診断されており、合理的配慮をお願いするときになぜか書類に広汎性発達障がいだけが書類に記載された。主症状のうつ病ではなく、背景にある広汎性発達障がいを合理的配慮として対策をとることを講じられた。たぶん「うつ病」に見えなかったからなのかもしれない。
また、臨床心理学を学んだ教授、カウンセラー、職員もそれほど人の心理に興味がないように感じた。特にある教授は1:1の会話をするときに私の目を見ていないし真顔なのか無表情なのかはたまた素の顔というべきなのか、表情に動きは見られず、明らかに話を聞いていない、もしくは上の空で聞いているように感じたし、メモをとってないから「友達いるの?」「会話できるの?」といったことを会うたび会うたび聞かれて、3,4回聞いてくるものですから、話に興味がないんだなと強く感じたし、2回目以降は文句を言おうかとも思い、怒り心頭に達した。
また、友達の有無について聞くことの裏側の意味として「友達がいても少ないんでしょ」というのが感じ取られ、いい気分ではなかった。

カウンセラーや相談相手ももちろん人間でありやはり相性があるため、少々合わないところがあるのは当然ではある。

あと、合理的配慮のニーズに関する質問を表面だけの会話で行わられ、ニーズに合わないこともあった。それはもしかしたら私が障害と健常の間の、言い換えると黒(障害)、白(健常)のときにグレーになるということ。例として、「丁寧に話してほしい」とすると人によってはまさかの五分もかけて丁寧に説明してくれる人もいて逆にもっとわからなかった。
いわゆるグレーゾーンの場合にはどこまで配慮してここは配慮しないという戦略も難しく合理的配慮を受けて得も損もしなかった感じがした。
精神症状や発達障害、発達凸凹といった能力の凹凸もあくまでグラデーションであり白か黒か分けにくい。

終わりに合理的配慮についての理解、インクルージョンの理解につながる経験にはなったので良かったと思う。
また、このバックグラウンドから私は修士論文において精神的な障害についてインクルーシブ教育を参考として書くに至った。


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