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赤ちゃんのホッペ

日曜日の午後、一人の女性がうちにやって来た。

「すみれちゃんじゃないの?!」母の素っ頓狂な声が玄関から聞こえた。「さあ、入って入って」母と一緒にリビングにやって来た女性の腕の中には、生まれたての赤ちゃん。

寝転がってマンガを読んでいたわたしと兄は、その女性と母をポカンと見上げていた。

「こんにちはっ!! 海斗くんと雪ちゃん!! おおきくなったねぇ!!」女性は、母に赤ちゃんを預けると、わたしと兄の目の前に膝をついて、ニッコリ笑いかけてきた。

わたし達が起き上がると、母が、「すみれちゃんよ! お母さんが働いてる施設にいた。前にも一度遊びに来てくれたのよね!」と言った。母は、赤ちゃんのホッペに自分の頬をくっつけて幸せそうにしている。

すみれちゃんていう人は、またニッコリ笑って、「まだ、二人とも、こんなに小さかったから、覚えてないよねぇ」と言った。「俺、覚えてます!」兄が言った。わたしは...

兄は、「ほらっ! おまえが保育園児の時、一緒に駄菓子屋連れてってくれた人だよ!」と言い、すみれちゃんと、「そうそう、そうだったよねぇ。あの時は楽しかったぁ」と思い出話に花を咲かせていた。

そう言われても、思い出せないわたしは、なんかみんなに置いてけぼりをくわされた気分になったけど、それより何より「わたしも、赤ちゃん抱っこしてみたいっ!!」と、赤ちゃんに興味津々。

恐る恐る母から赤ちゃんを受け取り、ソファに座った。ミルクのいい匂い。髪の毛がフワッフワ。ホッペはマシュマロみたい。ちっちゃいおててとあんよ。

「すみれちゃん、この子、名前なんて言うの?」すみれちゃんは、わたしの隣に座って、赤ちゃんのホッペを指でつつきながら、「のぞみだよ」と言った。希望と書いて、のぞみちゃん。

「すみれちゃん、ぜんぜん連絡取れなくなっちゃったから、どうしちゃったのかなって、心配してたのよぉ」母がキッチンでお茶の準備をしながら言った。「すいません。いろいろあって...」すみれちゃんは、申し訳なさそうに言った。

「いろいろって?」わたしの腕の中の赤ちゃんが、フガフガ言い出した。すみれちゃんは、わたしから赤ちゃんを受け取ると、「わたし、シングルマザーなんだ」と言いながら、立ち上がり、「おっぱいの時間みたい」と言った。

すみれちゃんは、わたしの部屋で赤ちゃんにおっぱいをあげていた。わたしは、見にいく前に、兄に、「来るんじゃないわよ!」と念を押した。兄は「行くわけねぇーだろうがよっ!」と言い、また寝転がってマンガを読みだした。

赤ちゃんは、おっぱいを勢いよく吸っていた。母が、「ちゃんと育ってるね。ママ、頑張ってるじゃないの」と言っていた。「はい」おっぱいを飲んでる赤ちゃんを見ているすみれちゃんは、優しい顔をしていた。

おっぱいが終わり、オムツを取り替えて、わたしとすみれちゃんと母は、リビングに戻って来た。兄は、「今度は、俺にも抱っこさせて」と言って、のぞみちゃんを抱っこした。

みんなでお茶を飲みながらお喋りをした。すみれちゃんは、「わたし、施設にいた時、斉藤さんのこと、お母さんと思ってたよ」とニコニコして言っていた。そして、「斉藤さんてね、職員の中で、一番利用者に人気があったんだよね。優しくて、いつもわたし達の話を真剣に聞いてくれたから」と、すみれちゃんは懐かしそうに話していた。母は、「そんなことないない」と手を振っていた。

「あの意地悪なおばさん職員て、まだいるの?」「もう辞めちゃったわよ」「そうなんだ」

すみれちゃんは、ちょっと元気ない表情になって、「あの人達、わたしのいまを知ったら、また文句言うんだろうな。あの時だって、職員室で、『早く出てけばいいのよ!』とか『身の丈に見合う生活しろってのよ!』て、職員達が話してるの、全部廊下にダダ漏れだったからね。わたし、自分のこと言われてるか分からなかったけど、すごく惨めな気持ちになった。悲しかった」と言って、うつむいた。

「なんだ? そいつら。それでも福祉施設の職員かよ! 最悪だな!」兄が怒って言った。わたしは、すみれちゃんに、お皿に盛ってあったチョコを渡した。すみれちゃんは、「ありがとう」と受け取ると、「だけど、斉藤さんは、いつもその人達に言い返してくれてた。でも、その人達の声の方がでかくて、かき消されちゃってたけど...。だけど、斉藤さんは、いつでもブレないし、自分の立場を守るために、その人達に媚びたりしないから、いつもその人達にいじめられてたよね」

「え?」わたしは、母を見た。母は、「まあね」と苦笑いしながら、頭をかいていた。そう言えば...

ずっと前に、お風呂あがりに、母とドライヤーでお互いの髪の毛を乾かしっこしていた時、母の頭の後頭部に、ハゲが3つあったことがあった。あの時が、そうだったのかも...

すみれちゃんは、チョコを食べながら話を続けた。「わたしさ、子どもの頃から施設で育ったから、大人のことを観察する癖がついちゃっててさ。だから分かるんだ。施設には、上に嫌われないように、ずる賢く立ち回っているかっこ悪い大人と、不器用でかっこ悪いけど、間違ってることにはちゃんと意見してくれて、わたし達にちゃんと向き合ってくれるかっこいい大人がいて、どちらが信用できるかって、もう子どもの頃から分かって、ちゃんと見てた」

「うちの母ちゃんは、かっこ悪くてかっこいい大人の方?」兄が聞いた。「そうっ!」すみれちゃんは、そう言って笑った。「よかったぁ、うちのお母ちゃんが、かっこ悪くてかっこいい大人で」わたしも胸を撫で下ろした。

母は、少し考えていたけど、「そうね、そうだよね、なんか嬉しい。ありがとう」と言いながら、涙を拭っていた。そして、「わたしもね、いつもいつも、迷走してる。何が正しいのかなんなのか、分からなくなる時たくさんある。だけど、いつも思ってるのは、わたしを信頼してくれている子達を裏切っちゃいけないって。この子達に、軽蔑されるようなことを言ったり、やったりしちゃいけないって。だって、あなた達は、わたしの大きな大きな支えなんだもの」と、すみれちゃんと兄とわたしを見て言った。

すみれちゃんを見ると、すごく嬉しそうな顔をしていた。兄も。わたしも。「けど、なんか面白いね! 母ちゃんが支える側なのに、支えられてるなんて」兄は、のぞみちゃんのホッペを指でプニプニしながら言った。のぞみちゃんは、兄の腕の中で、安心してグッスリと眠っている。

「当たり前よ! もしかしたら、わたしの方が、いっぱいいっぱい支えてもらって、元気もらってるかもよ!」母は、ティッシュで涙を拭ってるすみれちゃんの頭を優しくなでながら言った。そして、「愛情って、そうじゃない? 愛情って、一方的じゃないじゃない。相手にもらってるから、こっちもあげたくなっちゃう。そういうもんじゃないかなぁ...」母は、そう言うと、のぞみちゃんのホッペを触りに行った。

すみれちゃんも、わたしも、のぞみちゃんの小さなおててを優しく握ったり、小さなあんよをこちょこちょしたり。

のぞみちゃんが、フガフガし出した。「あららら!!起きちゃう起きちゃう!!」


すみれちゃんを、みんなで駅まで送った。「また遊びに来てね! 待ってるからね〜」わたし達は、改札の向こうに、のぞみちゃんを抱くすみれちゃんが見えなくなるまで手を振っていた。


ランドセルを開けて、明日の時間割の準備をしながら、わたしは雅哉くんのことを考えていた。

「わたし、雅哉くんにたくさんもらったかも。唐揚げももらったし、すてきな詩も書いてもらったし、笑顔もいっぱいいっぱい。わたしも、雅哉くんに何かあげられたかな...?」


続く

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