見出し画像

就活を控えた僕が、タイに行って休学を決めた話(理由③)

前回の続きになります。

大学2年生の春休み、

夜行便でタイから帰国し空港から自宅へ、

久しぶりの日本の香り、街並み、喧噪を味わいながら

すがすがしい気分で帰る朝。

ちょうど通勤ラッシュの時間帯、

駅や電車の中の雰囲気に違和感を感じた。

静まり返った車内、みんな笑顔はなく、

無言でうつむいて手元の画面を眺めている。

なんとなく元気がない。

そして何だろう、この車内に色がない

果たしてこの人たちは今、楽しいのだろうか。

生きていて「最高!」と思っているだろうか。

僕も数年後、この中の一人になるのだろうか。

とても想像ができなかったし、

社会人になることが少し怖くなった。





タイのルーイという所へ行ってきた。

アメリカ、オーストラリアは行ったことはあったが、

アジア圏の国に行くのはこれが初めてだった。

そして当時 ”一人で海外へ行く” ということは

とてつもなく不安だったこともあって、

NICEという団体を利用して、

ワークキャンプというものに参加することにした。


1週間という滞在期間で、

タイ人と日本人の参加メンバーでお寺に寝泊まりして、

僧侶たちと瞑想や托鉢をしたり、

村の人と農作業をしたり、小学校訪問、

養護施設での交流、地域のお祭りへ参加したりと、

現地の人とかなり近い距離感でルーイの暮らしを垣間見た。


仏教のある生活

毎朝3時に起床し、瞑想を2時間行う。

その後村へ托鉢に出向き、8時ごろに食事を摂る。

正午以降は食べ物は口にしない。

それ以外の時間は自身の修行の時間や、

お寺へ来た人と話をしたりする。

就寝は0時ごろで、3時間後には起床。これが僧侶の1日。


画像1

僕たちも瞑想と托鉢をさせてもらった。

お坊さんたちは瞑想中、凛とした姿勢で座禅を組み、

目を閉じ、微動だにせずただただ呼吸に集中している。

ちびっ子僧侶も含めて30人くらいが一斉に瞑想をしているスペースには、

シーンと静まり返って自然の音しか聞こえない。

日の出前のこの時間は、みずみずしく新鮮な

一日が始まろうとする、まさに目覚め前の時間だ。

そして瞑想が終わった後、僕たちに対して

”瞑想はポーズは重要ではなく、場所を選ばずできること”

”僧侶が殺生をしない理由” ”心のメカニズム”のようなことなど、

いろんな内容を、実に穏やかなゆったりとした口調で、

心の底から包み込むような優しさをもって毎朝説いてくれた。

その穏やかさと表情、所作、

タイ語独特のリズムはそれだけで

気持ちがしっとり落ち着く、柔らかな語り口で心地よかった。


日の出とともに、どこかから村じゅうに響き渡る爆音で

東北タイの歌謡曲モーラムが流れ始めている。

何を言っているのかわからないけど、

アジアンな曲調と朝焼けのコントラストが、

自分が今外国の小さな村にいることを実感させてくれた。


画像2

托鉢は村じゅうを歩いて回る。

お坊さんたちに合わせて、裸足で一緒について歩く。

小さな小石も踏みまくるので最初は「痛い痛い!」と

言いながらだったが、慣れてくると

「裸足ってめっちゃ身軽で楽やん」とか思えてくるから不思議だ。

朝6時前だというのに村の人は家の前に

ご飯や果物などを持ってお坊さんたちを待っている。

そして手を合わせて、

各お坊さんの持つ鉢へ少しずつ食べ物を入れる。

決して今日が特別なのではなく、

これが脈々と続いてきたルーイでの日常だということが衝撃だった。

そしてそのやり取りが、穏やかさ以外の何物でもない、

シンプルに「暮らしている」感じがした。


僕が日本のサラリーマンなら、一分一秒を争う忙しい朝、

もしくは一分でも長く寝てやろうと粘る朝、

子どもがいるなら「はよ起きろよー!」

とか言いながらせかせかと洗濯やら家事をしながら

あっという間に時間が過ぎる朝、

そんな気持ちが急いている時間帯に、

こうして歩いてくる僧侶にじっくり手を合わせて

自分の食べ物を差し出すことはできないだろう。

「もーなんでこんな時に坊さん来るねん!」

とか思いそうだ。



托鉢は、金銭を所持しない僧侶にとって、生きていく術の一つだ。

他者からの施しがなければ、僧侶は生きていくことができない。

そのお寺で一番偉いお坊さんがスマホを持っていたので

「それは?」と尋ねると、これも「人からの施し」だという。

仏教徒の村の人にとって、こうして食べ物など

自分のものを分け与える、差し出すという行為は

”徳を積む”ことであって、相手に与えると同時に

自分の来世をより良いものにすることにつながっている。

僧侶は村の人のために存在し、

村の人は僧侶やお寺を通じて修行をしている。

両者ともに共存した上に一つの暮らしが完成されていた。

日中は日中で、村からいろんな人がお寺に来ては、

お坊さんと話をしたり、集まった者同士で談笑している。

しかも結構長時間喋っている。みんなのんびりしている。

確かにお坊さんは社会的に尊敬される立場ではあるようだが、

だからと言って下手な物言いはできないような、

こちら側がへりくだるような、そんな雰囲気でもない。

子どもからお年寄りまで、みんな同じように接し、

穏やかな表情をもって話をしている。

目上の存在ではあっても、それを振りかざすようなものがなく、

実に自然な、平和な空気がそこにはあった。

かつての日本のお寺やお坊さんも、こんな距離感だったのだろうか。



目が違う

昔日本に働きに来ていたという男性に出会った。

画像3


エアコン製造工場で働いていた彼は今、

農業を主な仕事にしているが、

「ここをいろんな国の人たちが集まれる農場にしたい。
まだお金はそんなにないけれど、僕はそれが夢なんだ。楽しいよ」

と、屈託のない笑顔で目を輝かせて語ってくれた。

彼の横には、そのまっすぐさに惹かれたという

新婚の中国人の奥さんがいた。


ワークキャンプの参加メンバーと”将来の夢”を語ることがあった。

ある人は「とにかく日本に行ってみたい。日本が大好き」

ある人は「お金持ちになりたい。たくさん旅行したい」

ある人は「日本で働きたい。だって日本はきれいで安全で、

都会が広がっていて憧れの場所だから」

ある子は「頭がよくなって良い仕事に就きたい。いい学校に行きたい」


聴いていて恥ずかしくなった。

僕には夢があるだろうか。

いやむしろ、将来どういった仕事がしたいとか、

夢だとか、そんなまっすぐなキラキラしたものは

「子どもっぽい」とさえ思っていなかっただろうか。

「したいこと」よりも「すべきこと」を

考えていた気がする。


そんな子どもっぽい無邪気な夢を、

絶対叶えんとばかりに声高に話す年の近い彼らとの出会いは

ある意味衝撃だったし、居心地がよくも感じた。

「なんでこんな楽しそうに、キラキラしているんだろう」と。


毎日僕たちに説法を解いてくれていたお坊さんが、

僧侶になった理由を教えてくれた。

「私は元々街へ出て会社員として働いていた。けれども毎日、時間通りに起きて働いて、お金のことを考えながらお金を浪費する生活、一つ一つ選択しなければならないものがたくさんある生活に疑問を覚えた。”このままの生活で死んでいっていいんだろうか”と。今は、出家してよかったと思っている。たいていの人たちの生活は選択の連続だが、我々は毎日起きてどんな服を着るか、どんなものを食べるか考える必要もなければ、これが欲しいがお金が足りないと嘆く心配もない。ただ、あるもの、いただいたもので生きている。まったくもって心配の種はなくなった」


ルーイでの滞在中、色んな村の人たちと出会い、

色んな歓迎、おもてなし、話をしてもらった。

全員に共通していることは、

誰一人急ぐことなく、笑顔で、話の途中でも

道ですれ違ったりするとすごく楽しそうに話を始める。

”穏やかさ”がみんなあった。

画像4

集合写真

画像5

笑顔でトレッキングに同行するお坊さんたち

画像6

ちびっ子僧侶たち

画像7

山の頂上から



よし決めた

ルーイでの日々が衝撃の毎日だったことで、

帰国してからも、日本での感覚のギャップを感じた。

過剰なまでの作り笑顔のサービス、

何十秒かズレただけで謝罪する交通機関、

過労死や自殺に追い込まれる労働環境、

右に倣え的な同調圧力、出る杭は打たれる風潮、

「みんな違ってみんないい」と言いながらはみ出すと怒られたり、

高校までは「組織に染まる」ことを教えるのに、

大学に入ると「個性がないと会社は取ってくれないぞ」

とかいう教育、

夢を語る人に「大人になれよ」という冷ややかな目線。

妻帯も肉食も許される仏教。


こんな混沌とした、納得できない感覚で、

希望の光を感じない日本社会で、

就活できるか?学生生活全うできるか?

働くってなんだ?暮らすってなんだ?

生きるってなんだ?世界ってなんだ?自分ってなんだ?


「タイの山奥の村だけでもそれほどの衝撃があったんだから、

もっとほかの国を見てみたい」

さんざん「学生は時間が山ほどある」と言われてきた中で、

外国に行きたいだけ行けるのは今が一番だろうとも思った。



決めた。

僕は来年1年間休学して海外を周る。


この記事が参加している募集

いただいたサポートは、僕が応援したい人のために使わせていただきます。よろしければお願いします!