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壁抜けしてもしなくっても、世界はひとつじゃないし、わたしもひとつじゃない。

75歳でトライアスロンを続けている夫と、74歳で長編小説をお書きになるランナーであり、トライアスロンもご経験のある村上春樹さん。共通しているのは同世代という他に、体力知力をそこに集中させ、メタファーとしての長距離ランナーでもあり続けることだと思います。

もちろん夫の走ることと、村上春樹さんの走ることは全然違うのだけど。

「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させる」というのが村上春樹さんの第1目的で、だからこそ村上春樹さんの小説がチャーミングなんです。それは文武両道ということではなく、バランスと距離のおきかただと思います。トライアスロンの3種目をこなすには、視野を広く持ち多様性が必要なんです。「多様性」表現は村上春樹さんは好まないんだろうな。こうした言葉でなく、物語の中で語っていくのがプロなんでしょうね。

村上春樹さんの小説のパラレルワールド、2つの世界。影のある世界と影のない世界。どちらにしても世界はひとつじゃない、自分が選んで自分に合う場所を探していきたいなと前向きに思える物語です。

街とその不確かな壁  村上春樹

十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。

新潮社

1985年に書かれた『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』とつながる部分があり、街の地図を見ながら楽しむことができました。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』にある地図。『街とその不確かな壁』には地図はないです。

高校生の時に出会った100%の女の子と恋に落ち、すぐに彼女を喪失してしまいます。40代になっても忘れられない主人公である「私」が、彼女を追い求め、「高い壁に囲まれた街」に会いにいくピュアな想像と創造をめぐる物語です。

彼女がいる街は、影も心もありませんが自然が厳しくも美しく争いもなく穏やかに暮らしてます。閉鎖的ではありますが、守られてます。

壁って、越えなければならないってイメージがありますよね。マラソンでも30kmの壁があるし。

アスリートとしての壁について羽生結弦さんが語ってました。

壁を乗り越えたけれど、その先には壁が見えました。
壁の先には壁しかありませんでした。
でも人間とは欲深いものだから、課題が克服できたら越えようとする。
僕は人一倍欲張りだから、何度でも越えようとするんです。

羽生結弦選手

村上春樹さんの小説の中の壁は越えるものでなく抜けるものなんです。なにかの瞬間にするりと、どすんと。

羽生さんに限らず、これも欲張りなんでしょうね。きてみたけど、やはり戻りたい。ここではない。いや、残りたい。

その街に行かなくてはならない

イエローサブマリンの少年

行かなければという少年もいます。その少年しかできないことがそこでできるから。

壁って超えなくっても、抜けられなくっていいんじゃないかな。守ってくれるし、そこに逃げてもいいし、闘ってもいい。自分がそこで守ってもいい。

僕は思うのですが、街を囲む壁とはおそらく、あなたという人間を作り上げている意識のことです。だからこそその壁はあなたの意志とは無縁に、自由にその姿かたちを変化させることができるのです

イエローサブマリンの少年の大学生の兄

誰にでも「高い壁に囲まれた街」はあるのかもしれない。


影を剥がされた「私」は影と「私」に分裂します。

わたしは、ふたりいます。ひとりじゃない。
そして、世界もふたつ。ひとつじゃない。

どっちが嘘か本当なんて関係ない。

本物でも偽物でも、そのへんはもうどちらでもいいことです。事実と真実とはまたべつ のものです。

イエローサブマリンの少年

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行 = 移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。

村上春樹 あとがきより

 ひとつのところに定まらない。変化、移動する。

トライアスロンは多様性のスポーツでもあります。ひとつじゃない。3つある。

ひとつじゃない、他の世界もある、そう思うと楽しいし強くなれる。


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