人からの愛を素直に受け取れない
タイトルそのまんまが長年の悩みだったりする。
タイトルだけを読んで不快な気持ちになった人はそのままブラウザバックしてもらった方が精神安定上いいと思うので先にこうして言っておく。
今までの大学時代を振り返ると、家族よりも家族じゃない人から愛されることが多かった。
私は家族を愛していて、家族からも同じぐらい私を愛してもらえることを夢見ていた、いやそれは夢だと気づかないくらい現実が見えてなかった。
家族からの欲しい愛をもらうことはできないけど、元々望んでいたわけではない人たちから
「一緒に遊ぼう」
「可愛い」
「好き」
「付き合ってくれませんか」
と言われたり、自分の相談に乗ってくれたり、話し相手になってくれたりとこの人たちから愛をもらう機会は多かった。
でもその人たちからもらえる愛はどこかチープに感じてしまうものや性欲が見えるものやその場は心が満たされても帰りの電車に乗る頃には「なんか違うな」と思うぐらいに価値を感じられていなかった。(もしかすると私の勘違いで本当にまっすぐな愛を送ってくれていたのかもしれない。寧ろそうであってほしいような、いやそうじゃないほうがいいような。…複雑。)
でも、親友や地元の数少ない遊び仲間からの声や言葉や行動からみえる愛は嬉しくて「あなたのことが大切だ」「あなたが必要だ」ということを伝えてもらったら心にスッとぽかぽかした気持ちが入りこんできてそれはもうたまらなくうれしいことだ。
声に出せていないけど「もっと愛してほしい」という気持ちになるぐらい満たされて心地が良かった。
でも、自分の心のどこかに
「大切な人や好きな人に甘えていてはバチが当たるぞ」
「偽りなく愛してくれてるはずなのに、なんでだろう、どこか不安…」
「私は愛をもらいすぎていて自分は愛をもらってばかりで返せていないんじゃないか」
と結局、不安になってモヤモヤして好きな人や大切な人との距離感がうまく掴めないことがある。
認めたいような認めたくないような気持ちだけどこの際だから話すと、私はかなりの寂しがり屋で気分屋だと思う。
知ってる人は知ってることかもしれないけど。。
少なくとも親友には見抜かれている。というか、親友から「寂しがり屋だからうさぎみたい」だと言われたり、「人を振り回すよね」と言われたことがあって、その時は「その通りだよ」とストンと椅子に座ってしまいそうになるぐらい心や気が抜けて、反論できなかった。
寂しがり屋も気分屋も自分の場合は可愛いなんて言葉で済むようなものではなくて、とっても厄介なものだと思う。
自分の寂しさがある程度満足したら、唐突に〝今は一人で居たい〟なんて気持ちになる。
勝手だよね、ほんと自分でもこういうところが嫌だなと思うことがしばしばある。
気分屋なところも、あまり親しくない人が寂しがってたらなんとなく「大丈夫?」だなんて声をかけて気を使えるけど(正しくは、何故か放っておけない気持ちになるから自分の気持ちを落ち着けるためにも声をかけている、たぶん)
気を許してる人ほど、この「大丈夫?」と言ってなかった気がする、言えてなかった気がする。
何故、親しくなると雑な対応をしてしまってるのだろうか。
いくら親しい人でも雑に扱われたら「嫌だな」って思うだろうし、自分のことを軽く扱われているようで気を悪くすることは想像できるのに自分のやってる行動って頭の中の考えと真逆じゃないかと思った。
最近は自分にとって大切な人とあまり親しくない人での接し方や時間の使い方が矛盾していると気づいたので、大切な人に沢山の時間を使えるように気をつけてみている。
私と同じ歳なのに
「寂しい」
「誰かとコミュニケーションを取りたい」
という気持ちが頻繁にやって来ず、満たされてる人と私って何が違うのだろうと考えてみた。
私の持論ではあるものの、
やはり家族から受けてきた〝愛情〟の差だと思う。
どれだけ幼少期や学生時代に親などの家族から愛を受け、わがままも受け止めてもらい、そのままの自分を認めてもらえたかだと思う。
ほんとはもっとある、でも具体例をひとつひとつ挙げていくと少しメンタルが沈みそうだから今は考えないでおく。
他の人から「家族から愛されてるね」って言われても自分では家族から愛されてると気づかないぐらい、愛されてきた人なら、「他人からもらう愛情」も疑わずに済んだ気もする。(「疑う」だなんて相手に失礼だと思うし、相手のことをちゃんと信じていないのではと自分でも自分が嫌になるのにそれでも「疑う」ことをしてしまうのだ、ほんと厄介だよなあ…)
必要以上に気を使うこともなければ、自分はたくさん甘えても大丈夫なのだと、人から愛されるということに値する存在なのだと思えたのではないだろうかと思った。
家で1人は寂しい。
家に家族が居るけど、交流がないのはもっと寂しい。
家族ともっとくだらないことや悩み事をしゃべりたいし、何気ない日々というものもたくさん過ごしたいのにな。。
祖母が居た頃の我が家ってもっと温かかったことを知っているからこそ、今の家庭の空気がとても肌に堪える。
今のままじゃ私は我が家を嫌ってしまいそうで、そのまま嫌うことは避けたい。
今の私は、家族を嫌いたくない気持ちが強い。
私が親や家族に対しての反抗期のようなものがいつ来たかという時期は忘れていたし、なんなら今もまだ反抗期なのかもしれない。
というか、この春からは反抗期だと自分で認定している。
というのも、春から家を出るからだ。
引っ越しというよりも家出に近いと思う。
母は休学に対して当初は否定していたし、休学の話をすると「大学を辞める気??」と何度も言ってくるものだから、辞める気はないということを伝えても信じてもらえず何度か喧嘩になった。(今の母はいつもの放任主義モードのようで放って置いてもらえてるので休学も納得しているわけではないけど理解はしているよう…に見える)
でも親から否定されてさらに「休学したい!家を出たい!!」という気持ちが強くなったから、休学の動機は、親への反抗も含まれていると思うのだ。
自分のやりたいことがあって休学するという気持ちの割合の方が大きいものの、
その他は
「就活の時間(大学卒業後どう生きるか考える時間)がもっとほしい」
「同じ歳の子よりも辛い気持ちをしたって思うから、その分一年くらい遊ばせてもらってもいいじゃん」
「何かから愛されたいし愛したい」
というような誰かから見たら怒りや反感を買うような自分の気持ちのカケラがゴロゴロと転がっているようなイメージだ。
親から自分が求めてる分の愛を受けなくても強く生きてる人はいるだろうし、私の考えに否定したい人だっていることはわかってるけど、でもやっぱり自分の人生だし、親から愛されなかった分、欲しい愛の分、多分1年じゃ足りないけれど、とりあえずこの春からの1年できる限り目一杯自分のことを愛したいと思う。
そうしたら、家族愛溢れる映画を観て嫌悪感を覚えることや他の家庭の何気ない温かい家族団欒エピソードも嫌な気持ちをせずに聞ける気がする。
あと、自分の自尊心の回復にもなる気がするし、生きるのしんどいなっていう気持ちが軽減すると思ってる。
「ニッキーさんってしっかりしてるよね」
「ニッキーさんって強いよね」
っていう言葉を聞くたびにその人には甘えられないんだなって思って苦しかったけど、春先からは新天地で新しい人、そしてオンライン上で関わってた人と生活できるからこそ、ほんのちょっと気を緩めて生きてみたいと思う。
「ニッキーさんってしっかりしてるよね」
⇒私:しっかりしてるようにしなきゃ生きていけほど辛いんだよね。
「ニッキーさんって強いよね」
⇒私:弱さを見せられる強さがないから、甘えられる強さがないから"強がる"しかできないんだよね。
この1年は、⇒の私の気持ちに素直で居たい。
なんだかずっと親の批判を書いている気がするから少し補足すると、私は親から愛を全く受けてこなかった訳ではない。
愛することや愛されることを周りと比べることに対して"良いこと"だとは思っていないけど、少なくとも自分の周りの人よりも愛されてこなかったと思っているし、もっと愛される対象で居たはずだ。
というか、そう思っていないとちょっとごめんなさい、心がもたないです。
ヤワに見える自分の心をお世話するのが難しくて、メンタルコントロールなんて言葉とはかなり遠い場所に在る気がしているけれど、自分自身が絡めてた「なにが1年ご自愛するための休学だ。甘ったれが。」っていう嫌なツタは断ち切って、私が私らしく生きやすいレールを敷いてみることに今年の春から挑戦したいと思う。
不幸中の幸い、まだ逃げれるメンタルも余力もある。
でもあと1年耐えたらほんとうに心がもたない気がしてたからこその今からの休学だ。
いつかの休学のために辛くても単位を落とさないように頑張って計画通りに単位も習得した。
"休学のためだ"と思ってズタボロになっても走り続けてみた。
だからこそ、1年くらい休んだっていいじゃないか。
いや、誰かに否定されても少なくとも私は
今の自分に
「大変だったね、お疲れ様。これからは少し楽になっていいんだよ。」
って声をかけて頭を撫でて労りたい。
家を出るまであと少し時間がある。
だからもう少しだけしんどいかもしれないけど、目の前に光がみえていると思えば、今の状況も悪くないように思えるかもしれない。
大丈夫、きっと光を掴めるはず。
だから安心して、家を出よう。
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