ビーガンについて調べてみた

背景

どこかの記事で「ビーガンと菜食主義は異なる」というような主張を見て、その違いをあまり認識していなかったのでビーガンの人たちの価値観に興味を持ち、ビーガンという生き方という本などを参考に少し調べてみた。

ビーガニズムは「脱搾取」という思想

ビーガンは日本語にすると「脱搾取派」と表現され、それはビーガニズム(脱搾取)という思想からきている。何を搾取することを脱するかというと、動物の搾取である。

ビーガンを理解する上で大切なのが、その根本思想に「動物も人間同等に痛みを感じるのだから、動物も倫理の対象に含めて人間同様の権利を認め、"物"ではなく"者"として接するべきだ」という倫理観の拡張がある点である。

その思想の前提としてあるのが、特に工業化以降、人間の生活を営むために大量の動物が都合よく扱われ、あるいは殺されているという事実と、それが虐待虐殺、非人道的であるという解釈である。

例えばある鶏の採卵施設場では、狭い檻に雌鶏が押し込まれ、ストレスで他の雌鶏をつつかないように嘴の先を切られ、摂餌ができずやせ細り、2年ほど経って体がボロボロになると屠殺場へ送られるか二酸化炭素でガス殺される。肉用鶏のブロイラーは、短期間で卸せるように選抜育種や成長促進剤などを用いることで、一昔前は85日必要だった育成期間が45日まで短縮され、そうした施設で肥育されるほとんどの鶏が体の急成長に骨格が追いつかずに体を支えられなくなり脚異常を負う。

そして上記のような扱いが虐待であり非人道的である、なぜなら動物も人間と同じように痛みを感じる生き物だからだ、というのが本書の主張である。

その他、化粧品を生み出す過程での動物実験や毛皮の服飾品や、動物園や水族館の娯楽施設なども、人間が自分の都合のために動物の権利を侵害していると考える。

こうした動物の搾取をやめようという思想がビーガニズムで、その実践者がビーガンである。

ビーガニズムと菜食主義の相違点

これまでみてきたように、ビーガニズムと菜食主義の相違点は、菜食主義はあくまで食べ物のみを対象とした思想なのに対し、ビーガニズムは食べ物から動物実験、娯楽なども含めた動物搾取に関わる行動全般を対象にしている。

ビーガンやベジタリアンのブームの一因として、健康やダイエット、環境負荷の低減などへの関心の高まりもあるだろう。ただ、ビーガンはあくまで動物の脱搾取が目的であり、健康面や環境負荷への影響は副次的なものである。

ビーガンの実践例

そのため、ビーガンの実践例は以外のようなものがある

  • 消費者たる自分の特権が変化を起こせるという認識のもと、自分なりの非暴力の輪を広げ、それにしたがって行動する

  • 植物由来の食生活

  • 皮や羊毛など動物由来の衣類を故意に着ない

  • 動物実験がされた日用品を故意に買わない

  • 動物搾取ビジネスの娯楽施設へは避ける

ただ、現実的に日常生活の全てから完璧に動物の商業利用が関わっているものを除くのは無理があるので、あくまで動物への思いやりをベースとしながら、可能な範囲で実践することが勧められている。

完璧でないとビーガンになれないわけではない。

また、例えば狩猟採集民の生活を否定もしない。生きるために狩猟採集が必要な環境では止む終えないし、全人口からするとそうした民族の割合は酷少数なので、選択肢がある大多数が行動するだけでも多くの価値があると考える。

ビーガンについて調べてみての感想

これまで僕はビーガニズムと菜食主義との区別がついていなかったので勉強になったし、世の中をみる視点を増やせたのは収穫である。

また、商業利用のために工場や漁業現場でどのように動物が扱われているのかは以前授業で見たことがあり、その時の映像は今も脳裏に残っているし、授業後には放心状態になって動けなくなってる人ないたのも印象に残っている。それくらいショッキングなものだった。ただ、正直僕は、それでも日常生活の中でビーガニズムを意識することはほとんどない。なおさら多くの人にとってはそうしたプロセスは普段意識できず、加工されたものを坦々と消費するだけで、ビーガニズムの実践にいたるほどの動機づけが難しいんだろうなと思った。あるいは「わかっているけれども生活に必要だし、美味しいもの食べたいし」という認知的不協和に晒されるのが不快で無視したくなるんだろう。

倫理の対象は時代を経てどんどん拡張してるので、もしかするといつかは今のビーガニズムが当たり前になるのかもしれない。過去には奴隷や女性は倫理の対象とならず「所有物」として扱われていた時代もあるし、近年では動物倫理学という学問もあり、動物愛護管理法で愛護動物も倫理対象になっているのはもはや世の中のデファクトスタンダードだろう。そのためいずれその対象が愛護動物から動物全般に普及してもおかしくないのかもしれない。愛の対象を種を超えて拡大したいと欲するのはヒトの性なのかもしれない。ただそのためには、動物を利用せずに生活できる技術が必要で、代替肉技術が一つの転機になっているのだろう。

さて、僕自身は、ビーガニズムの思想には共感できる。犬や猫を人間の都合で殺すのは駄目なのに同じ動物でも家畜は良い、というのは矛盾があると思うし。生きるために必要な人もいると思うけど、多くの人にとって代替手段があるのが今の世の中。また先にも述べたように倫理の対象、あるいは愛情の対象を種を超えて拡大していくのはヒトの想像力の賜物で自然なことなのだろう。ただ、実践はかなり控えめになってしまいそうだ。もともと肉にそこまで食欲がないが、魚介類は大好きだし、正直今後も食べたいと今は思っている。代替海老があったら食べてみたいけれども。日々の日用品に動物由来の成分や動物実験がされてないかを念入りにチェックも正直しないと思う。そういった意味ではそこまで強くビーガニズムの思想はインストールできていない。ただ、目の前に同様の商品が2つ並んでいて、片方が動物由来が一切なく、かついずれでも自分のニーズを満たせると判別できるのであれば、少々価格が高いくらいであれば前者を選ぶだろうし、同じ肉を食べるにしても、なるべく環境の良いところで愛情を持って育てられたであろう方を選ぶなど、小さな行動は取り入れている。完全に動物由来は断てなくても、「いただきます」の精神を改めて意識するだけでも変化はありそうだ。 



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