渋柿@フランス

在仏10年超。EU永住権取得。語学、音楽、筋トレ。

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マガジン

  • 私の音楽遍歴

    エレクトーンから始まった私の音楽遍歴。紆余曲折を経てようやくフランスで職業音楽家を名乗れるようになるまで。

最近の記事

32ビックバンド部の思い出 ジャズ理論を勉強するも耳コピに頼る

普通の大学に入学後、ジャズのビックバンド部に所属した私は、ジャズピアノを弾くためにジャズ理論を勉強し始めた。 音楽理論自体は、エレクトーンを習っていた時代に松田昌さんが書いた理論書で勉強したことがあった。こんな古い本を今でもAmazonで入手できるとは。表紙をみるだけで懐かしい。 新たにジャズ理論の教本を買って勉強してみると、モードというのが出てきて難しそうに感じたのだが、書いてあることは理解できた。 コードについても、エレクトーンで弾いていた時のコードよりもテンション

    • 大聖堂のパイプオルガンコンサートに行ってきた

      昨晩は、隣町までオルガンコンサートを聴きに行ってきた。文化遺産となっている大聖堂があって、立派に修復されたパイプオルガンが設置されている。 夏のシーズン中に何度かコンサートがあるので、子供や夫と何度か足を運んだことがある。昨晩は、子供は友達とバカンスに行っていて留守、夫は出張中で留守、ということで、一人で行ってきた。 高い位置に設置されているパイプオルガンは、客席から見えない位置に演奏席がある。しかし、親切にも客席の前方にスクリーンで奏者を写しだす形式のコンサートが多い。

      • 31ビックバンド部の思い出 ジャズを聴きまくる幸せ

        音大ではなく普通の大学に進学してすぐにジャズのビックバンド部に入部した私は、体育会系独特の上下関係に困惑しつつも、ジャズのCDを聞いたり、ライブに行ったりすることに幸せを見出していた。 エレクトーンのT先生がジャズ好きであったし、井上先生もスタンダードジャズのアレンジ譜を多く書いていたので、かなりの曲数のジャズの名曲を弾いたことはあった。こういうの好きだなー、とずっと思っていた。 しかし、自分の身の回りでジャズを積極的に聞いている人はいなかったので、CDを持っていなかった

        • 30ビックバンド部の思い出 房総半島での新歓合宿での入部儀式

          大学入学してすぐにビックバンド部に入った私は、ゴールデンウィークの頃に千葉の内房のとある田舎までビックバンド部の新歓合宿に出かけた。 チェー年(1年生のこと)は10人近くいたと記憶している。合宿場には、宿泊施設と合同練習場がある、民宿風の宿であった。施設が整っているのでおそらく、他の音楽系団体も合宿に使っていると思う。 音楽系の部活に初めて加入した私は、ワクワクして参加した。都心からJRに乗って内房の片田舎までは、とても遠かった。チェー年同士で親睦を深めつつ、昼は練習、夜

        32ビックバンド部の思い出 ジャズ理論を勉強するも耳コピに頼る

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        • 私の音楽遍歴
          32本

        記事

          29ビックバンド部の思い出 普通の大学の部活でピアノを弾く

          高校2年生の時に音楽の道に進むのを諦めて一旦音楽から離れた私は、受験が終わって普通の大学に入ったとき、ジャズのビックバンド部に入部した。 受験生時代から、大学に入ったらビックバンド部に入ると決めていた。T先生のところに雇われていたピアノのA先生の旦那さんが、都内の私立大学に在学中にビックバンド部でドラムを担当していた人だった。A先生と旦那さんには私が高校生の頃からよく食事(飲み?)に連れて行ってもらっていて、その度に、青春時代のビックバンドの話を聞かせてもらっていた。 そ

          29ビックバンド部の思い出 普通の大学の部活でピアノを弾く

          28エレクトーンの思い出 進路選択と潮時

          高校2年生になっていた私は、進路選択を迫られていた。 音楽を続けたい、でもマンネリを打破したい、私はもっとできるはずだ、やめるのは何か違う、という思いがぐるぐるしていた。ヤマハ音楽院もいいかもしれない。 しかし、答えは自然とでていた。感情が付いていかないだけだ。 T先生からは、食べていくのが大変だからという理由で、何年にも渡って音楽の道に進むのは反対だ、と言われてきた。先生は今で言うところのシンママだったので、稼ぐ苦労は嫌と言うほどしてきたのだろう。音楽しかできない子だ

          28エレクトーンの思い出 進路選択と潮時

          27ピアノの思い出 高校生の私、ピアノを教える

          当時はバブルはすでに崩壊していたが、音楽教室は流行っていた。ピアノのH先生がいなくなった後に、同じく武蔵野音大を出たばかりのABC先生を迎え入れたのだが、それでもたまに手が足りない時には、高校生になっていた私が動員された。当時私は、ヤマハ目黒センターで井上先生にエレクトーンを習っていた。 T先生のところで数ヶ月間子供の生徒を教えさせてもらった経験は、一応「指導経験あり」ということになるので、たまに使わせてもらっている。私の指導は、あまりいいものではなかったと思う。高校生の私

          27ピアノの思い出 高校生の私、ピアノを教える

          26エレクトーンの思い出 ヤマハ音楽院の発表会を見に行く

          あるレッスンの日、井上先生からチケットをもらった。先生が教えていたヤマハ音楽院(確か校長をしてらっしゃったと記憶している)の発表会のチケットだった。先生はこの日行けないから、代わりに行かない?とのことだった。これは興味深い。 2枚いただいたので、母と一緒に見に行った。確か、田町か浜松町が最寄りの音楽ホールだった。 ヤマハ音楽院は、川崎にある専門学校だったと記憶している。私よりも少し年上の生徒たちが、華麗な演奏を繰り広げた。T先生の音楽教室の発表会くらいしか生の演奏を聞いた

          26エレクトーンの思い出 ヤマハ音楽院の発表会を見に行く

          25エレクトーンの思い出 井上先生とのELでのレッスンとマンネリの再来

          ヤマハ目黒センターに通うようになって、私のマンネリはだいぶ解消された。毎週水曜になるのが楽しみだった。 井上先生とのレッスンは、当時最新機種のEL-90で行われた。ヤマハ目黒センターの音楽教室がある階の廊下には、防音室がズラーっと並んでいた。 先ずは、先生が出したばっかりの曲集を買ったと記憶している。ジャズのスタンダードのEL用アレンジ譜であった。 井上先生のアレンジの特徴は、とてもおしゃれで短めであった。実際に弾いてくださると、とても繊細で、今まで演奏を聞いたことのあ

          25エレクトーンの思い出 井上先生とのELでのレッスンとマンネリの再来

          24エレクトーン再開 井上晴夫先生のところに習いに行く

          高校生になった私は、またT先生のところでエレクトーンを再開した。やめるのはなんか違う、そのうち松田昌さんに習えるかも、その想いだけだった。 往生際の悪い生徒だ。 再開してすぐの頃。T先生から、井上晴夫さんのところに習いに行くか?と提案された。エレクトーンのプレイヤーでアレンジャーだったので、譜面上で名前はよく拝見していたし、T先生とは古くからの知り合いだ、と以前から話には聞いたことがあった。当時、井上先生はヤマハ音楽院(確か川崎にあった専門学校)の偉いさんであった。 T

          24エレクトーン再開 井上晴夫先生のところに習いに行く

          23エレクトーンの思い出 マンネリを打破できないまま休会する

          私が中学生の頃に、エレクトーンはHS時代を迎えた。T先生の教室では、普通の大学生でエレクトーン歴の長い生徒Jさんに教わることになった。 ピアノに比べれば簡単な曲ばかりのエレクトーン。新曲を練習してもすぐに弾けるようになってしまう。レジストを組むのが好きなJさんは、試行錯誤してレジストを組んでは私に弾かせる。私は家にHSを持っていないので、Jさんの組んだレジストで弾いてみるだけ、Jさんからは特に奏法のアドバイスは無し、とにかく早く仕上げて弾くばかり、のルーティーンに陥ってしま

          23エレクトーンの思い出 マンネリを打破できないまま休会する

          22エレクトーンの思い出 母にグレード5級を取ってくれと懇願される

          マンネリを感じつつも辞めるのも違うと思いながらエレクトーンを続けていた頃。母親にエレクトーンのグレード5級を取るように懇願された。 母は5級特別対策をしているという別の教室に話を聞きに行ってパンフレットをもらってきてしまった。ここなら、何ヶ月通ったら合格できる実力をつけさせてくれる、と言っていた、せっかく習ったのだからせめて5級くらい取ってくれ、と懇願された。 マンネリに陥っていた私は、ちょっと違うことをやってもいいかな、という思いと、ここで親の言うことを聞いたらこれ以上

          22エレクトーンの思い出 母にグレード5級を取ってくれと懇願される

          21エレクトーンの思い出 JさんとHS時代の到来とマンネリズム

          私が中学に入ってから習うことになったJさんは、当時、普通の大学生だった。自宅が裕福だということで、最新機種のHSを発売と同時に所有していた。 HSの最大の特徴は、レジストレーションをフロッピーのような外部記憶装置に保存して持ち歩けることだった。見た目もFSに比べるとかなりスタイリッシュになった。 レジストレーションを組むのが好きだったJさんは、このフロッピーのような四角い外部記憶装置をたくさん持っていて、ジュラルミンケースのようなケースに入れて持ち歩いていた。 松田昌さ

          21エレクトーンの思い出 JさんとHS時代の到来とマンネリズム

          20エレクトーン再開 H先生はもういなかった 大人の悲しい人間関係

          中学受験が終わり、中学に入ってからすぐにエレクトーンとピアノを再開しようと、T先生の教室に連絡をした。 H先生は、すでに辞めておられた。T先生の言葉の端端から推測すると、解雇してしまったらしい。 ショックだった。 しかし、T先生が人間関係を突然リセットしてしまうのは、過去にもあった。一緒に独立したピアノのS先生とJ先生だ。いなくなった後に文句を言っていたから、知っている。 後年T先生がいうには、T先生がH先生に「もうこなくていい」と言い渡してやめさせてしまった、という

          20エレクトーン再開 H先生はもういなかった 大人の悲しい人間関係

          19エレクトーンとピアノのレッスンが一番充実していた時と終わりの始まり

          私が小学5年生から6年生にかけて、エレクトーンの機種ではFSが主流の時期でHS登場前夜までが、一番充実したお稽古ライフだったと思う。ピアノで培ったタッチと、エレクトーンの面白さが融合していたからだ。 学校では、校歌のピアノ伴奏役になっていたし、市内の合唱祭で伴奏したりしていた。このように学校で一目置かれることもあり、あまり治安の良くない学校とはいえ、いじめの対象になることもなく平穏に暮らすことができた。 エレクトーンでは、松田昌さんのアレンジとかオリジナル曲でかっこいい曲

          19エレクトーンとピアノのレッスンが一番充実していた時と終わりの始まり

          18ピアノの思い出 習い事の副効用

          ピアノでもエレクトーンでも何でも良いのだが、音楽を習っていると、子供でも学校や家庭以外の人間関係を築くことができる。これは、家と学校の往復しかするしかない子供にとっては、世界が広がり、息抜きの場にもなる。 ある時、武蔵野音大の卒業生たちの演奏会にH先生が出るというので、T先生と一緒に大きな花束を持って横浜の市民ホールまで聴きに行った。ちょっとした遠足のようで、ワクワクした。現地では、教室の他の生徒たちとも合流した。大学生だった。 H先生は、自分に与えられた曲が好きではない

          18ピアノの思い出 習い事の副効用