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自分事として生きていない

今年の1月から一人暮らしを始めた。

住む環境が変わるは人生で2回目。
記憶のうちでは今回が初めてと言ってもいい。
そのくらい、東京生まれ東京育ちの自分にとっては家を出る理由がなかった。貧乏団地暮らし。

社会人になり、給料は全額家に入れてお小遣いをもらう生活が当たり前だった自分にとって、家に金を入れずに一人暮らしをするなんて、ハードルが高すぎて実現不可能。

「そんなことは出来るはずがない」に縛られ過ぎて生きてきた自分にとって、これは念願の一人暮らしなのだ。随分と時間がかかってしまった。

コロナの影響で自分と向き合うことが多くなり、大きく思考が変わったことを機に、ついに一人暮らしをしよう、と決めてからは早かった。
数ヶ月でトントン拍子に進む。あんなにハードルが高かったのに、こんなに簡単なのか。低すぎる。
こんな簡単に家って借りられるんですか?こんなに給料少ないのに?

家事もろくにしたことない。料理なんてしたことない。いい歳して。
だけど、1人になれば意外とちゃんとやるもんだな、と自分に感心したりする。働きアリの法則と一緒だ。
やってくれる人がいれば怠ける。やってくれる人が居なければ自分がやる。
単純な話。

一人暮らしを始めて、ここのところよく感じるようになったのは、
「私は自分事として生きてないな」ということ。

それを如実に感じたのは、スーパーに買い物に行った時。
買い物すらろくに行ったことのない、実家怠け人間だった自分が買い物に行っているのだ。

買い物カゴに商品を入れている時。

「あれ?どうやってここまで来た?なんで今ここにいるんだっけ?」

そう感じた。

この感覚は複数回に及び、思えば実家にいた頃から、特に外出した時、「あれ?いつの間にここにいる?」という感覚はあったな、ということを思い出す。

自分の意志で出掛けているはずなのに、ふと「あれ?」と思うこの感覚。

これってどういう感覚なんだろうか、と調べると「離人症状」「乖離症状」という言葉に辿り着くが、中身を見るとそこまで仰々しいものではないような…と思う。

最近は家の中でも、昼食後の洗い物をしている時に「あれ?いつの間に朝ご飯の洗い物したんだっけ」と思ったり、とにかく自分の行動に対しての記憶が薄いのだ。

さらにさらに思い返せば、何かと自分の言動に記憶がなくて、母に「本当に何も覚えてないね」と言われていたし、友人に「あの時こう言ってたよね!」と言われても、はて?ということはしょっちゅうだ。

“興味がないことは覚えていない”
とひとまとめにすれば、なんだかそれっぽいし、特段問題ないような気もするけれど、別になんでもかんでも覚えていないわけではなく、日常に支障があるかと言えば、さほど支障はない。

だけどやっぱり、自分自身の感覚にハテナが浮かぶ。

そして、先程記したような「私は自分事として生きていないんだ」という結論に至った。

自分の意識とは外れて、動いている場面が多いのではないか。

なぜこういう感覚になるのかという結論は分かっていないけど、とにかく私は自分事として生きていないんだな、ということが分かったのが収穫。

もちろん、痛みも嬉しさも悲しさも感じるけど、どこかで自分事じゃないんだろうか。

生きることへの執着もなく。かと言って死にたいわけでもなく。
老後のお金の心配もなく。(これは資産が豊富という意味ではなく、なんなら少ないけど別にいつどうなるか分からないし、という他人事。)
不安になることもあるようでない。

忙し過ぎて、何をやったか覚えていないとかそういうことではない。

なので最近は、「私はこれからスーパーに行く」と何度か心に言い聞かせてから行くようにしている。

この感覚、分かる方はいるのかな。
それとも、結構普通の感覚…?

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