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私が世界一だ。世界で一番、夫と子どものいい写真が撮れる。



 この人のこの記事を読んでからというものの、私の中の写真を撮るということが、ぐっと面白く、楽しく、美しいものになった。
 なんなら、自分の写真いい!とまで思える。
つまり、自分が撮るものに大変満足できるようになった。



 幼少期より、自然に対する憧れが強かった。
だからなのか、その自然を切り抜いた、絵や写真に惹かれることが多かった。

 自分からこの惹かれるものを生み出してみたかったが、私は美術のセンスが飛び抜けてなかった。
 高校生の時、美術の筆記テストで満点をとった。
だが成績は、5段階評価のうち3点だった。
 流石に…。筆記テスト満点なら4では…?
と思い、美術の先生にそれとなく聞いてみたが、
「それを差し引いても実技と合わせて3ってことよね…」
と言われて、全く反論できなかった。
そうかあ。
いやはや、納得。

 ひとまずこの先生のおかげで、絵は微塵の未練もなく諦められた。

 だが、写真は簡単にできる。
私が高校2年生の時、スマホを皆が持つようになった。
高校生は写真をパシャパシャ撮る生き物だし、Instagramの流行もあり、写真は普通に沢山撮っていた。
 普通に撮っているふりをしながら、実は内心、何回も写真を見返しては良し悪しを考えていた。
正直、満足したことはほぼなく、当時は全然楽しくなかった。

 普通な写真生活が続いていき、夫と付き合い始めた頃、初めての旅行の記念でGoProを買った。
2人で買った(別れた後の事がよぎったが、その時は私が買い取ろうと思っていた)。
当時、流行っていた。
広角で撮れるし、色が鮮明。
動画にも特化しており、実物より綺麗に写っているのでは?と思える。


 GoProで写真を撮るのは、楽しかった。
賑やかというか、躍動感がある感じが面白かった。
 夫といる時の私は、まさにこんな感じだ。
賑やかで、明るくて、あっけらかんとしていて、グダグダ怠けるし、よく喋る。夫のくだらない下ネタに一緒になってゲラゲラ笑う。アニメのワンシーンを真似しながら攻撃したり(進撃の巨人のライナーとか)。

 だが、記事を書いている時のような私もいる。
真逆と言ってもいいかもしれない。
暗く、静かに怒っているような自分。
 そんな私の一部には、GoProは合致しなかった。
こんなに綺麗じゃなくてもいい。
私の目には、ここまで綺麗に見えていない。
綺麗なのは良いことなのだが、私が見た記憶の中の景色とのズレは、なんだか違和感だった。

 そんな事を考えていた時Instagramで、写真家の岩倉しおりさんの写真に出会った。
もう衝撃だった。
静かで、懐かしいような物哀しいような気持ちになる写真達だった。
自然の中の写真が沢山ある。
 私は夏が嫌いなのだが、この人が切り取る夏は好きだ。
今ほど暑苦しくなかった、小学生の時の夏休みを思い出せる。

 岩倉しおりさんは一眼フィルムカメラを使っていた。
ちょうど新婚旅行でアイスランドに行く予定だったから、それを口実に購入しようと夫に提案した。
 だがカメラは果てしなく奥が深くて難しい。
どのカメラがいいとかよく分からなかった。
こんな中途半端な奴が新品なんて買ってはいけないと思ったし、金銭的な理由もあり中古屋さんに行ってみた。

 そこのお店の人がなかなか優しい方々で、初心者と伝えると、難しい言葉は使わず丁寧に教えてくれた。
初めてのカメラを通販で買わず良かった。

 岩倉しおりさんの真似をして、CONTAXのariaというカメラを買おうと思っていた。
だがこの店には在庫がなく、別の店に行こうかと思ったのだが、お店の方が
「ariaねー。何故かみんな欲しがるのよねー。139quartz見てみる?」
と言われ、型落ちのカメラを見せてもらった。
ariaは少し丸っこくて可愛い。
でも、139quartzの方がこの丸っこさがなく、私っぽい。
レンズを見ると、吸い込まれそうな美しさがある。
「カメラを持って、シャッターを押してみていいよ」
と言われ持ってみると、手にしっかりはまるというか、よく分からないが、なんとなく気に入ってしまった。
真っ黒なのも好みだ。
 シャッター音を聞いた瞬間、その場で購入を決めた。
カシャっという音が、後に引くように響き渡り、それが綺麗で名残り惜しさのような気持ちも溢れて。
初めてこの音を聞いた時思わず笑ってしまった。
感動や驚きが振り切ると笑ってしまう。
 一眼フィルムカメラのデビューということで、お店の人達はあれこれと色々な付属品をオマケしてくれた。
50代後半ぐらいの女性の店員さんが、自分の子が旅立つような目で、「いっぱい使ってあげてね。愛着湧くから。可愛がってあげてね」と私に言った。

買って早々、撮りたくてウズウズして撮った写真



 フィルムカメラは、デジカメとは違い、確認しながら撮影はできない。
上手く取れなかったから削除して撮り直すということもできない。
一発勝負。
 撮影するためには一本2000円程するフィルムを購入して、毎回カメラ本体にフィルムを設置し取り外す手間もある。
 取り終わったフィルムは自分では現像できないから、写真屋さんに持っていく。待ち時間は1時間。写真やさんに現像代で2000円近く払う。
ロングコストが凄い。
何より一発勝負。
ぶれたりして失敗してもやり直しはできない。
 デジカメが普及している今、不合理なカメラだ。
素人のカメラデビューには向かないだろう。

 だが、この一発勝負なのが、嘘がないような気がした。
自分のその時見ている景色や空間や感情を、確実に切り取ってくれる気がする。
 シャッターを押すのに一呼吸が必要。
何も考えずパシャパシャと撮ることにも飽きてきたところだった。


 購入時はそれはそれは心高ぶって、早く撮りたくて仕方がなかった。

 だが、購入して早々、少し後悔していた。
当たり前なのだが、自分が思ったようには撮れない。
 でもせっかく買ったし、最初はそんなもんなだけだ。と思い、耐えるように写真を撮り続けていた。

 私は現像し終わった写真を見て、なんだかガッカリした気持ちになることが多かった。
分かって買ったのだが、コストがかかる。
 しかもデジタルカメラのように、写り方を毎度確認することもできない。
今日の天気、光の加減とか、初心者だから全然分かっていないなりにも考えないといけない。機能を使いこなせている気がしない。
 現像が終わって初めて、撮ったものを見る。
出来上がった写真を見て、何度も肩を落とす。
なんだかなぁ。
微妙だなぁ。
思ってたのと違うなぁ。
そう、映えないなぁ。ってやつだ

 たまに満足のいく写真が撮れる。
そのたまにの数枚が嬉しくてカメラを手放す気にはなれなかった。
4年程、どこかへ出かける度に撮り続けた。


 購入から5年目になる頃、失敗してしまった。
撮影し終わった後に、フィルムを巻く作業がある。
この作業を失敗してしまった。
 結果、36枚シャッターを押したのに、現像できなかった。
 大事に大事に写真を撮ったというのに、その写真を見れずして、フィルムがゴミになってしまった。
時間も気持ちもお金も飛んでいった。

 もうこれが悲しくて悔しくて。
夫に
「フィルムカメラ売って、数十万のデジタルカメラ買ってやる!」
と宣言した。
 あれだけ気持ちを込めてシャッターを押したのに、その結果の写真が見れずに終わるなんて。
悔しくて怒りが湧いてきた。

しばらくカメラを触らない時期になった。

 少しずつ冷静になっていく。
 あれだけ怒って売る宣言をしたのに、カメラを見ると愛着が湧いて捨てきれなかった。
なんやかんや捨てきれないパートナーになっていた。


 カメラと少し距離をとっていた時期、幡野広志さんのnote記事に出会う。
最初この人の記事を読み始めたのは、この方ががん治療をしている方で興味が湧いたから。
 私は看護師の仕事をしているのだが、がん治療に来る患者さんは病院での顔を作っている。その顔で私達医療者に接する。よくそんなことを仕事中、思っていた。
当たり前のことなのだが、でもこの人達には当然、普段の生活や普通の日常があるわけで。
 家での生活を聞き取り、困ったことはないか聞くのだが、なんとなくリアリティが感じられないというか。
やっぱり"看護師"と"患者"なのだ。それ以上もそれ以下もないし。
"癌治療の周囲にその人の人生がある"ように見えてしまうのだが、それは違うわけで。
 幡野広志さんのnoteを見ていると"自分の人生の一部に癌治療がある"とはっきり見える。
 これら一連がきっと普通で本当だよな。と思いながら読んでいた。

 幡野広志さんはプロの写真家。記事には度々写真が絡む。

 私は自分の写真に対する良し悪しを考えても、他の人が撮った写真が上手なのか下手なのか評価できるほどの目を持っていない。
プロの方の写真をみても、「おおー。これがプロなのか。なんかすごい」とは思っても、その先がない。
 だから、一眼フィルムカメラを購入するきっかけになった岩倉しおりさんの写真も、自分の感覚的に惹かれて好きになり、騒いでいるだけだ。
この写真の構図がいいとか色使いがとかそんなこと全然分かっていない。
 ただ、ただ、いい。惹かれる。息を大きく吸い胸が膨らみ、息を止めて見惚れた。写真を見ていると胸が押される。その感覚があり、好きという感情が生まれた。

 つまり、私は写真に全然詳しくない。
もとより美術の点数も低く、そういったセンスがないのだから。


 幡野広志さんの写真を見た時、記事と一緒になって静かに染み込んでくる感覚だった。

 冒頭で載せた記事を読んだ後から、不思議なことがおきた。

 今まで「なんだかなぁ」と思っていた過去自分が撮った写真を見返す。
そうすると、「凄くいいじゃないか!」と思う。
別に、上手くとれていたわけじゃない。
ピントがずれているものだって何枚もある。
それなのに、何か魔法にでもかかったように、自分が撮ってきた写真が輝いているように見える。

 ただの思いこみだし、気持ちの問題なのかもしれない。
でも、カメラに触れない時期は終わった。

 私は自然が好きだが、やっぱり人が入り込んだ写真のほうが好きだった。
すぐに忘れてしまう瞬間を、自分の大切な人が入った写真を見返すと、すぐにその時の感情を思い出せる。
多分私の、自分の写真に満足する基準が変わった。
この感情が湧き上がるかどうか。
その時の相手の様子や私が感じた感情が思い出せるか。

 だからか、撮る時も変わった。
自分がこの瞬間にぐっときたか、きてないか。
ぐっとこないなら、シャッターを押さない。
念の為撮っておこう。とか、ない。
逆にぐっときたら、何枚も撮ってしまう。
それは上手な写真を撮りたいからではない。
ぐっとしたからシャッターを押したくてしょうがない。楽しくてしょうがない。
その気持ちが溢れて出来上がった写真達は、皆、いい顔をしている。

 上の記事は、ぐっときて仕方がなかった日の写真たち。



 この撮り方がいいのか悪いのかも分からないし、正解なのか不正解なのかも分からない。
でも私はプロでもないし、プロを目指しているわけでもない。
私が満足しているのなら100%の写真なのだ。

 娘が2歳の時、「いいものとれた〜」と言うようになった。
私が
「誰の真似だよ〜」
と言っていたら、夫に
「いや、君がいつも言ってるじゃん」
と言われた。
全然気が付かなかった。
私はカメラのシャッターを押す度に「いいもの撮れた〜」と言っていたらしい。


シャッターを押して「いいもの撮れた〜」と言っていた時の写真達

苺を食べながら、次穫る苺を見つめてる


自分の真似をされると、何故可愛いと思うのだろう


木の下に寝転がったら、こんな景色が


音がなく静かで、電気も最小限で、
自然の光が心地良い空間だった


えっろ!と言いながら撮ってた


娘を見る夫の顔が凄くいい


いや、どれもいいね。
何点かって?
100億満点だよ。

私はネガティヴの塊のような人間なので、自己肯定感の高い人の感覚を少しも理解出来なかったのですが、30歳になってやっと初めて理解した。
理由なんてないんですよ。
私の写真が世界一。
夫と子どものいい写真を撮れるのは、私が世界一。



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