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夢犬

本編

「ここはなんだかやけに気味が悪いね

。昼間だってのに薄暗くてさ。空気だってジメジメとしているよ。人っこ一人いやしねえ。おーい、誰かいるかーい、いるなら返事をしてくれー。」

 呑気に声を出すと、幇間(ほうかん)のポン助は耳に手を当てて、辺りを伺いました。

「返事なんぞあるわけがねえんだ。知ってるよ。あたしだって馬鹿じゃねえ。あたりめえさ。人っこ一人いやしねえんだから。見りゃあわかる。

それにしてもなんだね。なんなんだい?この池はさ?やけにまっ黒いじゃねえか。一体全体、水ってものがここまで黒くなるものかね。大川の濁り水だってもう少し澄んでいるよ。底なんぞ見えやしねえよ。おーい、魚―、いるなら返事をしてみろー。」

そう言ってポン助は池の底に目を凝らしました。

「返事なんぞあるわけがねえ。あたりめえよ。だいたい魚が返事なんぞするわけがねえんだ。魚は何も言わねえってのが昔からの決まり事だ。あいつらはワンとも言いやしねえ。」

 ポン助がやってきたのは江戸の市街地から北東へだいぶ離れたところにある御陀仏池(おだぶついけ)です。荒川や江戸川、中川と繋がっている支流のひっそりとした流れの先にあり、それらの川で溺れ死んだ人がよく流れ着くので御陀仏池と呼ばれています。水死体(どざえもん)の名所です。

 普段から気味悪がって誰も近寄らない池の暗いほとりを歩いていると、さすがに陽気な幇間のポン助もだんだんと不安になってまいりました。

「あの鎧田(よろいだ)の旦那ってえの馬鹿なんじゃねえかな。あたしをこんな所に呼びつけてさ。酔狂な人だとは思っていたけどさ、やっぱり馬鹿なんだね。あたしにはさっぱりわかりませんよ。まあいいんだ。もらえるものさえもらえりゃあ、こっちに異存はありません。ええ、あたしは付いていきますよ。お客様に呼ばれりゃあどこへだって行くんだ。御陀仏池だって、死神村だって、かまいやしねえんだ、どこへだって行きますよ。もらえるものさえもらえりゃあね。本当ですよ。鎧田の旦那が変わり者だろうと、お尋ね者だろうと知ったこっちゃありません。もらえるものがもらえたら、こっちは一向に構わないんだ。吉原(なか)だろうと外だろうと、どこへだって来いと言われりゃあ、行く。それがあたしの仕事さ。それが太鼓持だ。それがあたしの御商売。

だけどもらえるものにもよりますよ。今日は何がもらえるんでしょうねえ。ちょっとやそっとの金じゃ割が合わねえよ。こんな気味の悪いところに呼ばれてさ。酒なんかも付けてもらいたいね。あと肴も乾いたやつじゃやだよ。何しろ昼間だってえのにこんなに暗いんだからパーっやるにゃあ景気のいいものをもらわねえとね。

それにしてもまさか御陀仏池に来いと言われるたあ、さすがのあたしも夢にも思わなかったねえ。いや、不覚を取りました。このポン助、見事隙を突かれました。あたしの頭の中のどこを探しても、御陀仏池がくるとは微塵も思いやしませんでしたよ。まあそりゃあそうだ。あたしゃあ御陀仏池なんて名前の池がこの世にあることすら、まったくもって知らなかったんだからね。知るわけがない。知らねえんだから。そりゃあ頭の中のどこを探したって見つからねえはずだ。当たり前のコンコンチキさ。『旦那、あたしはそんな縁起の悪い名前の池は知りませんよ』って言ったらさ、『なに来ればわかる。だいぶ寂しいところだからな、いかにも御陀仏という名に相応しい池だ』なんて涼しい顔して言っちゃってさ。まああたしも大概ドジな方だからさ。『そんな所で何をするおつもりです?』と聞くのをすっかり忘れちまった。『はいはい!御陀仏池ですね。喜んで!』なんて二つ返事で来ちまった。だいたいあの旦那も旦那でだいぶドジだよ。どうしてあたしがこんな所まで来なきゃなんねえのか、大事なことを話し忘れているんだからさ。まあだいぶドジだ。馬鹿でドジだ。なるほど。うん。まったく鎧田の旦那の言う通り。ここは確かに寂しい所だ。いや、これは寂しいなんてもんじゃありませんよ。ここまでくるともう寂しいを通り越しているね。寂しいを通り越すと何て言うか、無学なあたしにはさっぱりわからないけれど、とにかくここは寂しいよりはだいぶ上だ。これに比べてら寂しいなんて言葉はにぎやかなもんさ。ああイヤだ。早く本当のにぎやかな町に帰りたい。よく考えたらさ、あたしは嫌いなんだよ。こういう水だの土だの木だのがいっぱいある所がさ。あたしは生まれついての町育ちの太鼓持ち、お座敷で生まれ育った人間なんだ。こんな所に来ちゃいけないんだよ。あ!草履が泥で汚れてる!なんだよもう、今朝おろしたばかりのまっさらの草履だよ。きゃあ!いけねえ。女みてえな声を出しちまった。やい蛙!池になんぞ飛び込むんじゃねえ!びっくりしたじゃねえか!ああイヤだ。なんだか霧も出てきたよ。空気だってひんやりしてきた。旦那!鎧田の旦那!どこにいるんです!お約束通り幇間のポン助が参りましたよ!ポン助只今参上つかまつりましたよ!」

 ポン助は三十代も半ばを過ぎようかという小柄な痩せた男。不平不満を喚き散らしオロオロしながら池のほとりの泥道を歩いていると、その後ろから音もなく大きな黒い人影が音もなくヌッと現れると、怯えるポン助の肩にポンっと手を置きました。

「ぎゃあ!」

「大声を出すな

。わしだ。鎧田権左衛門だ。」

「旦那!驚かせないでくださいよ。びっくりするじゃありませんか。あれ?あなたは鎧田の旦那様ですか?頭巾を被ってらっしゃるからわかりません。あなたは確かにあたしをここに呼び出したお侍の鎧田権左衛門様でげすか?」

「いかにも。声でわからぬか?」

「いかにもたってお顔がわからないんじゃあ、わかりません。お顔が見えねえと、声も違って聞こえてくるってなもんで。」

「うるさい奴よ。これでどうだ?頭巾を取ればわかるだろう。」

 頭巾を取って現れたのは、四十がらみの苦み走ったお侍。いわゆる人の上に立つようなお殿様の風格はありませんが、それなりのお大名には奉公しているのでしょう、身なりは上等で、脇には立派な二本を差し、月代はきれいに剃り上げ、清潔な顔立ちをしています。

「ああわかりました。あなたは確かに鎧田の旦那様だ。あれ?また頭巾を被っちゃった。ははん、わかりましたよ。あなた、今日は何か悪戯を企んでいますね。そうでしょ?ああ言わなくても結構。あたしにはわかるんだから。あたしとあなたの仲じゃありませんか。聞かなくたってすぐに分かります。染吉大夫でしょ?ええええ、わかりますとも。あなたと良い仲の花魁の染吉を驚かしてやろうって趣向ですな。はい、わかりました。乗りましょう。あたしも一枚噛みます。さあ、あたしの頭巾もください。一緒にやってやりましょうや。何をやるのか知りませんがね。あたしも一度でいいから染吉の奴を驚かしてやりたいと思っていたところです。丁度いい。さあ、聞かせてください。どんな悪戯を企んでいるんです?さあ。」

「ふん。相変わらず調子のいい男だ。まあいい。時にポン助、お前、先だっての座敷でわしに一生付いていくと申しておったな。」

「ええ言いましたよ。一生どころか、二生でも三生でも付いて行くんだ。それくらいあたしはあなたに惚れ込んじゃったんだから。」

「そうかい。あの時お前、わしのためには命さえ惜しくはないと言ったな。どうだ?覚えておるか?」

「覚えているかですって?馬鹿言っちゃいけませんよ。あたしは毎日思い出す暇もないくらい始終あなたのことを考えているんですから。ああ鎧田の旦那は今頃何をしてらっしゃるだろう?今頃はお昼ご飯を召し上がっている頃かな?今頃は厠で踏ん張ってらっしゃる頃だろう。なんてね。一日中あなたのことを考えているんだ。その度に、あたしは、ああ鎧田の旦那のためだったら、この命、惜しげもなく捧げようといつも自分に言い聞かせているんでげすよ。」

「偉い。うん。それを聞いて安心した。ではポン助、お前、わしのために死んでくれ。」

「よござんす。死にましょう!なるほど面白い。あたしが死んだら染吉もびっくりだ。で?あたしは何をすればいいんで?」

「うん、まずは腹ごしらえにこれを食え。お前の好きなものだ。」

「なんです?おや!そ、それは、扇屋のわらび餅じゃないですか!偉い!さすがは鎧田の旦那だ。あたしの大好物をしっかりと覚えていてくださったんですな。いや驚いた!さすがは一流の人物!店のババアも言ってましたよ。『いいかいポン助さん、あのお侍は一角の人物だからしくじっちゃいけないよ。鎧田権左衛門様は今にきっと大変な出世をする人だ』ってね。あのババア、歯は一本もねえくせに、人を見る目だけはあるんだ。ありがたい!では、遠慮なくいただきます。いやあ本当に、あたしはこれに目がなくってね。あ、丁度ここに座りやすそうな石があるじゃありませんか。これに腰掛けてと、ではありがたく頂戴いたします。まずは丁寧に箱を開けまして。この紐を解いて箱を開けるのもまた嬉しいんでげすよ。うん、これこれ。輝きが違いますな、ここのわらび餅は。どれ。一口、うん。うまい。香りが違います。喉から鼻に実に芳ばしい良い香りが抜けます。わらび餅はこうでなくっちゃいけません。それにこの弾力。どうやって作っているんでしょうねえ。噛むたびに心持がよくなってくるから不思議でげすよ。まったく実にうまい。」

「うまいか?」

「ええ旦那、ありがとうございます。この扇屋のわらび餅はうまいなんてもんじゃありませんよ。もううまいなんて言葉じゃ足りないね。うまいをずっと後ろの方に通り越してるくらいうまいんだ。うまいを通り越したら何て言うのか、あたしは知りませんがね。とにかく旦那、ありがとうございます。あたしはこれが大の好物なんです。本当にうまい。」

「ポン助、お前は本当にいい奴だな。」

「いい奴ですよ。ええほんと、あたしほどいい奴はいません。うん、うまい。」

「お前、なんの疑いもなくわしの持ってきたものを食っているが、それに毒が入っていたらどういたす?」

「毒が?これに毒が入っているんですか!まさか!嘘でしょ?嘘じゃない。ええ?本当ですか?本当。本当!するってえとこれは毒入り団子ならぬ、毒入りわらび餅じゃねえですか!ひどい!なんでそんなことをするんです!」

「お前はついさっきわしのために死んでくれると言ったではないか。」

「それとこれとは話が違う。死ぬわけないでしょ!困った旦那だ。いいですか、死ぬったって今ってわけじゃありませんよ。あたしだってこう見えて、いつかは死ぬ時もあるだろうって話なんだ。そんなこともわからねえかなあ。ああいやだ。ああ死にたくない。」

「安心せい。それに毒は入っておらん。」

「やっぱり。そうだと思っていました。旦那があたしにそんなひどいことをするはずがない。このポン助、最初からわかっていましたとも。すると変だぞ。毒が入ってないとすると、さっきから胃がムカムカするのは、これはいったい何なんでしょうねえ?」

「おおかた二日酔いのせいであろう。」

「ああそうか。昨日もお座敷で飲み過ぎましたからね。じゃあさっきから舌が痺れるのは、これはどうしたものでしょうな?」

「知らぬ。気のせいであろう。」

「あ、本当だ。もう舌は痺れてねえや。すると本当に、これには毒が入っていないのですね。」

「入ってはおらぬ。」

「それで安心しました。いや旦那、悪い冗談はよしてくださいよ。人が大好物を気持ちよく食べているんですから、余計なことは無しにしてください。せっかくのわらび餅が不味くなっちまう。」

「すまんすまん。お前があまりにもうまそうに食っているものだから。ちょっとばかりからかってみただけだ。もう余計なことは言わぬ。遠慮なく食え。わしの用事はお前がそれを食ってから話す。さあ、まずはうまいわらび餅を存分に味わってくれ。」

「ありがたい。ではお言葉に甘えて、残りを全部片付けさせていただきます。うん、うまい。いったん死んでから、こうやって生き返って食うわらび餅は、また味も格別ですな。初めて食うみたいに新鮮な気持ちで食えますよ。毒入りだなんて、あなたもなかなか粋なことをおっしゃる。さすが旦那ですな。うん、うまい、うまい。」

 夢中でわらび餅を食べているポン助を横目で見ながら、鎧田権左衛門は静かにポン助の背後に回り込みました。ポン助は夢中で大好物を貪り食っていて、それに気がつきません。

すると鎧田権左衛門、左手で刀の鞘をグッと握り鯉口を切りましたが、もちろんポン助はわらび餅に夢中でまったく気がつかない。

さらに鎧田権左衛門はサッと鞘から太刀を抜き、自らの頭上に上段に構えました。

その時ばかりはさすがに呑気なポン助だって、いくらわらび餅が大の大の好物といえども、日本刀のただならぬ妖気と殺気に、この時ばかりは気がついた、かというと、やっぱり気がつかない。そのくらいポン助はわらび餅が大好物で、喜色満面、うまいうまいと言って頬張っております。

一方、鎧田権左衛門は上段に太刀を振りかぶったまま眉間に皺を寄せ、すうっと鼻から大きく息を吸い込みますと、グッと息を止め、

「えい!」

 一刀両断

。太刀をポン助の首を目がけて振り下ろしました!

 眩いばかりの閃光がポン助の首をサッと横切ったかと思うと、

ドサッ。

力なく地面に崩れ落ちるポン助。しかしその体には、すでに首から上はありません。つい今し方までわらび餅をキャッキャと喜んで食べていたポン助の頭部は、今、体から数歩離れた泥道をゴロゴロゴロと転がり、ポチャンと音を立てて池の中へ落ちていきました。

となるはずでしたが、ポン助の首はどこには転がってはいません。代わりに、

「何をするんですか!そんなもん振り回して、危ないじゃないですか!」

 とポン助の頭部は元気に口からわらび餅の破片を飛ばし、鎧田に猛抗議をしております。どんなにわらび餅が大好きでも、そこはポン助、根っからの太鼓持ちです。水商売の性で、いつどんな時でも客には気を遣っております。大好物を食べている時でさえ、ポン助の無意識は鎧田の動向を気にしておりました。大好きなわらび餅を食べながら、太鼓持ちポン助の無意識の心は、知らず知らずのうちにもその実、しっかりと鎧田の動きを意識していたのです。おかげで間一髪、ポン助は鎧田の一刀を避けることができました。

「ああ危ねえ。見てください。大事な着物の裾が切れちまった。なんてことをしてくれるんです!殺す気ですか!」

「そうだ。殺す気だ。死んでくれ。」

「え?殺す気?あたしを殺すとおっしゃるんで?」

「だからこそお前をこんな人目につかぬ場所に呼び出した。よいかポン助、この太刀を見よ。」

「なんです?その刀がどうしたというんです?」

「実に美しい刀だとは思わぬか?」

「思いません。」

「ふん。太鼓持ち風情のお前に言っても無駄かもしれぬがな。これは備前国で名人と謳われた刀匠、国輝の打った名刀だ。わしはこれを一目見てすっかり惚れ込んでしまい、何がなんでも手に入れたくてどうしようもなくなってしまった。他の者がこの名刀を手にすると思うだけで気が狂いそうになった。絶対にわしのものにしなくては気が済まなくなってしまったのだ。わかるか?」

「わかりません。」

「まあいい。そこでだ。わしは清水の舞台から飛び降りたつもりで家財一切を全て売り払い、ようやくのことでこれを手に入れた。わしにはもう財産と呼べるものは、この刀一本の他には何もない。だが後悔はないぞ。これほどの名刀を持てる武士など、江戸広しといえども数えるほどしかおらぬでな。まさに武士冥利に尽きるというものだ。」

「それはよござんした。金がねえんじゃあ、しばらくは吉原(なか)には来られませんね。では、あたしはこれで。」

「待てポン助。」

「なんです?まだ用があるんですかい?」

「これからがお前の出番だ。よいか。刀というものはな、ただ持っているだけでは満足できぬものだ。名刀であればあるほどなおさらというもの。わかるか?」

「だからわかりません。あたしは侍じゃないんでね。では。」

「待てと言うに。よいか、刀というものはな、人を斬る道具だ。人を斬るためだけに作られた芸術品だ。それをただ腰からぶら下げて、使わないのではまったくもっての宝の持ち腐れ。刀も泣くというものよ。ましてやこれほどの名刀が人を斬ったことがないとなると、それほど悲しいことはない。良い刀は人を斬って初めて完成するという。この刀に人を斬らせてやりたいではないか。そうは思わぬか?思わぬ。まあいい。お前はただの太鼓持ちだ。言ってもわかるまい。だがわしは武士だ。刀に生きる人間だ。こんな刀を持ってしまったら、どうしても人を斬ってみたくなるのが武士の性というもの。そこでお前の首で試し斬りをすることにした。」

「馬鹿を言っちゃいけません!あなた知らないかもしれませんがね、あたしの命はこの世に一つしかないんですよ。遊び半分で首を落とされてたまりますかってんだ。」

「わしのために死ねると言ったのは、あれは嘘か?お前はわしに嘘をついたのか?」

「ええ嘘ですよ。

嘘に決まってるじゃないですか。座敷の中のことは全部嘘ってことに相場が決まってるんだ!そんなことも知らねえであなた、遊びに来ていたんですか。ついでに言っておきますがね。花魁の染吉があんたに惚れてるなんてえのも、全部嘘ですからね。『あちき、あの人クサイから嫌い』って裏では言ってるんだから。危ねえ!また斬ろうとしやがった!やい!鎧田!人を斬ったら死罪になるのを、知らねえのか!」

「死罪?このわしがお前を斬って死罪に?おかしなことを言う。では逆に聞く。お前は『切捨て御免』を知らぬのか?」

「なんですそりゃあ?」

「まったくもってどこまでも無知な奴よ。よいか、我ら武士は町人や農民を理由なく斬り捨てても罪には問われぬのだ。」

「本当に?まさかそんな。いや。そういえばそんな話、どこかで聞いたことあるな。じゃあ何だってお前さんはすっぽり頭巾なんぞ被って顔を隠す?武士が誰でも殺していいのなら、顔を出して堂々とあたしを斬ればいいじゃないか。」

「まったくお前のような人間は恥というものを知らぬから困る。誰かにお前を斬っているところを見られてでもしてみろ。それこそ『あの人はむやみやたらに人を斬る人だ』などとよからぬ噂が立ち、みっともないではないか。だからこそこうしてお前を人気のない所まで呼び出し、わざわざ冥土の土産に扇屋のわらび餅を買い、同輩から頭巾まで借りてここまでやって来たのだ。さあ、神妙にして覚悟を決めろ。天下の名刀に斬られるのだ。ありがたく思え。」

「なるほど。あたしの命はわらび餅一人前の重さしかねえってわけですか。吹けば飛ぶような軽い人間だと思ってはいましたが、まさかわらび餅だったとはねえ。因果なもんです。わらび餅か。せめてあんころ餅の二人前、いや三人前だったらどんなによかったか。あんころ餅の方がどっちかというとあたしは好きなんだ。」

「何を言っている?」

「わかりました。お斬りなさい。」

「何?」

「客を気持ちよくさせるのがあたしの商売。あたしを斬ってあなたが喜ぶなら、いいでしょう。どうぞお斬りなさい。こんな命、ちっとも惜しくはございません。わらび餅のお礼です。どうぞあたしの首をお取りなさい。」

「やけに聞き分けがいいな。」

「こうして、尻を端折って、あたしが四つん這いになったら、あなたも首を斬りやすいでしょう。あたしだって一思いにすっきり死にたいですからね。できれば死んだってのがわからねえくらいスポッと首がなくなってくれるのが一番いいんだ。あたしは痛いのが一番嫌いなんだから。旦那、一刀両断にやってくださいよ。一振りで決めてください。とにかく痛いのは嫌ですからね。」

「よし!その覚悟実に立派。お前こそ太鼓持ちの鑑だ。刀も喜んでおるぞ。心配するな。これほどの名刀であれば切れ味も一流。斬られた者は自らが斬られたことすらわからぬであろう。いざ!あ痛!貴様!砂をかけおったな!うぬ。目に砂が入った。涙が止まらぬぞ。こら!待て!逃げる気か!」

「へん!誰がお前なんかのために死ねるかってんだ!わらび餅一つで死んでたまるかってんだよ!あばよ!」

「待て!逃げるな!ポン助!よいか!必ず斬ってやるからな!」


「ふう。ここまで逃げてくれば

もう大丈夫だ。町に戻ってきたからには人もたくさんいる。まさかあいつだってこんな町中であたしを斬れねえだろう。ついて来てはいないね。後ろにはいない。前にもいねえ。右は?まさか左?うん。鎧田の野郎は、どこにも見えない。よし、いない。行っちまった。鎧田権左衛門は消えました。いやいや、安心するのはまだ早い。何しろあの目。ああ恐ろしい。人を斬る目ってのをあたしは初めて見ましたよ。実に恐ろしい。いや、あれは恐ろしいなんてもんじゃありませんよ。恐ろしいなんて言葉はすっかり通り越しているんだ。恐ろしいを通り越すとなんて言うのかあたしは知らないけれど、あれはそんな目でしたよ。ああわかった。あれが鬼の目っていうんだね。ああそうだ。あれこそ鬼ですよ。鬼の目。ああ恐ろしい。ブルルル。あいつはまた来ますよ。だって来るって言ってたんだから。あの馬鹿な刀であたしのことを斬るつもりだ。だから馬鹿に刃物は持たしちゃいけないってんだよ。ああ嫌だ嫌だ。悪い客に目を付けられちまった。あっちの方にはもっとたくさんの人がいるね。まずはあっちへ行こう。あの人混みに紛れ込んだら、あいつも手出しはできねえってもんさ。ごめんよ。はい、ごめんさないよ。これはなんの集まりですかな?あたしも中に入れてください。あいごめんなさい。ごめんなさいよ。」

「痛た。おいあんた、急に割り込んできて俺の足を踏むなよ。」

「おやごめんなさい。まさかあたしの足の下にあなたの足があるとは知らなかったもんで。時に旦那、これはいったい何の集まりです?」

「見えねえのかい?俺たちはみんな、あの触書(ふれがき)を読んでいるのさ。」

「へえ御触書ね。で、何て書いてあるんです?」

「自分で読みゃあいいじゃねえか。」

「あの看板に書いてあるんですね。ふむふむ。そうか。なるほど。ふーん。そういうことか。さっぱりわからねえ。」

「おめえ、字が読めねえのか。」

「だから何て書いてあるのか聞いたんですよ。」

「わかった教えてやる。いいか。あそこにはな、犬を殺したものは極刑に処すと書いてあるんだ。」

「何です?極刑というのは?」

「死罪だな。」

「死罪!犬を殺して死罪ですか!」

「そうだ。」

「だって旦那。旦那はご存じないかもしれませんがね、武士が人間を殺したって無罪放免なんですよ。なのにどうして犬を殺した人間が死罪にならなきゃいけないんです?あたしたちは犬以下ってことですか?」

「まあそういうことになるな。それが生類憐みの令ってやつよ。」

「まったくなんてえ世の中だ。あたしはさっき殺されかけたんですよ。なのに人間のあたしが無惨に斬り殺されても、犯人はお咎めなし。ところが犬が殺されたら。犯人は死罪になるっていうんだ。ええ?どうなってるだい?世も末よ。あたしが犬より劣ってるとでもいうのかい?どういうことよ?あたしの命は犬よりも軽いってえのかね?」

 そんな不平をブツブツと呟きながら歩いていると、ポン助はまた人気のない所までやってきてしまいました。そこは長屋の裏通り。貧しい町人が住んでいる所です。

「ポン助。」

「は!その声は?鎧田権左衛門!しまった!つい人通りのない所へ来ちまった。油断した。」

「シー。静かにしろ。わしの名をでかい声で言うな。人に聞こえたらどうする?」

「人に聞こえるように言ってるんだ。わー!鎧田権左衛門だー!あたしを斬るつもりだー!助けてー!誰か助けてー!」

「チッ!小賢しいやつめ。よいか。ここはいったん引き上げるが、忘れるな。必ずやわしはお前を斬る。おや?誰も長屋から出てこんではないか。誰一人お前を助けようとする者はおらんようだぞ。」

「あれ?変だな?悲鳴を聞いたら誰か助けに出てくるはずなんだけどな。わー!助けてー!誰かー!斬られちゃうよー!太鼓持ちのポン助が鎧田権左衛門に斬られちゃいますよー!」

「どうやらこの長屋の中に人は誰もおらぬようだ。よしんばいたとしても、太鼓持ち如きを助けに来てくれる者などおらぬわ。皆面倒に巻き込まれるのは嫌だからな。それが賢明よ。よいか!長屋の衆!よく聞け!わしは武士だ。誰であってもわしの邪魔をするものは許さぬ。この者を助けようとする者があれば、そ奴も斬って捨てるからそう思え!」

 鎧田権左衛門、周囲の家を威嚇するようにそう怒鳴ると、サッと刀を抜き、先ほどと同じく上段に構えました。

「いざ!覚悟いたせい!」

「きゃー!いやー!斬られるー!殺されるー!ちくしょう!本当に誰も家から出てきやしねえ。どうしよう。このままじゃ本当に斬られちゃうよ。そうだ。さっきの手で。」

「ほう。四つん這いになったな。諦めて首を差し出すことにしたか。」

「ええ。鎧田様、このポン助、覚悟を決めましたでございます。どうぞ私の首を存分にお取りください。えいや!あれ!砂つぶてを避けやがった。」

「ふん。同じ手が通じると思ったら大きな間違いよ。お前が砂を投げてくることなど先刻お見通しじゃ。」

「ああダメか。万策尽き果てた。もう死ぬしかないのか。俺ももう終わりだ。こうやって四つん這いになっていると、なんだか犬になったみたいだな。惨めなもんだ。あたしは犬みたいに死ぬんだ。無惨な死に方だ。せめて人間らしく布団の中で死にたかったなあ。クーン。ああ、情けなくて犬みたいな声が出ちまった。犬?そうだ!キャイーン!ワオーン!」

「なんだ?何のつもりだ?」

「あたしは犬だ

。犬になったんだ。ワンワンワン。キャイーン。犬だ!犬が殺されるぞ!犬殺しだ!キャイーン!ワオーン!」

 すると血相を変えた人々が長屋の中からワラワラと出てまいりました。皆、手に手に鍋やヤカン、火かき棒を持っています。

「どこだ!」

「どこだ?」

「犬殺しはどこにいる?」

「犬に何かあったら大変だ。」

 こう長屋から大勢の人が出てきてしまっては、鎧田権左衛門、刀を収めるほかはありません。

「ううむ。一度ならず二度までも命拾いしたな。これで済むと思うなよ。」

 と歯軋りして去っていきました。


「おい、犬殺しと叫んだのはあんたか?」

「そうだ。あたしだ。」

「犬はどこいる?」

「犬はあたしだ。」

「なんだと!ふざけやがって!大の大人がふざけた真似をするんじゃねえ!」

「なにを言いやがる。ふざけてるのはてめえらの方だ。あたしが殺されようってのに、家ん中で隠れて震えていたくせに、犬が殺されると聞いたら大慌てて出てきやがった。てめえらの町内で犬が殺されて、御白洲に呼び出されるのが面倒だったんだろ。ああ嫌だ。人間なんて大嫌いだ。人間なんかやってられねえ。あたしは犬になりたい。犬だ。犬だ。あたしは犬だ。犬になるんだ。金輪際人間なんかになるもんか。ワオーン。あれ?誰もいなくなった。」


「よし。そうと決まったからには話は早い

。あたしはもう人間なんかに未練はありません。今の今から犬になりますよ。そうとも。犬です。ええと、犬になるにはどうするかな。そうだな。まずは二本の足で立ってちゃいけません。これじゃあまるっきり人間だ。どれどれ、四つん這いになってと。うん。犬はこうでなくっちゃ。どれ、歩いてみますか。痛て。何だか手の平と膝が痛えなあ。そりゃそうだ。こんな所を使って歩いたことなんてないんだから。歩くといえば足の裏だけど、おい足の裏、お前はずいぶんサボってるじゃないか。四つ足でも歩くとなるとやっぱりお前さんが頼りだよ。うん。この方が楽だ。尻が上がってくるのは少しばかりみっともねえが、まあ仕方がねえ。あたしは犬の新米だ。少しくらい不恰好でも許してもらいましょう。こうやって四つ足で歩くと、少しは楽だね。おうおう、犬になって江戸の町を眺めてみると、また全然違って見えますよ。驚いたね。何もかもがでっかく見える。犬ってのは、いつもこんなにでっけえ景色を見ていたんだね。贅沢なもんさ。さて、どこへ行こうか。どこへ行ったっていいんだ。ないしろあたしは犬なんだから。もうお座敷なんか出なくってもいい。馬鹿な旦那連中に愛想を振り撒かなくったっていいんだ。ふん。どいつもこいつも威張りくさりやがって。あたしを何だと思っていやがる。太鼓持ちだぞ。いつもへーこらすると思ったら大間違いだ。まあ、太鼓持ちってのはそういう商売だ。ああ清々するぜ。もう誰にもへーこらするこたあねえんだ。何しろあたしは犬になったんだから。天下御免の野良犬様よ。将軍様の御触れのおかげで、人間どもの方があたしにへーこらしなきゃならねえんだ。ああ気分がいい。斬り捨て御免だと?馬鹿野郎。あたしを斬り殺してみやがれってんだ。将軍様がてめえを斬り捨ててくれる。

 さて。晴れて犬になったら、腹が減ってきたね。ええ?犬はどうやって飯にありつくんだ?おや?何だかいい匂いがする。これは?そうだ、魚を焼く匂いだ。どれ行ってみようか。何しろあたしは天下のお犬様だ。『おひとつくださいな』とお手でも、お座りでもやりゃあ、メザシの一本でもくれるはずよ。おやおや。あっちからも、こっちからも、野良犬どもが匂いに誘われてやってくるじゃないか。みんなやけにがっついてやがる。ワンワン。あたしが先だよ。あたしが先に匂いを嗅いだんだ。」


 さて、

ここは幕府直営の犬小屋。犬小屋といってもそんじょそこいらの犬小屋とは違います。何しろ幕府直営です。それは大変に立派なもので、江戸の町で暮らす野良犬たちの面倒をみるために設けられた施設です。犬になったポン助が言ってみると、そこにはちょうど、どうしたわけか犬に好かれるという理由で任命された爺と呼ばれる年老いた御家人が一人で野良犬たちに食事の支度をしていました。

「おーい、メザシが焼けたぞー。野良のお犬様達よう。お食事の時間だぞー。おおう。みんな集まってきたな。どうだ?みんな元気にしていたか?誰か悪い人間にいじめられたりはしてなかったか?ポチ。お前はどうだ?変わりないか?うん。目ヤニも溜まってないし、毛艶もいい。いい男っぷりだ。こらこらシロ。そんなによだれを垂らすな。はしたない。きれいな顔が台無しだぞ。今、ご馳走をやるからな。まあそこにお座り。こらブチ!チャチャを噛むんじゃない!まったくお前たち兄弟は仲がいいなあ。顔を合わせりゃあ、そうやって戯れあっていやがる。さあ、もうお遊びは明日にしろ。食事の時間だ。さあさあ、みんなも座れ。順に食事を配るから。今日はうまそうなメザシだ。みんなの大好物だ。さあ待ちに待った食事の時間だ。

おや?おやおやおや?

こいつはまた見慣れない犬がいるぞ。おめえはまたやけにでかい犬だな。人間のようにも見えるが、困ったな。歳は取りたくねえなあ。こないだ小便の切れが悪くなったと思ったら、今度は目の方がいかれちまったか。俺の目にはどうしたってこいつが人間に見えるんだがな。いくら歳を取ったからって犬が人間に見えるものかね。毎日毎日こうやって野良犬どもの世話をしているうちに、犬と人間の区別がつかなくなっちまったか。これは困ったぞ。そろそろ俺も引退した方がいいな。歳取って目がやられちまったんだ。いや、これは目だけのせいじゃねえかもしれねえ。頭の方もやられたかもしれねえ。犬ばかりを見すぎたせいだ。人間と犬の区別がつかなくなっちまったんだ。いや、待て待て。そうともばかりは言えねえ。俺の頭がイカれたと決めつける前に、まず、こいつが犬か人間かを決めるのが先決だ。もしこいつが犬なら、俺の頭は完全にイカれちまったってことだ。何しろ俺の目にはこいつはが四つん這いの人間に見えるからな。だがもしもこいつが本物の人間なら、俺の目は間違ってねえってことになる。そうしたら俺はこいつを引っ叩くぜ。人間なんだからな。大事なお犬様の飯をやることはねえんだ。だって犬じゃねえんだから。ただの人間だ。棒で引っ叩いて、叩き出してやりゃあいい。

おい、犬、いや人間、

いいか。これからお前が犬かどうかを試験する。逃げるなよ。まずは外見の試験だ。人間は四つ足じゃあ歩かねえ。こいつは四つ足で来たところからすると、その点はまず犬だな。それに人間なら、メザシをもらうために犬と一緒に並んで座ることもねえ。人間なら自分の飯は自分で支度できるからな。だとするとやっぱりこいつは犬だ。だがどうにもこいつには人間臭えところもある。うーん。そうか。わかったぞ。こいつは着物を着てやがるんだ。犬が着物を着るか?ええ?おかしいじゃねえか。着物を着るのは人間だけだ。犬は着ねえ。犬は着物なんか着なくったってすでに立派な毛皮を着ているからな。だとするとこいつは人間だ。」

「ワン!」

「おおう!吠えやがった。するとお前は犬か?」

「ワン!ワン!」

「驚いたね。返事をしやがった。どうやらますます犬らしいぞ。じゃあ次の試験だ。これは難しいぞ。お座り。」

「偉い!ちゃんとお座りもできるじゃねえか。するってえと、こいつは人間によく似てはいるが犬ってことになるな。人間だったらよ、赤の他人から『お座り』なんて言われて座るようなことはしねえ。人間には胸に誇りってのがあって、お座りの邪魔をするもんだ。じゃあ次だ。お手。」

「ワン!」

「お手もしやがった。だとするとこいつは犬か。ただ一つ、着物を着ているのがどうにもやっぱり気になるところだが、しかしよ。犬がお犬様と呼ばれるこの御時世よ。着物を着た

犬がいたとしても、まんざらおかしくはねえんじゃねえかな。俺が知らねえだけかもしれねえ。何しろ俺のように野良犬専属の料理番までいるくらいだ。着物を着た犬がいてもおかしくはねえ。ああそうだ。犬だって着物を着るだろうよ。おい、犬、おめえ、名前はなんていうんだ?」

「あたしはポン助ってんだ。」

「言葉を喋りやがった!引っかかったな。これが最後の試験だったんだ。やい!てめえ!犬が人の言葉を話すなんてことがあるもんか!とうとう正体を現しやがったな!てめえは人間だ!人間のくせにお犬様のメザシを横取りしようなんざ、太え野郎だ。百年早え!この棒で引っ叩いてくれる。」

「痛い!あたしは人間だぞ。なんだって棒で引っ叩く?人間同士なら話せばわかるじゃねえか!」

「馬鹿野郎!人間だから引っ叩くんだ。犬を引っ叩いたら罰せられるが、てめえみてえな奴はこうしてくれる。この野郎!この野郎!」

「痛い!痛い!止めろ!打つな。畜生、人間なんてもう嫌だ。もうこりごりだ。止めろ!あたしは犬なんだぞ!キャイン!キャイン!ワオーン!」

「コイツ、まだお犬様のフリをするつもりか?とんでもねえやろうだ!えい!えい!まだ懲りねえか。もっと引っ叩いてやる!」

「これこれ、どうしたどうした?爺、何があった?」

「これは上役。いいところへ来てくれました。なに、コイツがお犬様のフリをしてメザシを掠め取ろうとしやがったもんでね、こうして成敗しておったところでございます。」

「なに犬のフリを?」

「おい貴様。」

「ワン。」

「お前は犬か?」

「ワン。」

「てめえまだ犬のフリをしやがる。まだ叩き足りねえか。」

「待て爺。貴様、名をなんと申す?」

「ワン。」

「さっきは、こいつ名前を言って失敗したもんだから、今度はちゃんとワンと言いやがった。上役、コイツはポン助という男です。そうだろ。ポン助。」

「ワン。」

「まだ犬をやりやがる。ふん。俺の目は節穴じゃねえ。歳は取っても犬と人間の区別くらい、ちゃんとつくんだ。さあ帰れ。ここは人間の来るところじゃねえ。」

「なるほど。では爺、このポン助にもメザシをやれ。」

「なんですって?」

「他の野良犬たちと共にこのポン助にも食事を取らせるのだ。それだけではない。しっかりと清潔を保ち、健康にも気を配れ。」

「あのう上役。こんなことは無礼になるから言いたくはねえが、上役も目か、あるいは頭の方がどうかしちまったんじゃねえでしょうか?コイツはどう見ても、」

「人間だ。爺、わかっておる。だがな、コイツは自分が犬だと申しておるのだ。そうだな、ポン助。」

「ワン。」

「お座り。どうだ爺、座ったぞ。お手。うん。お手もできるか。お回り。上手だ。ちゃんとできるではないか?どうだ爺、コイツは確かに人間にも見えるが、どうしたって犬だ。」

「はあ?」

「爺、そんな顔をするな。わしは気が触れたわけではない。頭だっていたって正常だ。むしろ気が触れたのは、あまり大っぴらには言えぬが、世の中の方だ。聞けば東北では飢饉で人が飢えているというのに、ここではこうして野良犬どもが日々豪華な食事を楽しんでおる。それは将軍様が我らにお犬様を大切にせよと仰せ遣わされたからだ。全ての犬を一匹残らず、例外なく大切にせよとのお申し付けだ。自らを犬と名乗る者は例外にせよとの仰せはない。ならば我らはその殿の御言葉に従わねばならぬ。もし従わねば、我らの命はない。よいか、コイツは自らを犬と名乗る以上、やはり犬なのだ。犬であれば我らも犬として扱わねばならぬ。よいか爺、それがお上からの厳命だ。」

「ワンワン!」

「そうかそうか。うれしいか。あまり食い過ぎて爺を困らせるなよ。他の犬と仲良く分け合うのだぞ。では爺、後を頼んだぞ。」

「ワン。聞いたか爺。ぼけッとしてないで早くあたしにメザシをおくれ。さもなくば命はないぞよ。」

「上役!上役!今のを聞きましたか?今コイツ喋りました!人間の言葉を喋りやがったんですよ!上役!ああ行っちまった。こら!ポン助!俺の足に絡みつくな!わかった、わかった。うれしそうにしやがって。今餌をやる。」


 こうしてポン助は犬として暮らし始め、数日が経ちました。

「ああ気持ちがいいなあ。犬がこんなに気持ちがいいとは知らなかったなあ。ええ?お天道様っていうのはこうして地べたに寝そべって腹に当ててやると、実に気持ちがいいもんだ。人間でいる頃にはちっとも知らなかったよ。ああだんだん熱くなってきた。今度は背中にお日様を当ててやろう。ふう、気持ちがいいねえ。あーあ。あくびが出る。おや、通りの向こうで寝そべっているのは、ムクだね。まあよく太った犬だよ。何にもしねえで食っちゃあ寝てばかりだから、あんなに太っちまったんだねえ。人一倍、いや、犬一倍アイツは食うからね。おやおや、あたしに負けず劣らずのでっかいあくびだ。あーあ、気持ちよさそうに尻尾なんざパタパタ振っちまってさ。呑気に寝てやがる。あたしだって尻尾があったら振っちまうんだ。ないから振れないだけさ。ああ、いいお天気だねえ。尻尾を振りたくなるようなお天気だ。実に温かくて気持ちの良い午後だねえ。あーあ。またあくびが出た。それにしても、人間ってのは実に浅ましい動物だよ。どいつもこいつも、ああやって通りをセコセコと歩いてさ。あっちへペコペコ、こっちへスタスタ、いったい昼間っからどこへ行こうっていうんだい?やだやだ。人間ってのは実にせせこましい。お日様が温かいってのも知らないんじゃないのかねえ。知らねえから昼の昼間っからあんなに忙しく働いていられるのかもしれないねえ。こうやって地べたに寝そべってみねえことにはさ、お天道様の本当のありがたみってのはわからないものなんだねえ。あたしはさっさと人間を卒業して正解でしたよ。うん。生きるなら犬に限ります。あーあ、こうやってあくびばかりしていると、どうしたって次に来るのは眠気だ。温かくて、眠くなって、きまし、た、ぐう。」


「クンクン。クンクン。ああいい匂いだ。おっと少し空気が冷たくなってきたね。ずいぶん長く寝ちまったみたいですよ。ふぁああ。今何時だ?日が傾いているからもう夕方だね。夕方?そうだ!こうしちゃいられねえ!寝過ごした!お座敷へ出ねえと!大切な旦那をしくじっちまう!はっ!馬鹿だねえあたしは。もうそんなこと気にすることはないんだ。だってあたしはもう太鼓持ちのポン助じゃないんだから。すっかり忘れていた。人間やめたんでした。今はもう天下御免のお犬様。野良犬のポン助様だ。クンクン。ああいい匂いだ。爺があたしたちのために魚を焼いているだね。あの爺さんは、仕事は遅いけれど魚を焼かせたら右に出る者はいません。名人だ。さあ今宵はメザシかサバか、はたまたアジか。なんでもいいや。こちとら腹が満たされりゃあ文句はないんだ。では重い腰を上げましてと、いざ、夕食の席へ参ろうか。おや?お向かいのムクは駆け足だよ。旗みたいに尻尾を立ててさ。まったく食いしん坊だね。おい!ムク!よだれがこぼれてるぞ!もっと上品に行け。それじゃあまるっきりの野良犬だ。あたしはゆっくり行きますよ。野良犬だからって下品になっていい理由は何一つないんですからね。あーあ少しばかりうたた寝しているうちに、すっかりお日様も傾いたねえ。空が真っ赤だよ。通りを行く人間どもの影もすっかり長くなった。しかし影っていうのは、またずいぶんと大きくなるもんだねえ。これもまた立って暮らしている頃にはわからなかったよ。こうやって四つん這いになって人の影ってやつを改めて見てみると、影の方が人間の本体で、立って歩いている生身の人間の方が中身のない偽物みたいに見えてくるねえ。さあ着いた。爺、今宵の献立は何かな?ワン。」

「やけにのんびり歩いてきたな。ポン助。少しばかり呑気過ぎたぞ。犬の世界はそんなに甘くはねえんだ。かわいそうに、おめえの飯はもうねえぞ。そんなにのんびり来るから、全部他の犬が食っちまったよ。」

「爺!ひどいじゃないか!あたしが来るって知ってるんだから、取っておいてくれたらいいじゃないさ!上役に言いつけてやる。ワンワンワン!」

「そうワンワン吠えるな。なに冗談だよ。ちゃんとお前の分もこうして用意してある。さあ、食え。」

「ワン!」

「そう怒るな。ああ?うまいだろ?人間だって滅多に食えねえような上等の魚だ。お上に感謝しろよ。お前は犬になったおかげで、ただで食えているんだからな。あーあ、うまそうに食ってやがる。なあポン助、どうも俺はお前に餌をやるのが、なんというかこう、気分が悪いんだ。悪く思うなよ。どうも人の道に外れているような気がしてな。上役はああ言ってはいたが、果たして人間を犬扱いしていいものかどうか。俺はお前に酷いことをしている気がしてくるんだよ。おい、食いながらそんな目で見るな。わかったわかった。お前は人間じゃねえ。犬だ。立派な四つ足だ。もう言わねえよ。何も言わねえ。お前は正真正銘の犬だ。だから俺はお前にも餌をやる。それだけのことだ。」

「ワン!」

「わかったわかった。俺が邪魔なんだな。そう怒るなって。俺はあっちへ行ってまだ魚を焼かなきゃいけねえ。ないしろ腹を空かせた野良犬様たちがまだ大勢いるんだから。」

「ワン。まったく気分が悪いのはこっちの方ですよ。人が、いや犬がおいしく飯を食っているところに、横からゴチャゴチャ言いやがって。だからあの爺さんは出世できないんですよ。今度そのことをじっくり説いて聞かせてやらないといけません。どうすれば出世できるか、あたしはその辺の人間よりもよく知っているんだ。お座敷でいろいろ見てきたからね。うん。うまい。まああの爺さんは魚を焼くだけは一人前だ。」

「ポン助さん?」

「おや?この声は?聞き覚えがありますよ。」

「ポン助さん?やっぱりそうだ。あなたポン助さんね!」

「お、その声は?そうだ。おみっちゃんだ。おみっちゃんがあたしに会いにきてくれた!」

「ああなんてことなの!海苔屋のお婆さんが『ポン助の奴は人間やめて犬になったよ』なんて馬鹿なことを町中に言いふらしているから、そんなことあるもんですかって、いくらポン助さんでも犬になんてなるはずないってあたし、お婆さんを叱ったの。だけどお婆さん『じゃあお上の作った犬小屋まで見に行ってみたらいい』と言って聞かないから、念のためここまで見にきてみたら、本当に犬になっているじゃないの!いったい何があったのポン助さん。あなた、立派な太鼓持ちとして働いていたじゃない。芸を磨いて一流の太鼓持ちになるってがんばっていたポン助さんはどこへ行ってしまったの?野良犬たちと一緒にそんなところで四つん這いになって、本当に犬になっちまったじゃない!」

「さあポン助。追加の魚が焼けたぞ。ほら、食え。」

「ワン。」

「ワンって何よ!ちょっとお爺さん!この人は人間よ。食事を投げ与えるなんて失礼よ!」

「おや?お前さんはポン助のお友達かい?」

「そうよ。あたしはポン助さんの幼馴染で小間物屋をやっているミツと言います。」

「するとあんたも野良犬かい?」

「まあなんてひどいことを!あたしのどこが野良犬だって言うのよ。いくらあなたが年寄りだからってね、これ以上あたしとポン助さんを侮辱するとただじゃおかないわよ!」

「まあまあおみっちゃん。そう噛み付かないで。」

「誰が噛み付くんですか!あたしは犬じゃありません!」

「とにかくおミツさんとやら。あんたのポン助はこの通りだ。今はこうして犬となり、わしたちが面倒を見ている。わしにはまだ仕事があるからあっちへ行くが、ここはよく話し合った方がいいですな。」

「ポン助さん。そんなものを食べないで!それは犬の餌よ!」

「だっておみっちゃん。あたしが食べないと他の犬どもが全部食っちまうんだよ。だから早く食べないとあたしの分がなくなっちまうのさ。腹ヘリはひもじいからね。」

「手を使いなさい!食べる時は手を使う!それが人間よ。口だけで地面に落ちたやつをガツガツ食べない!」

「本当だ。いつの間にか手を使ってなかった。気がついたら口だけで食ってた。犬に混じって食ってると食べ方も立派な犬になってしまうんだねえ。知らなかった。」

「ねえポン助さん。そんな悲しいことを言わないで。あなたどうして犬になんてなってしまったの?」

「よくぞ聞いてくれたよ、おみっちゃん、悲しいかな、あたしはもう人として生きられなくなってしまったのさ。」

「どういうこと?」

「つまりこういうこと。おみっちゃんは知らねえかもしれねえがね、お侍ってのは町人を訳なく刀で斬り殺しても、斬り捨て御免ってえことで無罪放免になるのよ。運の悪いことにあたしはその斬り捨て御免になるところだったのさ。お侍の鎧田権左衛門ってたちの悪いのがあたしを御陀仏池まで呼び出してさ、刀の試し切りをさせろっていきなり斬りかかってきたわけ。ところがよ、おみっちゃん、これもまたお前さんは知らないかもしれないけれど、犬は大丈夫だっていうのさ。犬は殺されないの。生類憐みの令って立派な法律ができて、お侍だろうがなんだろうが犬を殺した奴は打首獄門になるらしいのよ。もうそうなると話は早い。一瞬だって人間なんてやってられない。あたしは生きるため、こうして犬になることにいたしました。だからもう人間には戻りたくても戻れません。だって人間になると鎧田の野郎に殺されちゃうんだから。もう犬として一生を送るしかないわけ。それに犬の暮らしもけっこう楽しいものでさ。おみっちゃんも犬になってみたらいいんだ。こうして一日中ゴロゴロしていられるし、食べる心配もないし。」

「殺されたらいいのよ。」

「え?」

「ポン助さん、あなたその侍に殺されたらいいのよ。」

「おみっちゃん、どうしてそんな残酷なことが言えるのさ。あたしたちは幼馴染、友達じゃないか。」

「あたしに犬の幼馴染なんかいません。四つん這いで人と話す友達もいません!」

「ああそうか。道理でさっきから首が痛いと思った。ずっと見上げていたからだね。それに、やけにおみっちゃんが大きくなったなあって、話しながらずっと驚いていたんだ。前からこんなに大女だったかなあってね。もしかしたらお腹に子供でもいるのかな、なんて考えちゃってたよ。そうだね。あたしがずっと四つん這いで下から見上げていたからだ。それじゃあ大きくも見えるよ。犬はずっとおみっちゃんをこんなふうに見ていたんだねえ。え?ああなんてこった。まさか。いやよそう。こんなこと言っちゃいけない。

「何さ?」

「ねえおみっちゃん、人間の頃は全然気が付かなかったけどさ、犬になってみて初めてわかったことがあるんだ。おみっちゃんの顔のことさ。聞きたい?」

「あたしの顔がなんだって言うのさ?」

「だけど、こんなことを女の子に言ったらいけないね。」

「じゃあ言わなきゃいいじゃない。」

「じゃあ言わない。きっとおみっちゃん怒るから。」

「言ってみなさいよ。」

「怒るから言わない。」

「怒らないから言ってみなさいよ。」

「じゃあ言うね。あたしは犬だから許しておくれ。おみっちゃん、もう少し鼻毛の手入れをした方がいいね。下から見ると鼻の穴が丸見えだ。たいしたモジャモジャっぷりだよ。」

「人間に戻りなさい!」

「戻ったら殺されるんだ。あたしは死んでしまうんだよ。それでもいいのかい?友達が死んでもいいのかい?」

「あなたもう死んでるじゃない。さよなら。」

「おみっちゃん!待って!死んでるってどういう意味さ。あたしは犬として、立派に、待って!行かないで。」


「あーあ、行っちまった。ポン助、フラれたな。」

「そんなんじゃないやい。」

「いや。見事なふられっぷりだよ。そりゃそうだ。憎からず思っていた男が、人間やめて犬になっちまったんだからな。可愛い女の子には少しばかり刺激が強過ぎたんだ。さあポン助、食え。今日は特別だ。一つ余計にやる。他の犬たちも文句は言うまい。うまい魚でも食って元気を出せ。」

「お爺さん。魚はもういりません。」

「そう深刻になるな。もうお前は犬になったんだから、人間の女にふられたからってなんだって言うんだ。」

「いや。あたしはすっかり目が覚めました。そうですよ。あたしはまだ死んじゃい。おみっちゃん、ありがとう。あたしに大事なことを気づかせてくれて。人間のあたしは、まだ生きているんだ。」

「お!ポン助、おめえ立ったな!二本の足ですっくと立ち上がった。驚いたね。立ってみると、確かにおめえは犬じゃねえ。人間だ。それも、まあまあ男前の方の人間じゃねえか。」

「お爺さん、短い間でしたが大変お世話になりました。美味なるメザシをご馳走になったこと。このポン助、生涯忘れはしないでしょう。それにムク、クロ、シロ、ポチ、それにチャチャ、ああブチもいるね。みんなを驚かせてしまったね。ああそうなんだ。ごめんよ。あたし、本当は人間だったんだ。怒ったかい?申し訳ない。みんなを騙すつもりはなかったんだよ。犬になろうとした気持ちは本物でした。あたしだってできれば犬になりたかった。でもなれなかった。どうしたってやっぱりあたしは人間でした。人間として生まれたからには、人間として生きていかなきゃいけません。それが人間というもの。そして最期は人間として死ななきゃならないのです。みんな、こんなあたしを犬、人の分け隔てなく仲間に加えてくれて本当にありがとう。みんなのことは生涯忘れないよ。いつまでも元気に暮らしておくれ。お爺さんもお達者で。これにて御免。」

「おいポン助。どこへ行く?」

「それは聞かねえでおくんなさい。あたしは人としてやらなければならないことをやりに行くのです。」


 夜も更けた花街。

 とある料亭の入り口から女の子たちに見送られ、ほろ酔いの鎧田権左衛門が上機嫌で出て参りました。

「いやけっこうけっこう。見送りはここでかまわぬ。いや、今宵も良い酒であった。また来るぞ。」

 店を出てお堀端を千鳥足で歩く鎧田権左衛門。やがて人通りも絶え、薄暗い柳の木の影に入ったところで、ふと足を止めます。

「先ほどからわしの後を付けているようだが。何者か?名を名乗られよ。」

 正面を向いたまま、鎧田は自分の後ろにいる人間の気配に意識を集中させます。振り返らなかったのは振り返っても無駄だとわかっていたからです。相手は、先刻から月明かりを避け、暗がりに身を潜ませながらついてきていることに、すでに気がついておりました。

「鎧田様、お腰に下げておられるのは例の刀ですね。」

 低い声が後ろの影から発せられました。

「ふむ。さよう。名刀国輝だ。まだ人の血を吸いたくてうずうずしておる。時にポン助、犬になったのではなかったか?」

「悲しいかな、あたしは生まれついての人間稼業。どんなにあがいても犬にはなれませんでした。」

 すると鎧田はサッと刀を鞘から引き抜き、青白い刃を月光の下で輝かせました。

「実に美しい刃だ。ポン助、なぜ戻ってきた?わしの前に来れば命はないのに。」

 ここでようやく鎧田は振り返ります。するとポン助もスッと暗がりから前へ出て、月明かりの下に立ちました。もちろん二本の足で。それに意外なほど落ち着き払い堂々としております。

「覚悟を決めたようだな。良い心がけだ。」

「勘違いしてもらっちゃ困ります。旦那、あたしだって人間だ。犬のように殺されてたまりますかってんだ。犬死するのはまっぴらごめんですよ。」

「ではなぜわしの前に現れた?」

「噛みついてやりたいんです。鎧田の旦那、あなたに噛みつきたくて仕方がない。あたしは負け犬なんかじゃない。女の子に振られるのはしょうがないとしても、負け犬になるのはまっぴらごめんだ。どうです?旦那、あたしと一戦交えましょうや。あなたがあたしを殺す気なら、あたしもあなたを殺す気でいきます。どうです?あたしが勝つか、あなたが勝つか。男と男の真剣勝負。ここなら誰にも邪魔されません。それでもその刀であたしを斬ってみますか?」

「おかしなことを言う。太鼓持ちのお前が侍のわしと戦って勝てるとでも言うのか。寝ぼけたことを。だいたいお前は何も持っていないではないか。武器はなんだ?どうやってわしを殺すつもりだ。」

「武器なんていりません。あたしには生まれついてのこの口と手と足があります。それだけで十分。本当はあと尻尾があったらいいのだけれど、それ以外に余計なもんがあったら邪魔でしょうがねえ。」

「犬になってとうとう本当に頭がイカれたか。ならば斬って捨てることに躊躇はない。潔く死んでもらおう。」

 鎧田は刀を振りかぶり、ポン助の肩を目がけて一息に振り下ろしました。『よし!斬った!』と思ったが、なぜか斬った感触がない。『名人の作ともなると斬ったこともわからぬほどの滑らかな切れ味か』とも思ったが、『いや何かが違う』。刀はそのまま空を斬り、ザッと音を立てて土を突き刺しました。『いない!』。今斬ったはずの、目の前で肩から血を吹いて倒れているはずのポン助がどこにもいません。姿が消えてしまいました。鎧田権左衛門、刀を地面に突き刺したまま狐につままれたような顔をしています。その頬をピシャ。どこから現れたかポン助の手が引っ叩きました。

「遅い遅い。それじゃあ人どころか、カカシだって斬れませんぜ。そんな刀、子犬の甘噛みみたいに生チョロでさ。」

 実はポン助、ここにきてようやく自分が鎧田に勝負を挑んだ理由がわかってきました。自信が身についていたのです。四つ足で暮らし、犬たちと飛んだり跳ねたりしているうちに、ポン助の足腰はいつの間にか犬並みに丈夫になり、誰よりも俊敏に動けるようになっていました。もうお座敷を渡り歩いていた頃の弱々しいポン助ではありません。『なんだかあたし、何も怖くない』。鎧田の前に立った時、ポン助はそんなことを思っていました。刀を抜かれた時も同じです。『こいつに噛みついてやる』。闘志がみなぎっていました。犬として生きた数日間で、ポン助の魂は戦う野生の本能を取り戻していました。ポン助は自分の内側から自信がどんどん湧いてくるのを感じておりました。

「何を!」

 さあ怒ったのは鎧田権左衛門、今度は横ざまにポン助の腹を目がけて刀を振ります。ところがそれもポン助はサッと身をかわして避ける。刀はまたも空を斬り、鎧田は体を崩す。その背中をドンッとポン助が足裏で蹴り、鎧田はそのままヨタヨタとお堀の淵までよろめくと、落ちまいとする最後の抵抗虚しく、ドボン、水の中にへと真っ逆さま。

 濡れ鼠となって水の中から這い上がってくる鎧田の前に、ポン助は二本の足で立ち、勝ち誇りながら見下ろしていました。

「ポン助、わしが水の中にいるうちに逃げておくべきだったな。どこまでも馬鹿な男よ。このわしを本気で怒らせてしまったからには、今度こそ本当にお前の最期だ。もう堪忍ならぬ。」

 湯気を上げて怒っている鎧田の額を、ポン助がポンっと蹴ります。すると再び鎧田は仰向けとなって水の中へと落ちていきました。

「貴様ー!」

 今度は飛び魚が水面から飛び出るように、鎧田が水の中から飛び上がってきました。あまりにも早く水から出てきたのでポン助に額を蹴る隙を与えません。びしょびしょになった体でポン助の前に仁王立ちとなり、二度までも水へ落ちても手放さなかった大事な刀で、

「キエー!」

甲高い気勢を上げてポン助目がけて斬りかかります。しかし今度もポン助はそれをいとも易々と避けてしまいます。

「キエー!キエー!キエー!」

目を血走らせ、完全に常軌を逸した鎧田権左衛門、めったやたらにポン助に斬りかかりますが、何度斬りかかっても同じこと、その度にポン助は余裕で避ける。それがまた鎧田には癪に障る。もうなりふり構わずめったやたらに斬りかかります。鎧田、体中の穴という穴から火を吹くようにして刀を振り回し、ポン助を斬ろうとしますが、ポン助はそれをひょいひょいと避けてしまう。これでもか、これでもかと、あんまり振り回すものだから、やがて刀は鎧田自身の髷を切り、着物を切り、袴を切りと、刀を振れば振るほど、鎧田の身なりはどんどん惨めになっていきます。それがポン助には楽しくてしょうがない。余裕の平左でニコニコと笑っています。それを見て鎧田ますます怒り心頭。もうこうなるとポン助を斬らずにおくものかとさらに激しく刀を振り回します。

「あはは。鎧田さん。どうしたんです?もうお疲れですか?太鼓持ち一匹斬れないようじゃあ、天下の名刀も泣きますよ。」

「ウガアー!」

 さあ鎧田権左衛門、怒った怒った。怒りに任せてもう狂ったように刀を振り回します。それでもポン助に刀は当たらない。それがおかしくてポン助はますます大笑い。

「グアア!」

 ところが、もうこれ以上は怒れない、これ以上怒ったら脳か心臓の大事な血管が切れて死ぬ。それほどまさに死の寸前まで完璧に怒り狂った鎧田権左衛門の、最後にして渾身の一撃が振り下ろされた時、小さな奇跡が起きました。

 

名刀国輝の刃

の先端が、ポン助の左手の小指の先を少しだけ切り落としたのです。天下の名刀も何度も地面を切っているために刃先は刃こぼれしてボロボロ。そのギザギザの刃で指先を切られたのですからたまりません。ポン助には手首から先が切り落とされたような激しい痛みが全身を駆け回りました。小指の先からポタポタと落ちる血が、ポン助には大量出血にも思えました。

ガッチャン。

 大きな音を立てて、何かがポン助の心の奥深いところで切り替わりました。

 犬として暮らした数日間でポン助に起きた変化は、身体的な俊敏さが身についただけではありません。心もまた大きく変化していたのです。つまりポン助の魂の極めて奥深い場所で、ぐっすりと静かに眠っていた生存本能、人間ではない野生に生きる動物のみが備えている裸の本性、野獣の心とも呼べる荒ぶる魂が、犬となったことでしっかりとポン助の心の中心で目を覚してしまっていたのです。鎧田の渾身の一撃はそのポン助の内なる野獣を完璧に覚醒させ、完全に解き放ってしまいました。

 今再び、ポン助はごく自然に四つん這いとなり、

「ガルルル。」

 喉の奥から恐ろしい唸り声を上げました。

 突如として野獣へと豹変したポン助の圧倒的な迫力に気圧されて、鎧田は怯え始めました。ポン助がすでに以前のポン助ではないことが、ようやく鎧田にもはっきりと分かったのです。名刀の切れ味がどうのこうのと言っている場合ではありません。もはや相手は刀で対抗できる『人間』ではないのです。

「おいどうした?ポン助?なんだってそんなおっかない顔をする。なんだなんだ。指の先が切れただけではないか?お、俺なんか、お前に堀へ落とされてビシャビシャだ。アハハハ。髷だって、袴だって、ボロボロだ。怒りたいのは俺の方だぞ。さあもういい、もう全部忘れてくれ。お前を斬るだなんて冗談だったんだよ。そんなことも分からなかったのか?馬鹿だな。冗談だよ。さあこれから飲みに行かないか?どうだ?」

「ガルルル。」

 ポン助はジリジリと袴田に詰め寄ります。

「待て。わかった。こうしよう。お前の好きな、あれだ、あれをやろう。そう、扇屋のわらび餅だったな。お前はあれが好きだったろ。明日朝イチで買ってやる。おい、来るな、こっちへ来るな。」


『ダメだダメだ。そんなことをしちゃいけない』。ポン助の頭の中のごくごく片隅の端っこの方で、まだ小さく生き残っていた人間の部分のポン助が小さな声を上げました。しかし同時に、もう自分では自分を止められないことも、ポン助にはわかっていました。野獣に支配られてしまった自分の目が、鎧田の柔らかい喉笛を凝視して離さないのをわかっていたからです。恐ろしいことに、数秒後、自分がそこに食らいついているのもわかっていました。『これだ。これが欲しかった。こいつの喉元に食らいつきたかったんだ』。ポン助の野獣の本能が血の味を渇望しています。口の中はすでにたっぷりの涎で満たされ、かすかに血の味もするような気がしました。『あああたしはすっかり獣になっちまった。嫌だ嫌だ。ダメだダメだダメだ。あたしは獣なんかじゃない。人間だ。鎧田は獣みたいな奴だけど、殺しちゃいけないんだ。だってあたしは人間だし、こいつも人間だ。こいつを殺してしまったら、あたしは縛首になっちまう。そうなったらもうおみっちゃんにも会えやしない。頼む!鎧田の旦那!それ以上怯えないでくれ!あんたが怯えれば怯えるほど、あたしはあんたに食いつきたくなっちまう』。ポン助は声を出そうとしましたが、声が出ません。代わりに喉の奥から、

「ガルルル。」

 という恐ろしい唸り声が出るだけです。その唸り声を聞いてますます鎧田は怯え、ジリジリと後ろへ下がっていきます。

『ああダメだ。あたしはこいつを殺してしまう』。鎧田を追い詰めながら、ポン助にはその時がいつかもわかっていました。その時は、鎧田が目を逸らすか、あるいは逃げようと背中を向けるかした瞬間に訪れます。その瞬間、ポン助は雷の如く鎧田に襲い掛かり、その喉元に食らいつくのです。ポン助は舌なめずりをしました。それには鎧田のみならず、ポン助自身も恐怖で寒気がしました。『あああたしはすっかり獣だ。なんて恐ろしい。』

 ところで、ポン助の人間の部分も、絶体絶命の鎧田も知りませんでしたが、鎧田の命が助かる方法が一つだけありました。鎧田は地ベタに仰向けになり、ポン助に腹を見せればよかったのです。犬にとって、相手に腹を見せるのは降伏、服従の表現です。一般に犬は自分に降伏した相手をそれ以上痛めつけることはしません。この場合の完全に怒り狂ってしまった野獣ポン助にそれが通用するかはわかりませんが、もしほんの僅かでも鎧田が助かる可能性があるとすれば、唯一ポン助に腹を見せて服従の姿勢をとる他に方法はありませんでした。

 悲しいことに鎧田権左衛門は人間です。犬界の常識など知るよしもありません。

「そうだ。金をやろう。好きなだけ金をやる。十両でも二十両でも好きなだけやる。金額を言ってみろ。」

 人間鎧田は、愚かにも犬にとってなんの意味もない提案をしました。

『ああ畜生!あたしは本当に畜生になっちまった。こいつの血が欲しくて欲しくてたまらない。もうお終いだ。あたしはこいつを殺して、縛首だ。』

 後退りする鎧田が石につまずき、体がよろけた刹那、ポン助の四つの足が強く地面を蹴りました。鋭く光るポン助の目。その目はものすごい速さで大きくなり、近づいてくる鎧田の喉笛をしっかりと見据えています。ドン!鼻っ柱が鎧田の顎にぶつかり。ポン助は自分が大きく口を開けているのが分かりました。うっすらとしょっぱい汗の味がします。静かに、しかし素早く強く口を閉じると、歯は柔らかい鎧田の首の肉を切り裂き、口の中がドロドロとした大量の温かい血で満たされ、その血は洪水のように暴れまわり、ポン助は息が詰まりました。


「うわああああ!」

「なんだ!ポン助!どうした!」

「俺は!俺は!俺は。なんだ夢か。」

「驚かすなよ。こちとらぐっすり寝ていたのに、おめえが急に大声を出すもんだからすっかり目が覚めちまったぜ。」

「いや恐ろしい夢だった。こんなに恐ろしい夢はついぞみたことがねえ。俺、人を殺しちまったんだ。それに、もっと恐ろしかったのは、はっ!そうだ!ああよかった。ちゃんと尻に尻尾がある。耳はどうだ?ああよかった。立派な三角の耳も頭の上に二つ付いてるよ。ああ助かった。俺は犬だ。あの煩わしい着物も着ちゃいねえ。元の通りの毛皮だ。」

「おいおいポン助どうした?何を言ってやがる?」

「そう言うお前はムクだな。ああ犬だ。だけどお前が犬なのは知ってるんだ。夢の中でもお前は犬だったからな。おみっちゃんは?おみっちゃんはどこだ?おーい、おみっちゃーん!」

「なんだいなんだい、うるさいねえ。あたしはさっきからずっとお前の隣で丸くなってるじゃないか。」

「ああ、おみっちゃん。

よかった人間じゃねえ。立派な犬だ。念のために鼻を見せてくれ。きれいな黒い濡れた鼻だ。人間みてえに汚ねえ鼻毛なんぞ一本だって生えちゃいないぜ。本物の犬だ。いやまったく、ひでえ夢をみたぜ。」

「おいポン助、どうしたっていうんだ?」

「ああ参ったよ。ひでえ夢をみた。夢の中で俺は人間になっていたんだ。人間の太鼓持ちだ。犬じゃなかったんだぜ。」

「ふーん。人間か。それはひでえ夢をみたな。時にポン助、おめえ、なんで口が血で真っ赤だ?いったい何を食った?」

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