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小説│いど

 この話をきみに捧ぐ。未完だけどね。



 妹が死んだのは、四年前だ。冬だった。母親が病死してから、十四年ほど経つ。三年間父は独身でいたが、後妻をとった。
 妹は義母の子だった。父が再婚してからすぐに生まれたので、いわゆるデキ婚だったのだろう。
 妹が死んだのは、我が家に恒例だった、宴会の日だった。大酒飲みの祖父と、その血を受け継ぐ父親と、それから町内の男連中と望めばその嫁とを集めた大宴会を、それをやるには比較的手狭なうちの居間でやっていた。義母は酒をそこまで好んでいなかったが、給仕に忙しかった。
 私は当時まだ高校生に上がりたてだったが、男連中には未成年者も含まれていて、父はそれらと私とをくっつけさせるようなことをするためにだろう、私をよく呼んでいたものだから、あまり出向くことはなかった。その日も宴会への参加は避け、年の離れた、腹違いの妹と二人で、奥の居間よりも手前の部屋に居た。酌と食器の片付けに忙しない義母と共に台所に立つのも、気が進まなかったのかもしれない。
 我が家は、古い町並みの中にある。間口が狭く縦長の土地にあって、父の家系に伝わるものだ。道路に面したところには近代建築の、今風の住宅があり、土地の奥には江戸時代からのものと言われる蔵がある。家と蔵との間には黄土色の地面が露出してそれでいて日陰には苔が少し生えている中庭があって、唯一生えている柿の木の下に、祖父の時代にはとうに枯れていた井戸の残骸があった。枯れているので、その井戸には木の板を三枚ほど合わせて円形に切り取られたような蓋がされていた。経年劣化で、年輪に合わせて木材は凹凸していたように思う。
 妹は井戸に落ちて死んだ。妹にとって実の両親である二人が他の大人と自分抜きで楽しんでいる(ように見える)ことを面白く思わなかったのだろう。妹は宴会の度に何度か自分も参加すると強引に押し入ろうとしていたが、その度に父に止められ、お前も飲みに来ないのなら妹を頼んだと言われ、私とその時間を過ごすことが繰り返された。私が酒の席に参加していたならば、彼はどういう対応をとっていたのだろうか、想像がつかない。とにかく、何度かそういうことがあるうちのある一回、最後の日、妹は井戸に落ちて死んだ。私が聞いた妹の最後の言葉は「あたしも皆といたいのに」だった。
 私がトイレに行っている隙に、廊下を辿り、宴会の行われている居間の障子を通り過ぎて中庭に出て、井戸の蓋を開けて落ちたようだった。義母は丁度追加の酒を徳利に注いでいた最中で、男連中は大いに騒いでいた。
 妹がなぜ井戸に落ちたのかはわからない。宴会が行われていた居間を通り過ぎて、妹の歳ではやや硬すぎる窓の鍵を開けて、中庭に出たのは、どうしてだろうか。

 父がまた、外食をして帰った。だいぶ酔っ払っているらしく、上手く引き戸の玄関を開けられないようで、ガタガタ鳴らしていた。妹が井戸に落ちて死んで以降、義母は家中での飲酒に非常に厳しくなった。当時目を離していた私にも、酒好きの義父にも夫にも、辛く当たった時期があった。それでも飲みたい父は、仕方なく外の飲み屋を歩き回るようになったのだ。
 一方祖父は、妹の生前から進行していた痴呆が悪化し、肝臓も悪くしたので医者から酒を止められていた。聞き分けが良いはずもなく、二番目の嫁の目を盗んでは酒を飲もうと画策し、義母はそれを毎回諌めていた。ときには私に、義母に隠れて酒を調達してくるように頼んで来た。私も一緒に飲んでいいからと言いながら金を渡してくるのだが、私は未成年だから買えないよ、と断ることしかできなかった。酒の切れた、あるいは人との縁の切れた祖父は、突然老け込んだように見えた。
 正直、飲酒には興味があった。祖父、父に継いで私にも飲兵衛の血筋が受け継がれているというのは喜ばしくない事実だが、実の母もまた大酒飲みだったという話を、母親が死んで喪に服していたように見えていた父親から聞いたことがある。母親が死んだのは私が小学校に上がるときだったから、それなりに悲しんだ記憶はあれども、彼女の人格を像として結ぶのは難しく、事後的な父の語りの記憶を何度か呼び覚まして仮想している。だからこれは、母親の性質でもあった。
 妹が死ぬ前、祖父がどこかうわ言のように言っていた。前の嫁さんは沢山飲んで沢山笑っていて良かったのに、今の嫁さんはお酌はしてくれるし、よく働くけども、一緒に飲めないのがつまらないなどと。
 未だ玄関の外で苦戦している父親をわざわざ迎えに行く気も起きず、私は自室にいた。二階の部屋で、蔵側に窓が付いている。暫く生ぬるい夜風の響きと玄関のガタツキをなんとなく聴き流しながら机に向かっていたが、いつしか夜の静寂がうるさく感じはじめた。父親は上手く家に入れたのか、それとも諦めたのか、どうしたものだろうと思っていると、中庭にひょこひょこ酔っ払ったまま歩いてくる父親が見えた。一升瓶を抱えている。玄関の横には、直接中庭に続く小道があるのだ。
 父親は、二階から覗き込む私に気づき、今日はお母さんに見つからないように飲むぞ、と一升瓶を掲げた。私が呆気に取られていると、よそ見をしていた酔った父親は何かに躓いて、盛大に転んだ。抱えていた一升瓶は井戸に放り込まれた。
 父親は、地面に落ちていた井戸の蓋に足をぶつけたのだ。放り込まれたはずの井戸からは、ガラスの割れる音はしなかった。父親は酒を諦めて、縁側の方から帰宅した。

 中庭の柿を楽しむこの縁側の設計は、生前の母親が口出ししたものだった。というより、この家自体は母親が全体的に考案した要望に沿って建築されたらしい。前にも同じ場所に古民家に近い家が建っていて、それを父親と母親の結婚を期に建て直したのだ。母親は義実家の血筋に負けず劣らずの大酒飲みであって、むしろ一番この家の人間らしい人だったらしい。義父のみならず早くに亡くなった義母(つまり私の祖母)とも仲が良く、嫁に来るべくして来た女だったらしい。幅の狭い土地に入るギリギリのサイズで和室の居間を作ったのも、宴のためだった。
 症状の進行している祖父は、暑さのせいか、よく中庭に出て、枯れたはずの井戸で水を汲もうとした。水を浴びようとしていたのだろうか。私と義母とで介護しているに近い状態だったから、気づいた方が制止するのが日課だった。中々止めなかったから、義母と私で井戸の蓋を固定した。
 しかし、祖父は夜な夜な井戸を訪れた。紐をつけた瓶や桶を垂らしては引き上げていた。
 義母にそれが発覚すると、軽い口論が発生した。私は無関心に振舞った。廊下をゆっくり通っているときに聞こえた義母の言葉は、なんで危ないと言っているのに近づくのか、どうやって蓋を外したのか、といった具合だった。祖父は、そこに酒がある、皆の声がする! とうわ言を喚いていた。
 父親は相変わらず、飲み歩いていた。近頃は、義母も彼にとやかく言う気力もないようだった。

 祖父が井戸に落ちたのは、それから数日も経たないうちだった。いつものように紐を括りつけた容器と一緒に、枯れ井戸の湿った底に頭から落ちていた。祖父が居ないことは早朝に気づかれ、すぐに見つかった。引き上げられた祖父は酒に酔ったかのように真っ赤な顔のまま、呼吸をしていなかった。
 義母は彼女の義父の突然死に一通り驚き、悲しんでいたが、私の言う通りにしなかったからよ、私は再三言っていたんだからと、同様にショックを受けて立ち竦んでいた父親の胸を力なく何度か叩いた。父親は、気が抜けたような顔で、その日から飲み歩きを止めた。晩年はともかく、付き合いの多かった祖父の葬式には沢山の知らない人達が訪れ、喪主である父親は不自然なほど泣いていた。
 葬式が一通り終わると、今までとは打って変わって、父親は家に引こもるようになった。ひとりで過ごすには広すぎる居間で、酒を飲むわけでもなく、ただ佇むことが多くなった。義母は複雑な顔をしながら、父親の飲酒を特に止めるようなことをしなかったが、父親は望んで飲むようなこともしなかった。
 祖母のいる仏壇に祖父の遺影が追加されたとき、父親は、あるいは祖父のようなうわ言を言い始めた。
 宴会を開かなければならない、皆を呼んで、皆の所へ、ここへ、あそこへ、酒を、酒を……
 そのときの義母は、動揺というよりも、厭な表情かおをしていた。妹の死の記憶が蘇ったのか、それとも他の何かなのか。私にはわからなかった。ひとつわかっていたのは、ある一側面において、私と母親とは同じことを考えていたということだ。

 至極当然のように、父親は井戸に落ちた。秋の夜長、満月の夜に。
 義母が固く、固く綴じたはずの井戸は開け放たれており、父親は「おい、親父! 酒が手に入ったぞ!」と叫びながら勢いよく井戸に落ちた。まるで、酒の芳香と人々の歓声とに導かれるようにして。
 夫の叫びを聞いて飛び起きた義母は、寝室から急ぎ足で中庭に出てくる前にはもう、全てを知っていたような顔つきで、縁側のサンダルを履いていた。
 義母が覗き込んだ井戸には、昨日までの台風のせいか、多少の水が張っていて、夫の白く肥えた腹と水面に映る月とが瓢箪のように連鎖していた。勢いよく落ちた父親の損傷は激しく、むせ返るような臭気に悪酔いしたように、義母は夫の死体に吐瀉した。
 その日から義母は、人が変わったように酒を飲んだ。元々好みでなかったのが完全に嫌うようになったきっかけは、言うまでもなく妹、つまり実の子の死だが、愛する夫をも失ってからは、振り切って逆に酒に逃げるようだった。祖父も父も日本酒を飲んでいたが、彼女は洋酒だった。私もまた、立て続けに起こる肉親の死に予想外の動揺があったが、今や義母との二人住まい、何かと顔を合わせねばならぬ機会も多く、彼女の機嫌をこれ以上損ねてしまいたくないから、飲むようなことはできなかった。とは言え多くの時間、彼女は酔っぱらいであって、そんなことなど気にかけてもいないかもしれないが。
 続く我が家の死に、近所づきあいのある人達が心配をして訪ねてくることが何度かあった。遺品の整理を手伝ってもらうこともしばしばあった。この際だからと、今回とは関係ない未整理の荷物を紐解き、要不要を考えもした。それから、この家の将来についても義母と私とは言葉を合わせることも無く、同じ懸念を持っていた。つまり、土地の所有者である父親が死んだから、婚姻関係にある母と、一人しか残っていない子の私とに財産は平等に分けられる。この土地やこの家には、義母の血筋は関係ない。彼女は、厳密には自ら望んでこの家に嫁入りしたわけでもない。
 家を、どうするか。私はこれから義母と二人で暮らすことになりそうだったのを恐れた。義母は全く、私が恐れていたことを言った。私と一緒に、他の家に引っ越しましょう、と。きっと、義母は私が成人になればさっさと追い出すか、出ていくかするのだろう。私がまだ子どもだから、仕方なく。私は、はい、と答えた。記憶には殆どないはずの母親の顔がよぎった。この家を捨てるのか。

 遺品整理の延長というより、義母としてはむしろ、この忌まわしき土地からの撤退準備を行い始めてから間もなく、彼女が衣装ケースに封じ込めていた妹の遺品にもたどり着いてしまった。明るく、人と話すことが好きだった妹の服や玩具はどれも、今にもけたたましく騒ぎ立てるような派手な色と装飾を色褪せさせていなかった。私は、義母と共に突然現れた彼女に、どう振る舞えばいいのかを悩んでいた。義母はこれらの物品を見て、静かに泣いていた。私もなんとなく泣いていた。
 その日の夜、私は父の遺品の中から日記を見つけた。かなり古いもので、二十五年前くらいから、何冊も跨いで大体十年間くらいもつけていたようだった。父親がこんなものを残しているとは想像もしなかった。なんとなく、私の出生日のページを捲った。初めての子供に対する月並みな反応や次は男を作るとかいったことが書いてあった。次に、母親が死んだ日のページを見た。そこには、母親は泥酔して井戸に転落死してしまった、そういった内容が、要約すれば書かれていた。井戸を閉じてしまおうか迷ったが、妻の遺体から結婚指輪が抜け落ちて、底の泥に沈んでしまったせいで憚るとも。
 私にも、それから恐らく義母にも病死と伝えられていたのは、大方酒に酔って死んだなどという自他ともに不名誉な事実を伝播させないためだろう。私は特段驚かなかった。どちらにせよ死んだ人間なのだから。
 朝になり、義母は溺死した。半分くらい液体で満たされた井戸の中で、大量の子供服を抱えたまま土左衛門になっていた。
 彼女は喚ばれたのだろう。愛する我が子の寂しいと叫ぶ声に。あるいは前妻の執念に。
 いや、違うのだ。私が喚んだのだ。四年前にやったように。分別のない幼子に道案内をするように、慣れぬ酔いに錯乱した中年を、水面に映る幻想に導いた。ただ声をかけただけだった。あるいは二三、ものを投げ入れたかもしれないが。彼女の死体は酒臭かった。死体のせいなのか、井戸のせいなのかはわからない。
 私は酒というものを、飲んだことがないのだから。

 あんたも飲みなさいよ。

 聞いたこともないような母親の声が響く。井戸の底から響いているようだった。更に水位は上がり、今にもこちら側に溢れてくるような、世界からの喚び声。
 私もまた、喚ばれるのだろうか。私にはわからない。ずっと前から、こんな調子なのだ。

 ただ、私はこの冬、二十歳になる。

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