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二度の津波被災からの復興~当店の歴史を振り返ります

■本州最東端の街にあるけど西野屋です

こんにちは、はじめての方は、はじめまして。

本州でいちばん東にある街・岩手県宮古市、三陸鉄道の宮古駅から徒歩5分ほどのところで、「洋菓子・和菓子・パン」を扱う、小さな菓子店を営んでいます。

お店の名前は「西野屋」(にしのや)

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下は、当店を紹介している記事です。
まだご覧になっていない方は、出来れば先に読んでいただけるとうれしいです。

今回は、当店の歴史を振り返ってみます。

■「田老」の街から「宮古」の街へ(昭和三陸大津波)

このブログを書くにあたって、色々調べてみると、自分達でも忘れていたことがあったり、もう分からなくなっていることもあったり、きちんと伝えて残していくのは大切だな、と改めて感じています。


当店は、2020年(令和2年)で、菓子店として創業87年を迎えました。現在は三代目です。

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現在の宮古の地に来る前に、もともと、田老(たろう)という街で商売をしていました。

田老の街は、宮古から少し北にあります。昔は田老町でしたが、今は合併して同じ宮古市になっています。
いつ頃からかは分かりませんが、この田老の町で、もともとは、旅館業を営んでいました。

宮古がある三陸地方は、昔から津波が何度も襲ってきて、そのたびに大きな被害が出ている土地です。
1933年(昭和8年)3月3日にも、大地震がありました。
この地震のときの津波が、昭和の三陸大津波です。
(「昭和の」としているように、その前には「明治の」もあります)

この昭和三陸大津波は、宮古の市街地ももちろんですが(死者49名)、田老の街にはさらに壊滅的な被害を与えました。(死者901名 家屋流出500戸 ※資料によって数字は異なるようです)
私どもも、この津波被災では2名が犠牲となり、旅館業を廃業することになりました。

その同じ年の11月、田老から宮古に移転して、「裕林堂(ゆうりんどう)」という菓子店を創業します。
これが、現在の菓子店としての「西野屋」のはじまりです。

移転の理由や、旅館ではなく菓子店に転換した理由などは、今となってははっきりとは分かりません。
ただ、津波で何もかも失った先祖の、大きな決断だったのだろうということは偲ばれます。

なお、田老の街は、この昭和の津波をきっかけに、高さ10メートルの、「万里の長城」とも言われた大きな防浪堤を作りました。
しかし、東日本大震災の津波ではこの防浪堤も破壊され、再び大きな被害が出ました。
今では、田老は同じ宮古市となっています。発祥の地である田老のためにも、宮古を支えていければと思います。

■西野屋としてスタート

創業時は和菓子、飴菓子が主な商品だったようです。旅館時代に、自前でお着き菓子などを作っていた技術などがあったのかもしれません。

それからしばらくして、屋号を、現在の「西野屋」に変更しました。
戦後すぐ頃には、すでに洋菓子やパンの取り扱いを始めていたようです。
昔はタバコも扱ったり、通りの角でなんでもある便利な商店、に近かったのかもしれませんね。

西野屋写真
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創業以来、本店は宮古の保久田(ほくだ)という、三陸鉄道の宮古駅に近い場所にあるのですが、時代によって、いくつか他の場所に出店していたことがあります。

東日本大震災で被災するまでは、大通りという、宮古の昔ながらの商店街にもお店を構えていました。
また、駅前の「玉木屋」(現在は「キャトル」)というデパートにテナントを出していたこともあります。
本店では、「ポニー」という喫茶スペースを営業していたこともありました。

このように、代々、時代に合わせて商品種類や店舗展開を試行錯誤しながら、地元の味として、地域のみなさまに支えられてきました。

■バタークリーム

戦後に洋菓子を始めた頃は、生クリームが品薄だったため、ケーキの生クリームも、バタークリームで代用せざるを得なかった、と、伝え聞いています。
それでもなんとかして、ケーキという「楽しみ」を地元の人に味わってほしい、という想いだったのでしょう。

今ではもちろん、洋菓子や菓子パンには生クリームが使えますが、たまにバタークリームのほうのケーキもご注文をいただいたりします。きっと、そのほうが馴染んでいる味、という方もいるのかと思います。

それに、このバタークリームを使った経験は、技術として現在にも受け継がれていて、当店の個性の一つになっています。
現在、菓子パンでいちばん人気の商品「フルーツパン」は、伝統のバタークリームと煮リンゴの甘さが絶妙なバランスで、毎日買われる方もいるほど根強く支持をいただいていて、毎日何十個と飛ぶように売れます。

バタークリームが好きな人に、好きな理由を聞くと、「ちょっと安っぽい懐かしい味がむしろいい」「ちょっと胃にもたれそうなしつこさがボリュームを感じていい」のだそうです。
褒められているのかなんなのかちょっと分かりませんが、でも、愛していただいているのは間違いありません! ありがとうございます。

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■東日本大震災の津波

当店の歴史で、また一つの転機になったように思えるのが、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災です。

※この下には、津波で被災した当店の店舗写真があります。苦手な方はご注意ください。

東日本大震災の津波は、宮古市で517名(平成24年時点)の死者を出しました。

当店がある市街地では、閉伊川(へいがわ)の河口を遡上した津波が、堤防を越えて、大きな被害が出ました。
当店では、幸いにして、人的被害はありませんでした。それは何よりよかったことです。

しかし、海に近かった大通り店は、全壊しました。

震災支店

海から少し離れていた本店も、1階の店舗や事務所、作業場等は、すべて浸水しました。高さ1メートル以上、場所によっては2メートル近い浸水被害でした。

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■復興の道のり

震災後は、流れ込んできた泥や物の片付け、掃除を毎日していました。
最初の頃は、プロパンガスのボンベが店の近くに流れ着いて、辺りにガス臭が立ち込めていて、いつか引火するのではないかと恐ろしかったです。

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当然、電気も復旧しておらず、泥を洗い流すのにお湯も使えず、寒い時期ですので、水だけではなかなか汚れが落ちませんでした。

機材も、オーブン、アイスケースが壊れたり、色々なものがなくなったり壊れたりしています。
全壊した大通り店は再建できず、店舗は本店だけで続けていくことにしました。

復興の補助金などが使えたものもありますが、あきらめたものもありますし、知人の助けでなんとか手作業で直した機械もあります。

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やっと、本店で少しだけ営業再開できるようになったのが約三か月後。
本店が通常営業に戻ったのは、ほぼ一年後です。

昭和の津波をきっかけに創業し、東日本大震災の津波でも大打撃を受けました。
津波との縁は切っても切れないようです。

東日本大震災から間もなく10年です。
現在も、店舗は保久田の本店のみで営業しています。

なお宮古は、津波だけでなく水害も多い土地です。
たとえば2019年(令和元年)の台風19号でも、当店は、再び床上浸水の被害が出ました。

三陸、宮古の土地で商売を続けるうえで、津波や災害にどう向き合って地域のために役立っていくか、これからも考えていかなければならないことです。

味や価格だけではない意味で、宮古の地元に愛されるお店であり続けたいですし、地元を元気にしたいと思っています。

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当店の商品紹介記事は、こちらです。


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