「大本営発表」と呼ばれた原発報道 私を変えたマスターのひと言
「念のための避難です」
「直ちに影響はないということです」
政府や東京電力の説明をなぞる報道は「大本営発表」と呼ばれた。
あれから12年。あのときのことを人に聞かれると、自分の無力さをさらけ出す恥ずかしさや悔しさ、申し訳なさにさいなまれ、つい実際以上に美化して話してしまう。
私はあのとき、原発報道を担当する記者だった。
(科学文化部 ニュースデスク 大崎要一郎)
「被害の情報はない。原子炉は停止している」
2011年3月11日午後2時46分。
私は東京・渋谷のNHK放送センターにいた。
激しい揺れを感じ、ニュースセンターへ向かって走り出す。
ニュースセンターの建物につながる渡り廊下が左右に蛇行して揺れている。今にも落下しそうだ。それでも誰かが渡ったのを見て、意を決して続く。
ニュースセンターは大騒ぎだった。
壁際や机の上にあるモニター類がガタガタ揺れるのを、皆で懸命に抑えていた。
私は携帯電話から原子力安全・保安院に電話をかけた。
原発担当になって2年半。地震が起きると原子力施設に影響がないか確認するのが習慣になっていた。
携帯電話はつながらない。
卓上の固定電話でかけ続ける。
災害時優先電話だったからか、数回かけてつながった。
「被害の情報は無い。原子炉は停止している」
担当者からはいつもの答えが返ってきた。青森県から茨城県まで、東北・関東の太平洋沿岸には多くの原発が立地している。
大津波警報が出されていたが、このときは津波が事故を引き起こすとは想像していなかった。
2008年から原発担当記者に
私が東京の科学文化部で原発の取材を担当することになったのは、2008年の夏。当時の原子力安全・保安院や原子力安全委員会などを取材し、原発をめぐる課題を伝えるのが仕事だった。
なかでも安全に関する問題はもっとも重要なテーマ。
当時の部長からは、いざという時に備えて知識を身に付け人脈を広げることを繰り返し求められていた。日々のニュースを手がける傍ら、時間があれば原子力の専門家や官僚、電力会社の担当者などに取材したり、勉強会に出たりするようにしていた。
局内では原発事故に備えた報道訓練のためにシナリオ作りに参加したこともある。予測される事故について取材し、避難などの防災対策についても指針や法律を読み込んで勉強した。
しかし同時に、取材の中では日本の原発がいかに厳重な安全対策がなされているか、事故の確率が低く抑えられているかといった話を聞かされていた。
妄信したわけではないが、当時の私にはそれでも重大な事故が起こり得るという明確な危機感を持つだけの取材が足りていなかった。
日本の過酷事故への対策が海外と比べてもおくれを取っていたことを知ったのは、事故が起きた後だった・・・
「非常用のディーゼル発電機の一部が使えなくなった」
2011年3月11日のニュースセンター。
テレビのニュースでは大津波警報について伝え続けていた。
アナウンサーが「早く安全な高台に避難してください」などと呼びかけを繰り返していた。
東京でもほとんどの交通機関がストップ。私も含め、ニュースセンターにいる記者たちは、断片的な被害の情報を集めて出稿していた。
午後4時前、ヘリコプターが捉えた津波の映像が流れると、モニターを眺めながら目を疑った。家が、車が、次々と流されていた。
被害はどれくらい出ているのか。第二波は?三波は?
地震の取材に追われていた午後4時半過ぎ、福島第一原発の原子力災害対策特別措置法に基づく異常事態を知らせる「10条通報」の一報が舞い込んだ。
どこからの情報だったかは覚えていない。もしかしたら通信社の速報だったかもしれない。実は、実際の通報があったのは、そこからだいぶさかのぼった午後3時42分だった。
保安院に電話し事実関係を確認、デスクに伝えた。もちろん史上初めての出来事だった。
原稿は午後4時45分に出稿されていた。
相当慌てていたと思うが「直ちに安全上の問題はないとしている」という安心情報はしっかり入れている。
不安をあおらないようにというのは、当時の私たちの伝え方の根底にあった思いだと言える。そのことは、やがて報道そのものへの信頼を揺るがせる一因にもなっていくことに、まだこのときは気付いていなかった。
「冷却を継続して行う能力が十分にない」
午後5時半。今度は、さらに深刻な緊急事態を知らせる「15条通報」が出たとの情報が入った。これもどこからの情報だったかが思い出せない。実際の通報からは1時間ほどがたっていた。
今思えば、なぜ何度も繰り返し問い合わせなかったのだろうと後悔するばかりだが、後で聞けば経済産業省の別館にある保安院に詰めていた同僚たちも携帯電話がつながらず、情報を伝えられないことにいらだっていたのだという。
自分はどんな気持ちで書いたのだろうと思い返してみるが、高ぶった感情をなんとか抑えようと必死だったように思う。このときの原稿にも「今のところ放射性物質が漏れるなどの外部への影響はないということです」とあり、自分だけでなく視聴者にも冷静な対応を呼びかけていた。
「念のための避難指示」
午後7時すぎに原子力緊急事態宣言が出された。避難の必要性が生じる事態だ。しかし、避難指示がなかなか出ない。
毎年繰り返される国や自治体の原子力防災訓練では、いつ取材してもSPEEDI(スピーディー)と呼ばれるシステムで、放出量や放出範囲を予測し、避難が必要な範囲が設定されていた。そのイメージで保安院に問いただしても、原発からの情報が入ってこないために状況がわからないという答え。SPEEDIのことは、役に立たないものとしてやがて頭の中から消えていった。
午後9時半ごろになって周囲3キロの避難指示が出たが、なぜ3キロなのかもわからない。枝野官房長官は、会見で次のように説明した。
私たちの原稿でもそのまま引用して伝えた。
深夜(日が変わっていたかもしれない)、中央制御室など原発の施設内で放射線量が上がっていると聞かされた。
今思えば、すでに1号機でメルトダウンは始まっていたのだが、そのときもまだ、なんとかなるだろうという思いにとりつかれていた。
もはや視聴者をパニックにさせないと言いながら、自分がパニックに陥っていたのかもしれない。
「ベントを実施する」
翌12日未明、保安院の職員達はしきりに格納容器の中から放射性物質を含む気体を放出するベントの必要性を伝えてきた。午前3時には、海江田経産大臣と東電の小森常務が会見し、ベントを実施すると発表した。
格納容器の大規模な破壊を避けるためには、圧力を下げることが必要なのだという。
しかし、そのために原発から環境中に放射性物質を出すことが許されるのだろうか。せめて住民が避難できるまで待って判断すればよいのではないか。それも今となっては悠長な考えだと言われても仕方がない。
「無用な混乱」を招くことも懸念していた。
「冷却が止まっている」とか、「原子炉内の水位が下がっている」、「原子炉内の空気(ベントのこと、実際には水蒸気)を放出しなければならない」といった危機を伝えるニュースにも、「電源車で電気を供給しようとしている」とか、「フィルターがあるのでベントしても放出される放射性物質はわずかになる」などと対応策を明記することで、視聴者を必要以上に不安にさせないことを意識していた。
ところがベントはなかなか始まらなかった。
高線量に阻まれ思うように作業が進まないという。
12日午前6時前、避難範囲は10キロまで広がった。
なぜ10キロなのか。保安院と東電の会見を聞くと、どうやらベントに時間がかかっていることや、モニタリングポストの値が上昇していることが理由のようだ。
私はこの頃になってようやく事態が人のコントロール下にないのだと考えるようになった。
「燃料の一部が溶け始めたか」
ベントが実施できない中、ここからはどんどん悲観的な状況が明らかになっていく。
私たちは保安院などの発表を元に、昼前には「1号機で燃料が一部露出のおそれ」、午後2時過ぎには「燃料の一部が溶け始めたか」という原稿を出した。
午後3時過ぎ、ベントが実施されたと東電が判断したという情報が伝わってきた。格納容器の圧力は徐々に下がり始めているという。
思わず「放出に成功」と書き出しそうになって思いとどまり「放出し始めた」と書きなおした。
周辺の放射線量は上昇していた。敷地境界で測定された値は毎時1015マイクロシーベルト。
さっきまで放射性物質の放出による影響を懸念していたのに・・・
何時間もの緊張の末、放出が始まると安堵している自分がいた。
原発から煙が・・・爆発音もしたらしい
午後4時過ぎ。ニュースセンターでは疲労と緊張のピークを越え、休憩を取っている記者やデスクもいた。
そんな時、情報は静かにもたらされた。福島で原発から煙が上がっているという情報があると知らされたのだ。爆発音もしたらしい。
この時点で原発を監視していたNHKのカメラは停電とバッテリー切れにより機能を失っていた。異変が起きているかどうか、映像で確認ができない。
私はすぐに保安院に問い合わせた。
しかし、なかなか裏づけが取れない。
「情報がある以上書いて知らせるべきだ」という人もいれば、「不確かな情報であおるようなことをするべきではない」という人もいて、私は確認を急いだ。
保安院からも同様の情報を得たところで、出稿に踏み切った直後、ヘリコプターからの映像が送られてきた。
誰もが我が目を疑った。
ヘリのカメラが映し出している福島第一原発の大熊町側には本来4基の原子炉建屋が並んでいるはずだ。しかし3基しか見えない。
私は保安院の職員に電話し、放送されているヘリコプターの映像を一緒に見ながら原子炉建屋の数を数えた。
右から4号機、3号機、2号機、そして1号機が・・・ない。
本来1号機が立っているはずだったその場所には、骨組みだけの無残な構造物の姿があった。
何を伝えればよいか。公式発表によれば10キロまでの避難は完了している。しかし、もしかしたら残っている住民もいるかもしれない。さらにもしも大量の放射性物質が放出されていれば、その外側にも影響が及ぶ可能性が否定できない。
まずは屋内に退避してもらうしかない。電話の相手の保安院職員も同意見だった。しかし情報がない。
「建物の外壁がなくなっているように見えます」
原稿に書くことができたのは雑感だけだった。
爆発について発表がない
テレビで解説をお願いしていた東京大学の関村直人教授は「水素が爆発した可能性がある」と分析していた。
燃料被覆管の材料であるジルコニウムが高温で水蒸気と反応すると大量の水素が発生する。この水素が酸素と結びつくと爆発を起こすというのだ。
水素爆発は今回のような過酷事故においては、最も懸念される現象の一つであり、それが起きるということは燃料にかなりの損傷が生じていることを示していた。
しかし、いつまでたっても爆発についての発表がない。
そんな中、テレビではスタジオで解説をしていた先輩記者が、状況が分からない中で住民に放射性物質への警戒を呼びかけていた。
さらに何が起きたか正確な情報を発表しない国や東電に対し「しっかりと必要な情報を住民やメディアに提供してもらいたい」と促していた。
のちに、とっさに自らの判断で呼びかけたと語っている。
この頃、爆発の情報を受けて福島県内にいたNHKの取材クルーも避難していた。南相馬市では、記者や技術スタッフたちが避難所で中継の準備をしていたところ、突然、撤収指示を受けて福島局に移動したという。
局内も大混乱だった。
(※当時の福島県内の取材クルーの様子はこちらの取材noteで)
「何らかの爆発的な事象があった」
午後5時45分から開かれた枝野官房長官の会見では「何らかの爆発的な事象があったことは報告されている。専門家を交えて、状況の把握・分析されている」という説明だった。
結局、爆発についての詳しい説明があったのは、爆発発生から5時間以上たってからだった。
この会見では前向きな発言が続き、爆発の後、避難指示を原発から半径20kmまで広げたことについても「具体的な危険が生じたわけではないが万全を期して対策をとった」と冷静な対応を呼びかけた。
「あまりに発表が遅いのではないか」と保安院幹部に問い合わせると、「あまり不安を与えたくない。余震が相次いだこともあって、詳しい状況がわかっていない」との答え。
不確かな情報の出し方は慎むべきだとしてきた私自身の考え方にも変化が生じようとしていた。
「念のため」「直ちに影響はない」
当時、官房長官らが使ったこうした言葉は、後に不安を助長するだけの無責任な発言だったと批判を受け、それをそのままに報じた私たちの報道も「大本営発表」などと言われた。
原発が次々と爆発 報道も後手後手に
事故はその後も悪化の一途をたどった。
14日午前11時1分、3号機で水素爆発。
15日午前6時過ぎ、4号機で水素爆発。そして2号機の格納容器破損。
ただひたすらに起きていることを伝えていくことで必死だった。
ニュースセンターでは怒鳴り声が飛び交う中、慌てて伝え続けた。
事故の状況や放射線量などについて、政府や東京電力の発表内容が事実なのか、実際にはもっとひどいことになっているのではないかという視点で検証するだけの余裕を持てなかった。
事故がこれからどうなっていくのか。
最悪どんな事態が考えられるのか。
疑問が次々に寄せられたが、それに満足に答えることができるだけの知識・経験とも不足していた。
政府や東京電力からの圧力やそんたくなどはなく、ただ発表をなぞることしかできなかった。
SPEEDIの伝え方も議論に
報道への批判も厳しくなっていった。中でも大きな問題とされたのが、放射性物質の拡散予測システムSPEEDI(スピーディー)の伝え方だ。
先にも書いたが私たちは、3月12日頃には、原子力安全・保安院などに対してSPEEDIの運用状況を取材していたが、機能していないという情報から存在自体を伝えていなかった。
しかし運用する機関は、実際には仮定の条件で予測は行っていて国にも報告していた。SPEEDIの存在が海外メディアやSNSなどで広く知られるようになると、政府とマスコミによる情報の“隠蔽”ではないかという声まであがった。
忘れられない出来事がある。
3月23日、政府はSPEEDIを使った試算結果を公表した。
本来の予測ではなく、各地の放射線量の値をもとに、SPEEDIで放射性物質の放出量を逆算し、放射性ヨウ素の拡散状況を試算したデータだった。
放射性ヨウ素は特に子どもの甲状腺に大量に取り込まれると、がんを引き起こすおそれがある。NHKは発表した官房長官の会見を生中継で伝えた。
しかし、その後の会見で、試算を行った原子力安全委員会の委員長は精度は高くないとして「こういう所ではこれぐらい危険になっているとはぜひ使わないでいただきたい」と話した。
試算結果をどう取り扱うか、デスクや記者の間で議論になった。
政府自らが不確かだといっているようなデータを報じることは、いたずらに不安をあおることにならないかという意見がある一方、私は不確かなデータであってもその点を断った上で報じるべきと主張した。
結果的にこの時点での放送は見送られ、SPEEDIについてNHKがニュースで伝えたのは4月に入ってからだった。
「“パニックになる権利”さえ奪われたんだ」
発生から1年近くたって、事故後初めて福島で取材していたときのことだった。
私は福島放送局の記者たちと、飲食店で食事をしながら事故当初の対応について話をしていた。私は不確かな情報でパニックになる可能性を考えると、SPEEDIの伝え方は難しいものだったといった話をしていたと思う。
そのとき、飲食店のマスターが、私たちにこう話しかけてきた。
「SPEEDIのデータを出すか出さないか、なぜ国やマスコミに判断できるのか。パニックになるからというが、私たちは自分達の暮らす場所に放射性物質が来るかもという情報すら知らされず“パニックになる権利”さえ奪われたんだ」
曖昧な情報、不確かな情報を出すことには慎重であるべきというのは、原則そのとおりだったのかもしれない。
「事態がわからない中で避難を行うのは『念のため』であり、確定的影響を及ぼす被ばく量に至らなければ『直ちに影響はない』となる。そういう意味だ」私は国の発表について、周囲にそう解説してきた。
しかし、そうした判断が、テレビの向こう側で実際に生活を営んでいる人たちにどのような思いを残したのか、私はこのときまで本当には知らずにいたのだった。
「福島のために自分に何かできないか」
その4年後、私は記者として福島放送局に赴任した。
原発事故から12年 今思うこと
原発事故の発生から12年。私は2度の福島での勤務のあと、東京の科学文化部に原発の担当デスクとして戻った。
原発事故と福島の復興に関わる取材は私のライフワークとして、今も同僚や先輩、後輩たちとともに、あの事故がなぜ起きたのか、そこで何が起きていたのか検証を続けている。
ただ、そうして取材を重ね時間がたっても、次々に起こる想像もしなかった事態に翻弄され、発表をなぞるほかなかったあのときの無力感は忘れることができない。
あのとき、私たちは何をどう取材し、伝えればよかったのだろう。
NHKは事故後の検証を経て、今回のSPEEDIのような精度が低い情報であっても、人の命や健康を守るために必要な情報については、不確かであるという注意や専門家の意見、国への注文なども含めて伝えることで、報じるということにしている。
何よりも正確性が重んじられる平時と、緊急時とでは判断の違いがあることを明確にしたものだ。
ただ、ルールは変わっても、私たち記者一人一人の意識が変わらなければ、再び緊急事態となったとき、視聴者の期待に応えることはできないのではないか。
ましてあの事故から12年という時間が経過し、報道の現場では当時のことを知る記者も少なくなっている。
ひとつ自分に言い聞かせていることがある。
それは、原発について書くとき、その地域で暮らす人たちの顔を思い浮かべることだ。もう、あんなにもひどい理不尽さを感じさせてはいけない。
それは、あの事故を記者として経験した私が、語りついでいくべき教訓だと思う。もう安全神話はないのだから。
科学文化部 ニュースデスク 大崎要一郎
2003年にNHK入局し佐賀放送局で原発と出会う。2008年から東京の科学・文化部で原発担当に。原発事故報道に携わった後、事故の原因や対応の検証、安全対策、原子力政策の取材などに取り組む。2015年から福島放送局記者。福島の人と酒と自然に魅了され、復興へと向かう地域を取材しながら記者・デスクとして都合5年余り暮らす。2022年から古巣で原発担当デスクに。
大崎デスクがキャスターを務めるNHKスペシャル シリーズ「メルトダウン」File8 は3月18日(土)夜10時~、19日(日)夜9時~、二夜連続で放送します。
大崎記者はこんな取材をしてきた