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「人を描けば心が動く」古居みずえさん(フォト・ジャーナリスト)

紛争下のパレスチナやイスラエルに通い、女性や子どもたちを追い続けるフォト・ジャーナリストの古居みずえさん。2011年からは、福島県飯舘村に通い、ドキュメンタリー映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』を制作した。紛争地、そして、原発事故の被災地をつぶさに見てきた古居さんにお話をうかがった。

DEAR News191号(2019年4月/定価500円)の「ひと」コーナー掲載記事です。DEAR会員には掲載誌を1部無料でお届けしています。

パレスチナの子どもたち

古居さんが写真を撮り始めたのは30代後半になってからだ。それまで会社員として働いていた古居さんは、ある日突然、体が動かなくなってしまい、リウマチと診断された。毎日、数週間に渡る治療を受けながら「このまま体が動かなくなるのか…」と絶望していた。ある時ふと、体が軽くなった感じがあり「これは治る」と希望を感じた。

回復するにつれ、これまでをふり返った古居さんは「自分には何も打ち込んだことがなかった。体が動けば何でもできる。できることはやろう!」と思った。

初めは絵を習いに行った。そして、祖父が写真屋を営んでいたことから、写真も習った。1年程、アルバイトをしながら過ごしていた時、「パレスチナ子どものキャンペーン」主催の写真展に行き、子どもたちの写真を観た。

それまで、パレスチナがどこにあるのかも、そこに暮らす人々がどんな顔をしているのかも知らなかった。ただ、子どもたちの表情に心を動かされ「こういう写真を撮りたい」と思った。趣味の写真では猫や景色などを撮っていたが、「やっぱり人を撮りたい。人の心を動かすものを撮りたい」と思ったという。

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初めてのパレスチナへ

ほどなく、第1次インティファーダ* が起こり、1998年、古居さんは「パレスチナへ行こう」と決めた。それは初めてのひとりでの外国訪問。偶然にも、往路の機内で40歳の誕生日を迎え「人生の折り返し。再出発だ!」と胸が躍った。

*インティファーダ:ガザを拠点に広がったイスラエルによる占領に対する抵抗運動のこと。デモやストライキのほか、投石、イスラエル製品の不買運動などが行われた。

初めて訪れたパレスチナで古居さんは居心地の良さを感じた。パレスチナの人たちは人が良く、食べ物もおいしい。すっかり馴染んでしまい、滞在は5か月間にもなった。一旦帰国し、翌年夏に再度訪問。今度は8か月間滞在した。現地の人の家に居候し、生活を共にしながら撮りためた写真と文章は1990年に『インティファーダの女たち―パレスチナ被占領地を行く』にまとめられた。

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当時のパレスチナには、欧米からプロのカメラマンが多数取材に来ていた。古居さんはかれらの仕事ぶりを横で見ながら、写真の技術を実践的に身につけていった。2000年の第二次インティファーダの頃まではガザと西岸も日に何度も往復できるほど通行の自由があり、取材はしやすかった。また、イスラエル人のジャーナリストの中にもガザに入って取材する人がいた。

「第一次インティファーダでは、女性たちも石を投げたり運んだりしていたのですが、爆撃されたり、殺されたりする危険が増したため、表には出て来なくなりました。イスラエル人の中で、ヨルダン川西岸の壁の建設に反対する人、兵役拒否する人などは少数派です。2018年にトランプ大統領がアメリカ大使館をエルサレムに移転したこともあり、緊張が増しています。状況は悪くなっています」と古居さんは言う。

おしゃべりを聞きながら生活を撮る

湾岸戦争が終わり、パレスチナ和平交渉が始まった1990年代から、古居さんは写真に加えビデオ制作にも取り組むようになる。「パレスチナの人たちはすごく表現力がある。発言するし、踊ったり歌ったり、喜怒哀楽が激しい。写真だけではもったいない」と、ビデオも撮り始めた。当時はテレビのドキュメンタリー番組が多くあり、発表の場もあった。

「かれらはすぐに家に入れてくれるし、泊まらせてくれる。井戸端会議のようなおしゃべりをしながら、長々と生活を撮っていました。わたしが女性だから、女性の生活が撮れたのでしょう。男性のジャーナリストが撮るものは男性ばかりが写っていますし」。

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古居さんは女性たちのアラビア語でのおしゃべりを聞き、「空気のように」その場にいて撮影した。後で映像を観ながら英語に翻訳してもらい、内容を理解した。この時、翻訳してくれていたのが、パレスチナ人女性のガーダ・アギールさんだ。ガーダさんと古居さんの交流は深まり、彼女への取材は映画『ガーダ パレスチナの詩』として結実した。

怒りと悔しさ

パレスチナ問題は長期化し、なかなか明るい変化を見ることができない。同じ場所に通い続けるのは古居さんにとって、辛いことではないのだろうか?そう尋ねると、「通い続けたのは、『その人たちが好きだった』というのが一番の理由です」との答えが返ってきた。

「パレスチナは『怖い』というイメージがあるかもしれませんが、人はとても優しく、魅力的です。中世と近代が入り混じっているような風土も、オリーブの畑も、伝統的な衣装を着た女性たちも、ロバも食べ物も好き。わたしはずっと居心地がよかった」

そして、「ここで起こっている、辛いこと、不条理を伝えなくてはと、だんだん思うようになりました。目の前でいろんなことが起こりました。人が撃たれる、パレスチナの人たちがイスラエル兵に逮捕される、家を壊される…。2018年3月30日以降、ガザとイスラエルの境界で、抗議デモが起こり、足を切断する人がとても多くなっています。イスラエル軍から撃ってくる弾が、バタフライ・ブレットと言って皮膚に入ってから組織を破壊するからです。そんな、怒りや悔しさが原動力になっているのかもしれません」

避難する人々の姿を重ねて

2011年3月に発生した東日本大震災を受け、古居さんはジャーナリスト仲間と3月15日に岩手や宮城の津波の被災地域を取材した。巨大な力により壊された町や瓦礫はパレスチナの風景を想起させた。

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