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人は皆、マイノリティだ。

こんにちは、hana です。

今回は、最近よく考えている「マイノリティ」と「多様性」、そして「セクシュアリティ」をキーワードにおはなしを。


以前わたしは、「”多様”の”許容”」という記事を書かせていただきました。



とある記事(”多様”の”許容”で引用させていただいているので読んでみてくださいね)を読んで、多様っていいものかも、と感じ、書いたものでした。


でも最近、「多様性を大切に」という風潮があまりに強すぎるようにも思えてきたんです。


それを考えるきっかけになったのが、AbemaTVで放送中のドラマ「17.3 about a sex」です。

このドラマは、高校生たちが様々な「せい(生、性)」に向き合うお話。

ドラマを観て、色々な性的指向を持っている人がいる、ということを認識し、いろいろと調べてみました。


そして、気が付いたこと。


「人は皆、マイノリティだ」


性的指向以外にも、性自認、恋愛指向という概念もあり、この3つを組み合わせただけでもかなりの種類が出来上がります。ほかにも、身体的性、とか、性表現とか、いろいろあります。

さらに、1つの性的指向、恋愛指向の中にも、その傾向の強弱があったり、重要になってくるポイントが違ったりと、人によってかなり差があるんです。


セクシュアリティは、グラデーションになっていて、人の数だけ存在する、とも言われています。


だから、セクシュアリティとか、そういうことをきちんと調べて、知って、自分と向き合ったら、きっと「自分と他人が違う」ってことに気が付くと思います。


つまり。


「誰もがみんなマイノリティ」



多様性を大切にする、ってことは自分のことも、他人のことも大切にすることにつながる気がします。


でも、「多様性を大切に」というスローガンはなくなったらいい。


この言葉には、多少なりとも、「自分はマジョリティにいるけど、マイノリティの人もみとめて ”あげよう”」という意味合いが含まれていると感じるからです。


それから、「多様」をうまく受け入れられない人は恥だ、みたいな雰囲気も醸し出されている気がしてならないから。


誰が、どういう考えを持っていて、どのように生きようが、他人に害のない範囲なら良い。


個人的には、いつか「マイノリティ」という言葉すら使われなくなって、誰かと違うのが当たり前、くらいの感覚になったら生きやすいんじゃないかな、なんて考えます。


多様はいいかもしれないけれど、それを強制するのは違う!!と声を大にして言いたくなりました。



以上、パンセクシュアル(パンロマンティック)で、マセクシュアルかもしれない hanaの考え事noteでした。(私自身まだまだ勉強中で、かつ自分のセクシュアリティと向き合いきれてない部分があるので、『かもしれない』という曖昧な表現になってしまっています、、、お許しを、、、!)

もっと勉強して、考えを深めて、改めて書きたいと思います。

(書くの、少し勇気がいりますね。この勇気が必要ない世の中になってほしいな。)


読んでくれた方、ありがとうございます。

調べると簡単に情報が得られるので、ぜひ自分はどんなセクシュアリティなのかな~?と、分析してみてください。



では、また。




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