発表会当日にピアノを辞めた思い出
前回、納豆を初めて食べた日の思い出を書いたら、それに付随していろいろ思い出したので。
私がピアノを始めたのは小学校一年生の時。
母が私にピアノを習わせたがっていて、母の妹の友人という方が近所でピアノ教室を開いていたので通わせてもらったのだ。
当時の私はアリの巣観察や本を読むことも好きだったが、おままごとやお菓子作りも好きという、今では信じられないほどオンナノコな趣味だったので、母から「ピアノを習わない?」と訊かれて、ほいほいその誘いに乗ったのだった。
ピアノ教室は(私としては)まぁ順調に通っていたと思う。
私は幼稚園時代から登園拒否を発揮していて、幼稚園バスが来るまでは大人しく待合場所で祖母と待っているのだが、バスが来てドアが開いた途端に家までダッシュして幼稚園に登園しないという技を身につけていたらしい。
そして小学校は引き続き登校を拒否っていた覚えがあるが、ピアノ教室はそこまで嫌がった覚えはない。先生が優しかったし、せいぜい週一の頻度だったからだろう。
ピアノ教室は白い壁で天井の高い大きな部屋にクラシックピアノがどーんと置いてあって、出窓近くにはドライフラワーや大きなくまのぬいぐるみが飾ってあって、先生とマンツーマンでレッスンするというものだった気がする。
だろう、だの、気がする、だの曖昧な言い方なのは、私がそのピアノ教室を一年もたずに辞めたからである。
別にピアノを弾くのが嫌いになったわけではない。
先生は綺麗なお姉さんタイプの女の人で、優しく丁寧にレッスンしてくれたし、ピアノの覚えも特別悪いわけではなかった(筈だ)。
ピアノを弾くときは卵を握るように手を丸めて…と最初に教わるのだが、小学校一年生の私はまだ手のひらが小さかったので、ピンポン玉を握るように手を丸めて…と教わった覚えがある。
まず片手でドレミの音階を覚えて、何曲か弾けるようになって…そこまでレッスンが進んだところで、私はピアノの発表会に出ることになった。
先生は発表会用に、両手で弾く簡単な曲を教えてくれて、母は発表会のために、レースのたっぷりついた豪華な黄色いドレスをレンタルしてくれた。
その時の私は発表会に出演する気満々だった。
当時は実家に住んでいた叔父に借りてきたばかりの黄色のドレスを見せて、嬉しそうにくるくる回るなどしたものだった。
私は頭の中で”ピアノの発表会に参加する私”をこんな風に思い描いていた。
いつもレッスンを受けている白い壁の大きな部屋。
いつもは先生と二人きりだけど、その日は壁際にタキシードを着た小さな男の子やら赤いドレスを着た女の子やらが親と並んで立っていて、発表会の順番待ちをしている。
私は彼らが見守る中で、大きなクラシックピアノの前に黄色いドレスを着てひとり座り、発表会用に練習していた曲を完璧に弾いて見せる。
窓からは陽光がさんさんと差し込み、青い空にピアノの音が吸い込まれていく―
ところが発表会当日、母の車に乗った私が連れて行かれたのは、野外音楽堂があることで有名な、近場の大公園の駐車場であった。
朝から黄色いドレスを着せられてルンルンだった私は、そこでパニックに陥った。
思っていたのと違う!
こんな大きな広い場所でピアノを弾くなんて聞いてない。
こんな何十人もいる大勢の人の前でピアノを弾くなんて聞いてない。
こんないつもと違う、思いもよらないところに連れて来られるなんて聞いてない!
…前の記事にも書いたが、私は想定外の事態に陥るとしばしばパニックになるのであり、30代半ばを過ぎた今でもそれは治っていないのであり、ましてや小学校一年生で人生経験の足りなすぎる私には、「とりあえずその場に行ってしまえば何とかなるはずだ」などという”出たとこ勝負”の発想は皆無かつ悪魔の所業であるのだった。
その後の展開は言うまでもなく、私はドレスのすそを振り乱して泣きわめき、その場を逃走して車の中に籠城した。
当然のことながら私の発表会出演はキャンセルされ、私はそのままピアノの習い事もやめてしまったのだった。
なぜ母は私に発表会の場所がいつもと違うことを教えなかったのか?
当時の母曰く、「子供だから言わなくても大丈夫だと思った」。
悪魔の所業である。
二度言うが悪魔の所業である。
当時は発達障害なんて概念自体がなかったし、初めての場所や環境が苦手だという私の特性を母が分かっていないのも当然なのだが、それにしても悪魔の所業である(三度言った…)。
幼稚園の卒園式でさえ「いつもと様子が違う」という理由で逃げ出した私が、初めての発表会で、あんな真っ黒な床でただっ広くて真ん中にポツンとピアノ一台しか置いていない大舞台で、たった独りで出て行って、あんなに大勢の観客の前で、平然とピアノなんか弾けるわけないじゃないか。
まぁ母も、念願叶って生まれた可愛いひとり娘の、初めてのピアノ発表会で舞い上がっていて、普段の私が彼女の思い通りに行動できるような子供ではないということを失念していたのだろう。
この”土壇場でピアノの発表会逃げ出した”事件は彼女の心に深い傷を残したらしく、以降、私は一回も母に習い事に行くよう言われたことはない。
「何でもいいから、習い事をしたいと言いだしたらやらせるつもりだったけど、とうとうやりたいとは言いださなかった」
とは成人後の私に言った母の言葉である。
当時の習い事といえばピアノか習字かスイミング、あるいは塾、と相場は決まっていた。
体を動かすのが嫌いで、左利きだから右で字を書くことを強制されるという噂の習字はとんでもなくて、すでにピアノに挫折した私にある習い事の選択肢は、だから塾しかなかった。
で、当時の私は、
「学校でさえ大嫌いなのに、どうして学校が終わってからまで学校みたいなところに行かなくちゃけないんだ」
と思っていた。今でも思っている。
だから小学一年生以降の私の放課後は基本的にフリーで、飼い犬の散歩や読書、テレビを見ること、庭でアリの巣をほじくり返したり、近くの高校の庭に入り込んで木に登ったり、低木の隙間に潜り込んだり、ひたすらぼんやりすることやらに費やされた。
それで何かに困るということはなかったし、私としては充実して楽しい時間だった。
勉強?
中学時代まったくの不登校でも常に定期テストでは学年14~15番あたりをうろうろし、後に地元の県立高校にトップ入学した私がたかが塾に行かないくらいで勉強に困るとでも?
…かなり居丈高に言い放ったが、実際、私は勉強にだけは困ったことはない。
が、それ以外は困りごとだらけで、たとえば集団行動とか休み時間の教室にただ”いる”ことすら耐えられないとか、友達がなんでそんなに私に怒っているのか理解できないとか、数え上げれば数限りなく出てくるのだが、でもこれは仮にピアノを続けていたとしても、習字やスイミングを習っても、ましてや塾に通っていたぐらいでどうにかなる問題ではないので(それよりはるか以前の問題である)、私が習い事をせずに小学校時代の放課後を自由に過ごして心の充実を図っていたことは決して間違いではないし、むしろ大正解だったのだと思う。
ゆえに母が私に習い事をするよう強制しなかったことは、小学校時代の私の幸せに大きく寄与している。
感謝しています、お母さん。
そうとうピアノで懲りた様子だけれど、むしろその段階で諦めがついて私はとてもとてもとても助かったのだよ。
…というわけで、今回はピアノの発表会当日にピアノを辞めた話でした。
今思うと、聴覚過敏の気も当時からあったので、発表会がなくてもピアノは続けていなかった気がします…。
ずっと音楽を聴いていると頭がぐるぐるするんだよね。何の音もしない静かな部屋でじっと自分の頭を休める時間が私には必要です。
まる。
(おわり)
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