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私は私の道をゆく!〜20世紀ドイツの作曲家カール・オルフ

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。指揮者の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は202279日、11日に開催された「第642回定期演奏会」のメインプログラム「カルミナ・ブラーナ」の作曲家オルフについてのお話。オルフの生涯において重要な位置を占める「子供のための音楽教育」とオルフの音楽の関わりを中心にお話しします。オルフに師事した日本人作曲家石井歓とその父でモダンダンスの先駆者石井漠の話題も絡めてお送りします!

各地には「ご当地グルメ」「ご当地ソング」「ご当地アイドル」など、その地で有名なものが溢れている。その土地では知らない人はいないのに、地域を超えるとマイナーな存在。とはいえ最近はそのような「ご当地もの」を各メディアが取り上げ人気となっている。

《大いなる秋田》と石井歓


僕の故郷秋田にも多くのご当地ものがあるが、秋田県内で特に吹奏楽と合唱関係を中心に知らない人はいない有名な「ご当地作品」がある。その作品は《大いなる秋田》という作品だ。「合唱とブラスのための楽曲」という副題を持つこの作品は明治100年を記念し、当時の秋田県が委嘱した。演奏時間は30分以上、4楽章からなる大作である。作曲したのは石井歓、舞踏家石井漠の長男であり作曲家石井眞木の兄にあたる人物だ。漠が秋田県出身という事で「ゆかりの人物」として白羽の矢が立ったと推察される。

石井歓の父、石井漠

石井歓は「シンフォニア・アイヌ」バレエ「まりも」や映画「妖星ゴラス」の音楽などがよく知られているが、全日本合唱連盟の要職も歴任し「ママさんコーラス(おかあさんコーラス)」の創設、普及と発展に尽力した功績は大きい。ドイツ留学後に創立間もない桐朋学園大学で教鞭を取り、愛知県立芸術大学でも教授、学部長を歴任。教育の面でも多大な業績がある。

「舞踊」「合唱」「大規模な合奏編成」「民謡や当地を代表する歌」「打楽器の効果的な使用」、それらは《大いなる秋田》を語る上でのキーワードだ。「舞踏」は父である石井漠に、「合唱」を伴う「大規模編成の合奏」は作品構成そのものに、そして全曲の中に引用された秋田の民謡や成田為三作曲の「秋田県民歌」、フィナーレでは「秋田県民の歌」が高らかに奏される」内容に関しては「民謡や愛唱歌」の芸術的オマージュとして表出する。

その《大いなる秋田》における特徴、また彼の作品創作に大いなる影響を与えたであろう人物との邂逅を、戦後間もない石井歓がしていることに注目したい。

石井歓は1952年に西ドイツ(現・ドイツ連邦共和国)に留学した。留学先のミュンヘン音楽大学で作曲と指揮を学ぶ。その時に師事したのが現代ドイツを代表する作曲家、カール・オルフ。今回取り上げる人物だ。

カール・オルフ


1930年頃までのオルフの前半生


オルフは代々由緒ある軍人の家系に生まれた。音楽的な面でもオルフ家は一目置かれていた家のようだ。そのため幼少期より音楽教育を受けて、作曲にも親しむ。16歳の頃には歌曲集を出版するほどだったが、音楽学校に進むまで作曲は「独学」であった。何か決められたことを練習したり、作曲するというよりは「即興」を楽しむようなタイプだったようだ。この「即興」というのもオルフにとって後年の重要なキーワードとなる。

少年時代は詩や物語を書いたり、自作の人形劇の音楽を作ったり、歌曲を作曲したりすることに没頭したようだ。音楽学校時代にも多くの作品を作曲しているが、歌劇「犠牲(Gisei)」は日本の歌舞伎の演目である「寺子屋」を題材としたものである。「菅原伝授手習鑑」の中の話である「寺子屋」は、歌舞伎でも人気の演目で、オルフが名付けた「犠牲」とは主人公が敵対する勢力に「かくまっていた子供(菅原道真の子供)を殺せ」と命じられ、代わりに最近寺子屋に入ってきた子供を殺す。その首が道真の息子かどうかを確認するため、松王丸という、かつては道真に世話になったにも関わらず敵方に仕えている者に、その首が道真の息子かを確認させるために派遣する。主人公が恐る恐る首を差し出したところ、その人物は「それは道真の息子に間違いない」と言う。しかし、その殺された子供の首は、なんと松王丸の息子であった・・・。実は、松王丸が道真の息子の身代わりとなるべく、実子を寺子屋に入れたという事実を知る。「犠牲」というタイトルにはそのような物語の内容が込められているのである。オルフは学生時代、東洋文化に大きな関心を持っていたそうなので、その中でこの歌舞伎を知ったのかもしれない。オルフにとって「劇音楽」もまた重要なキーワードとして見逃せない。

豊原国周「菅原天神記」 四代目中村芝翫の松王丸「寺子屋」での松王丸の姿を描いている

音楽院を卒業したのち、オルフは指揮者としていくつかの歌劇場の仕事に就くが、第1次世界大戦に従軍、音楽活動を中断せざるを得なかった。兵役を終え、ミュンヘンに戻った後は音楽を教えたり、自身もカミンスキという作曲家に作曲を師事している。第一次大戦後間もないオルフの活動に、彼の音楽家としての大きな分岐点がある。それは、舞踏家ドロデー・ギュンターと共に設立した「ギュンター学校」での仕事である。この学校の正式名称は「体操、音楽、舞踊のための学校」といい、青年女子を対象とした、体の動きと音楽との新たな関係を探り、教授するための機関であった。それにより舞踊家および舞踊の指導者を養成することを目的としていた。この学校においてオルフは音楽部門の監督として指導に携わった。また同時期にオルフはミュンヘン・バッハ協会の指揮者としても活動している。その中でバッハやモンテヴェルディの作品を編曲したりしながら、古楽への研究と造詣を深めていった。その研究はバッハの時代の音楽より古い音楽にも及び、それがオルフの創作においても多大なる影響をもたらすことになる。

この「舞踊と音楽」「古の音楽」「子供たちの音楽教育」という三つの柱が生涯においてオルフの創作の源泉となっている。そこに「劇場の音楽」「合唱への眼差し」が加味され、オルフの音楽芸術は独自かつ高い次元へと到達したのだ。

オルフの音楽教育の出発点


オルフの音楽を語る前に、彼の偉大な業績である「子供のための音楽教育」について触れたい。

オルフと音楽教育の関わりの出発点となった「ギュンター学校」では「音楽と舞踊」を密接に関連づけることを特徴にしていた。そのギュンター学校での音楽教育システムは話題を呼び、ドイツ文化省がベルリンの小学校でそのシステムを採用しようかというところまで行ったのだが、ナチスドイツの台頭など、ドイツ国内の政治情勢の激変により実現することはなかった。加えて1944年にはナチスドイツによりギュンター学校は強制接収、閉校に追いやられた。その翌年に学校は空襲により焼失、建物や楽器、記録などすべてのものが消失してしまった。ここで一旦、オルフと音楽教育の関わりはたたれることになった。

オルフの目指した音楽教育


オルフの目指したものは「創作・演奏・享受などといった音楽的機能を区別しない、未分化の状態の音楽」だった。そのような音楽、イメージ的には古代世界の儀式や祭典の音楽のような、誰でも参加できるようなものである。

それを実現するためにオルフが考案したのは「誰もが演奏できるやさしい音楽によって」教育するメソッドであった。そのため、オルフは単純なリズムや旋律から音楽の基礎を習得することや、「即興」での「音あそび」、アンサンブル(合奏)で声や手拍子を用いたり、「オルフ楽器」と呼ばれるオルフの音楽教育に用いられる楽器でアンサンブルをする。ピアノやヴァイオリンなど長い時間をかけて習得する楽器ではないものを使用したことは大きな特徴である。「オルフ楽器」には多種多様な打楽器が採用されている。「音楽と舞踊」「音楽劇」とともに、「声」と「打楽器」に対するこだわり・・・それはオルフの教育音楽以外の楽曲でも、その大きな特色となっているのである。

オルフ楽器については「鈴木楽器製作所」のウェブサイトに詳しく掲載されています

オルフのメソッドと学校放送


第二次大戦後、オルフがギュンター学校で培った音楽教育メソッドが花開く時がくる。それは皮肉にもナチスドイツのプロパガンダとして開催されたベルリンオリンピック・・・実はオルフはベルリンオリンピックの開会式で披露される青少年によるマスゲームの音楽監督を努めていた。この話題は僕が信頼おける資料にしている「ニューグローヴ世界音楽大事典」にも記載はなく、他の書物にもあまり登場しない。戦後、オルフと親交のあった音楽評論家が、当時のマスゲーム練習用のレコードを発掘、ババリア放送局(現在のバイエルン放送)の音楽教育担当者に聴かせたことが大きな転換点となった。

ミュンヘンのバイエルン放送本部

1948年にバイエルン放送の担当者からオルフに「このような音楽を子どもを対象にして、数回の予定で学校放送をしてほしい」と依頼があった。当時の西ドイツ政府は子供の教育に「ラジオ放送」を積極的に活用しようという流れがあった。いわば「視聴覚教育」の一種だとは思うが、この「数回」の予定であった学校放送は、なんと5年間も続く「長寿番組」となったのである。この「学校放送」での成果と経験は、戦前のギュンター学校での成果であった「舞踊と音楽の融合」に、新たに「言葉」を音楽教育に取り入れるという功績となったのである。


その後の発展、「オルフ・シュールヴェルク」と「オルフ研究所」


バイエルン放送での5年間の実績は《オルフ・シュールヴェルク「子供のための音楽」》という教育用作品の出版として結実した。「シュールベルク」とは意訳すれば「学校のための教材」という意味である。楽譜とともに学校放送の録音テープが世界各国で紹介された。シュールヴェルクは翻訳され全世界に広まっていった。ここで誤解のないように付け加えておくが、シュールヴェルクをそのまま使用しても望みうる音楽教育が十分になされるものではないということだ。実はこのシュールヴェルクで用いられている歌は南ドイツの方言がそのまま使用されている。したがってそれにつけられた音楽も、いわゆる「高地ドイツ語」の発音やアクセント、抑揚に由来する。この「ローカル」なものをそのまま他の地域、まして外国でそのまま使用することには注意が必要だ。とはいえ、このシュールヴェルクはオルフのこれまでの音楽教育を凝縮したものであることは間違いない。

オーストリア・ザルツブルク市

その後シュールヴェルクが世界中に広まると、オルフの音楽教育の誤解なき指導がなされないように、それを研究・指導のための機関が求められた。1961年、オルフの60歳の誕生記念にオーストリア、ザルツブルクにあるモーツァルテウム音楽大学内に「オルフ・シュールヴェルクセミナー」が開講され、後年ザルツブルク郊外に「オルフ研究所」が設立された。そこには世界各国から集まった音楽の指導者が多数訪れ、現在も音楽の指導法の研究を行なっている。

オルフの音楽、その特徴


オルフの初期の作品は、ドビュッシーやシェーンベルクの影響を見ることができる作品が多かった。それに加えて地元ミュンヘンの作曲家であるリヒャルト・シュトラウスの音楽や音楽劇も青年オルフに多大な影響を与えたといえる。ワーグナーの聖地バイロイトも彼の地にあるが、ワーグナーの音楽劇もオルフの音楽観に影響を与えたと考えるのも自然な流れだ。直接的な関わりはないにせよ、遠因はうかがえる。

ドビュッシーを始めとする印象派、シェーンベルクに代表される「12音技法」、そして複雑な対位法や民族的色彩を強く帯びた複雑で、時に難解な作品を、オルフの同時代の作曲家は作曲していた。オルフの同世代の作曲家を数名あげると、ストラヴィンスキー、コダーイ、プロコフィエフ、バルトークと綺羅星の如くビッグネームが並ぶ。そして同じドイツの作曲家でナチスに反発し亡命したパウル・ヒンデミットはオルフと同い年である。その作風は別人格とはいえ全く異なるものであることは興味深い。そこにオルフの「我が道」を感じずにはいられない。

オルフと同年生まれの作曲家ヒンデミット

前述の通り、青年オルフも多くの同時代の作曲家と同じ道を歩んでいたが、ギリシャ時代の古代音楽や東洋の音楽の造詣を深めたことで、同時代の作曲の潮流とは異種独特な趣を持っている。そのオルフ作品の代表が「カルミナ・ブラーナ」だ。

「カルミナ・ブラーナ」にはオルフの音楽的特徴をすべて感じることができる。その特徴をあげていこう。

まずは「単純な和声」。幾重にも積み重なる複雑でお洒落なハーモニーではなく、単純なハーモニーを使用している。そのため音楽は「単純明快」だ。そこに「単純なリズムの繰り返し」で音楽を進めていく。専門的な言葉で「オスティナート」というが、オスティナートの本来の意味は「執拗な」という意味である。「執拗に同じことを繰り返し、強い印象を植え付ける」のもオルフの音楽の大きな特徴だ。

単純明快といえば「対位法」という多くの作曲家が用いる技法を使用していない。これはオルフが対位法の知識がないとか、対位法が下手くそであったからではなく、それを排することでより単純化し原始的な野生味を作り出そうとしたからである。「持っている技法を、自らの表現のために棄てる」というオルフの決断が、「カルミナ・ブラーナ」とオルフの音楽史的な位置付けを確固たるものにしたといえる。

言葉や声の響きを「一つの楽器」として用いていることも大きな特徴である。言葉と音楽の関わりは、オルフの音楽教育においても重要な意味を持っていた。純音楽の作品でもそのコンセプトは変わらない。合唱や独唱の全般における使用は、オルフの音楽教育と密接な関係を持つものといえる。「カルミナ・ブラーナ」はラテン語や古いドイツ語を歌詞としているが、その「面白い語感」もオルフの「声と言葉と音楽の関係性」に根さしたものといえる。

現在「カルミナ・ブラーナ」は演奏会形式で上演されることが多いが本来は舞踊を伴った「劇音楽」である。音楽のあらすじを暗示させる舞踊や動きを伴って演奏される「舞台付きのカンタータ」なのである。これはオルフがギュンター学校での音楽教育で模索した「音楽と舞踊の融合」の理念を純音楽に昇華させているといえる。オルフの「純音楽」と「教育音楽」は彼にとって「車の両輪」なのだ。どちらかがなかったり、大きさが異なると車はまっすぐ進まない。この確かな「両輪」を持って、オルフの音楽は独自の道を進んでいくことができたといえる。

当時のドイツの音楽家たちにとって避けて通れないことがある。それは「ナチス」との関わりだ。ヒンデミットやフルトヴェングラーのように体制に抗い、また監視の対象になったもの。リヒャルト・シュトラウスのように帝国音楽院総裁として、消極的であるにせよ体制と折り合いをつけたもの。クナッパーツブッシュのように少なからず嫌悪感を示し、一時苦杯をなめたものや、エーリヒ・クライバーのように遠い異国へ向かったものもいた。またカラヤンのように「党員であった時期があった」ものもいる。

オルフは戦後の「非ナチ化委員会」において、その積極的協力者ではないとされ音楽活動を再開している。

オルフの代表作「カルミナ・ブラーナ」に関してもオルフが意識的にナチスのプロパガンダ楽曲として作曲していたのか否か、さまざまな論考がある。一方でナチスの体制側の一部はこの作品を「危険なほど現代的で非ドイツ的」とも見なしていた。オルフの政治的立場は曖昧で、ユダヤ人作曲家として不当な目に遭っていたメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の音楽を書き直す事を引き受けたり、前述したようにベルリンオリンピックの開会式(カルミナ・ブラーナ初演の前年)のマスゲームの音楽を担当している。悪名高いナチスの宣伝大臣ゲッペルスの日記には「《カルミナ・ブラーナ》は精緻な美を表現しており、もしも我々が彼の歌詞をどうにかできるなら、彼の音楽は間違いなく極めて有望なものとなろう。然るべき機会に招致しよう」と記されている部分があるそうである。この招致、会談は実現しなかったようであるが、世界史の中にオルフが関わりを持って登場する一段面だ。

反面このようなエピソードもある。ナチス抵抗運動として知られる「白バラ運動」との関わりだ。オルフは白いバラ運動に関わっていたクルト・フーバー教授と親しかった。フーバーが逮捕された日、彼はオルフの家を訪れていたそうだ。フーバーが逮捕されたのちフーバー夫人は「影響力」のあるオルフに夫を助けるのに協力してほしいと懇願した。しかしオルフは「教授と私の関係が知れたら、私の身も危ない」と断ったそうだ。のちにフーバーはギロチンで処刑されてしまう。この行動はあまりにも理不尽で人道に外れたものだと思うが、当時の世界、ナチス独裁下のドイツに生きていた人々の大部分はきっと同じような気持ちを持っていたのではないかと思う。「普通の人」か「普通ではない判断をする」そのような空気が支配する社会を思う時、計り知れない恐怖を覚える。

のちに非ナチ化尋問のなかでオルフは「自分は白いバラ運動の創立者のひとりだ」と証言しているが、これについては十分な確証はない。彼の音楽は明快でストレートだ。しかし彼の一連の「姿勢」はかなりグラデーションのあるものといえる。もう一度言うが、これはオルフがどうとかいうことではなく、時代と社会の空気がそのようにさせたのだ。

その評価と歴史的真実はは後世の歴史家、人々の研究と判断に委ねたい。

再び、石井親子


石井歓の父親の石井漠は、日本の現代舞踊、モダンダンスの草分け的存在。元々は作曲家志望で上京したが色々あって俳優に。その後舞踏家となった人物である。そのエピソードは非常に面白く、当時活躍した多くの文化人や劇場との関わりを見ることができる。機会があったら筆を改めたい。そのように数多くの文化人との交流があった人物だったが、現在のように高い専門性で「分業化」が進んでいる各文化ジャンルとは異なり、当時の文化人は現在よりも各分野の交流が盛んであった。その中でも作曲家の山田耕筰との交流は「音楽と舞踊の融合」・・・そう、オルフが目指していたようなものを作り出そうとしていた行動であった。このような石井漠のDNAが息子の石井歓に受け継がれ、それが戦後ミュンヘンでオルフに師事するという事実に結びついたのではないかと思わずにはいられない。

現在の自由ヶ丘駅前

余談だが、僕の住んでいる地域を走る東急東横線の駅に「自由ヶ丘」という駅がある。沿線でも特に人気のあるエリアだが、実はこの駅、以前の駅名は「九品仏(くほんぶつ)駅」だった。それが東急大井町線が当時大岡山から二子玉川まで延伸される際に、九品仏浄真寺の門前に新しい駅がつくられることとなり、そちらを「九品仏駅」とすることにした。そのため旧九品仏駅は改称の必要が出てきた。当時この地に「自由ヶ丘学園」という学校が創立されたこともあり、この地に住んでいた住民たちは、本来の地名「矢畑」や、東急電鉄側が内定していた「衾(ふすま)」駅ではなく、「自由ヶ丘」を強く要望したのである。その要望の先頭に立って交渉したのが、何を隠そう石井漠なのである。「自由ヶ丘」という駅名に込めた石井を始めとした住民の想いはどのようなものだっただろうか。この改称は昭和初期、戦争の暗い影が大きくなるのはもう少し先のことだが、この「自由ヶ丘」の地にも「不自由」な時代が静かに近づいてきたのかと思うと胸が痛くなる。

電車に乗り、自由ヶ丘を通るたびに僕は郷土の偉人である石井漠を思い出し、石井歓を思い出す。そして脳内には「大いなる秋田」の大合奏が流れだすのだ。

(文・岡田友弘)


執筆者プロフィール


岡田友弘(おかだ・ともひろ)

1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻入学。その後色々あって(留年とか・・・)桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンも多くいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆や、指揮法教室の主宰としての活動も開始した。英国レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。現在、吹奏楽・ブラスバンド・管打楽器の総合情報ウェブメディア ''Wind Band Press" にて、高校・大学で学生指揮をすることになってしまったビギナーズのための誌上レッス&講義コラム「スーパー学指揮への道」も連載中。また5月より新日フィル定期演奏会の直前に開催される「オンラインレクチャー」のナビゲーターも努める。

岡田友弘・公式ホームページ
Twitter@okajan2018new
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