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ヒンデミット・・・歴史的「事件」にその名を残すドイツの大作曲家

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は11月19日、20日に開催される「すみだクラシックへの扉」で取り上げられるパウル・ヒンデミットの生涯を、ヒンデミットが巻き込まれた「事件」を中心に綴っていきます。音楽家が「時代に翻弄されながらも音楽活動をしていた時代」があったということを、ヒンデミットのエピソードから知っていただけたら幸いです。ヒンデミット・・・その名前に馴染みがない方も、この機会にヒンデミットの人物や音楽に関心を持っていただけることを心より願っております。そして・・ヒンデミットを聴きに錦糸町まで出かけてみませんか?

大学2年の晩秋、東京多摩地区にあるホールにおいて、当時所属していた吹奏楽部の定期演奏会が開かれた。演奏会のメインプログラムはパウル・ヒンデミットの管弦楽曲「ウェーバーの主題による交響的変容」。4楽章構成の楽曲で、作曲家がドイツから亡命しアメリカに渡った後に作曲した作品である。オーケストラでよく演奏される曲であるだけでなく、吹奏楽編成に編曲された版も人気のある作品だ。ヒンデミットの依頼、監修のもとに別の人物が編曲していて、実質「作曲家お墨付き」の編曲作品となっている。この作品の演奏中に「事件」は起こった。

曲は進み、3楽章冒頭、午前のリハーサルまでは何事もなかった部分で、演奏が混乱してしまったのである。演奏を続行するのが困難であると判断した指揮者は指揮を止め、再び3楽章の冒頭からやり直し、その後は無事に最後まで曲を終えることができた。演奏が混乱した時間は数秒であったと思う。しかし、自分にはとてつもなく長い時間に感じた。自分がステージに上がっていた演奏で、このようなことが起きたのはこの時を含め1、2回だ。「肝を冷やす」とはまさにこのことか・・・と今でも背筋が凍る思いだ。そのような経緯があるため、部内では多くのメンバーが「ヒンデミット」という名前にはいい印象がなかったように思う。その後は「ヒンデミット」の名を部員同士の会話などで聞く事はなかった。この「事件」の原因は指揮者にあるわけでもなければ、奏者にあるわけでもない。「舞台には魔物が棲んでいる」とはよく言われる事であるが、きっとその「魔物」の仕業であったのだろう。ステージには「神様」や「天使」が降りてくることもあれば、「妖精」がいたずらをすることもある。同様に「悪魔」が悪さをすることも稀にあるのだ。ゲーテの「ファウスト」に登場する悪魔メフィストフェレスが、その指揮者に「素晴らしい演奏で有終の美を飾らせてやるから、私に魂を売るのだ!」という申し出を、その指揮者はきっぱり断ったのであろう・・・僕はそのように考えている。

「事件」といえば、この曲を作曲したパウル・ヒンデミットも、その生涯の中で世界史に残るような「事件」に巻き込まれている。その事件については彼の生涯を振り返る中で語っていこう。

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ヴィオラを演奏するヒンデミット


ドイツ近現代のみならず、20世紀を代表する作曲家の1人であるパウル・ヒンデミットは1895年にドイツのマイン河畔の街ハーナウで生まれた。自身の音楽家になりたかった夢を子供達に託したヒンデミットの父親の方針で、パウルをはじめとした兄弟は子供の頃から音楽の専門教育を受けることができた。その中でもパウルは音楽の才能を最も開花させ、フランクフルトのホッホ音楽院に入学しヴァイオリンとともに作曲法や対位法を学ぶ。彼の作曲、対位法の教師の1人にアルノルト・メンデルスゾーンという人物がいる。名前からもわかるように、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者であり、ロマン派を代表する作曲家の1人でもあるフェリックス・メンデルスゾーンは、彼の父の従兄弟に当たる人物である。

ヒンデミットはまず、ヴァイオリン奏者としてキャリアを開始する。彼が「並の奏者」でなかったことを窺わせる事実としては、20歳という若さでフランクフルト歌劇場管弦楽団のコンサートマスターを務めていたことが挙げられる。改めて言うまでもないが、コンサートマスターはオーケストラのリーダーとして、音楽性のみならず、人間性においても優れていなければ、その大役を勤め上げる事はできない。さらにヒンデミットは同時期に師匠の弦楽四重奏団でヴァイオリンを担当したりと、演奏家としてのキャリアを積んでいった。そのような中、ドイツは第1次世界大戦に参戦する。結果的には敗北するが、その戦争で彼の父は戦死、ヒンデミットも従軍した。戦後はヴィオラ奏者として活動し、ヴィオラの演奏活動と並行して作曲も多く手掛けた。弦楽四重奏曲や、ヴィオラやヴィオラの仲間のための楽曲も多く、それは彼の音楽的な環境が大きく影響しているといえる。結婚後にベルリンに移住し、ベルリン音楽大学で作曲の教授も務めた。当時の彼の弟子には夭折の作曲家、指揮者として知られる貴志康一や「たなばたさま」などの童謡の作曲者として有名であり、東京藝術大学で教授を務めた作曲家の下総皖一、僕の母校である中央大学校歌の作曲者、坂本良隆などがいる。

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ヒンデミット来日時にすき焼き屋で撮影されたスナップ写真。一番左が坂本良隆、一番右が下総皖一。坂本とヒンデミットの間にいる女性はヒンデミット夫人(1956年「音楽の友」7月号より)


またヒンデミットは、実力派の大物演奏家たちと弦楽三重奏団を組んでいた。そのメンバーはベルリン国立歌劇場のコンサートマスターであり、前出の貴志康一のヴァイオリンの師匠でもあったヨゼフ・ヴォルフスタールやベルリン高等音楽院の教授でもあったチェリストのエマニュエル・フォイヤマンである。フォイヤマンは日本の音楽教育に多大なる貢献をした教育者であり、チェロ奏者、指揮者であった齋藤秀雄の師匠でもある。そしてヴォルフスタールの死後は、ベルリン・フィルの伝説のコンサートマスター、シモン・ゴールドベルクが参加してヒンデミットと弦楽アンサンブルを組んでいた。斎藤秀雄、ゴールドベルクの両名は新日本フィルハーモニー交響楽団とも縁が深く、斎藤は小澤征爾の師匠であり、同オーケストラの顧問を務めた人物。ゴールドベルクは1990年から没する1993年まで新日本フィルの指揮者を務め、日本で生涯を閉じた。

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エマニュエル・フォイヤマン


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齋藤秀雄


ゴールドベルクやフォイヤマンはユダヤ系の音楽家であった。当時のドイツはナチスが実権を掌握し、ユダヤ人に対する感情が日に日に悪くなっていった時期であった。ヒンデミット自身はユダヤ人ではないのだが、「ユダヤ人とアンサンブルをしている」ことを理由にヒンデミットも攻撃の対象とされてしまう。ヒンデミットの音楽は鋭い和声や不協和音、強烈なリズムが特徴である。それはロマン派の音楽、たとえば当時のドイツ音楽の巨匠であるリヒャルト・シュトラウスなどの音楽に比べたら、明らかに「現代音楽」ではあったが、他方アバンギャルドな音楽を創作する側から見れば、伝統的な技法を下敷きとしたヒンデミットの音楽は、やや穏健であったというような評価をされていた。ナチスはアバンギャルドを敵視し、それらも含めてユダヤ人作曲家の作品とともに「退廃音楽」のレッテルを貼り、徹底的に誹謗し弾圧していた。ヒンデミットの作品は、そこまでアバンギャルドではなかったので、ナチスもヒンデミットの音楽を受容できないこともなかったのであるが、ユダヤ人音楽家との親交を理由にナチスから反感を持たれていたのである。

このような状況下で「事件」は起きた。1934年頃、ヒンデミットは16世紀のドイツの画家マティアス・グリューネヴァルト(1470頃〜1528)に題材をとったオペラ「画家マティス」を作曲、同時にその姉妹作となる交響曲「画家マティス」を作曲した。歌劇に先立ち、交響曲がヴィリヘルム・フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演され、大成功を収めた。交響曲の先行初演は、おそらくはオペラのプロモーションの意味合いを持っていたものと思われる。「それなりの成功」であればよかったのかもしれないが、「大成功」してしまったが為にヒンデミットはより一層ナチスと、ナチスの宣伝大臣ゲッペルスに「目をつけられて」しまった。

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作者不詳「マティアス・グリューネヴァルト」


もともと、ヒンデミットのオペラ「今日のニュース」の劇中に女性歌手のヌードシーンがあることを不快に思っていたヒトラーの心証が悪かったことも災いした。ボスの心証が悪いと、それを「忖度」した従順で小賢しい子分がボスに認めてもらおうと、それに追随するものなのであろうか。このような背景もあり、ナチスはヒンデミットに対して厳しく対処することにしたのである。まずはナチスの機関紙で「堕落の旗手」としてヒンデミットを誹謗した。そしてフルトヴェングラー指揮によりベルリン国立歌劇場で初演される予定だった歌劇「画家マティス」は当局からの通達により上演を禁止されたのである。この一連の動きのことを「ヒンデミット事件」と呼ぶのだが、その命名の由来はこの件に対して、怒りのフルトヴェングラーが「ドイツ一般新聞」に投稿した論評記事のタイトルによるものである。フルトヴェングラーは新聞への投稿に先立って、ベルリン・フィルと国立歌劇場での職を辞任もちらつかせるほどの強い態度を表明している。その論評の全文はフルトヴェングラーの著書「音と言葉」で読むことができるが、かいつまんで言えば「ヒンデミットに対する非難は言いがかりだし、ヒンデミットは現代のドイツ音楽界に必要不可欠な存在だ!」というようなもので、フルトヴェングラーは完全にヒンデミット擁護の姿勢を貫いている。このフルトヴェングラーの記事はドイツ全土でセンセーションを巻き起こしたのであった。

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ヴィリヘルム・フルトヴェングラー


しかしそのような抗議活動もむなしく、ナチスの姿勢は硬化していった。フルトヴェングラーは帝国枢密顧問官の職を解かれ、ベルリン・フィルとベルリン国立歌劇場の監督も辞任した。また、ベルリン国立歌劇場常任指揮者であったエーリッヒ・クライバー(指揮者カルロス・クライバーの実父)も南米に亡命した。そしてヒンデミットを「無調の騒音作家」とし、ヒンデミットに攻撃的な講演や新聞の記事が書かれた。1936年にはヒンデミットの作品は公式に演奏が禁止され、1938年の「退廃音楽展」でも批判の対象となったのである。ヒンデミットは帝国音楽院の顧問の職を辞しトルコに渡る。そこでトルコの音楽教育の編成に関わりアンカラ音楽院の開校にも尽力した。そして1939年にスイスに亡命したのである。これが「ヒンデミット事件」の顛末である。

このように音楽や作曲家、演奏家が、人種差別や政治的意図のもとで翻弄されていた時代が確かに存在したのである。これはナチスに限ったことではなく、ソヴィエトでもアメリカやイギリスでも、そして我が日本においても、20世紀のクラシック音楽はそのような政治体制に翻弄され、その中で存在したのもまた真実である。この事件の教訓を我々はどのように、21世紀の現代に活かしていけばよいのだろうか。それは現在進行形の難しい課題でもある。

スイスに亡命したヒンデミットはその後、アメリカへ亡命する。名門イエール大学で教鞭を執り、ノーマン・デロ=ジョイオやルーカス・フォスといった作曲家を育てた。アメリカ時代の作品の代表作が「ウェーバーの主題による交響的変容」で、この時代のヒンデミットの作品は親しみやすさもあり人気が高い作品が多い。アメリカ時代の著作もいくつか日本語訳されており、僕も「作曲家の世界」や「和声学」、「作曲の手引き」、そして「音楽家のための基礎練習」などを今でも座右の書としている。ヒンデミット自身はそれらの著作を「音楽愛好家のために」著したと述べているが、内容は専門的であり、専門家にとっても有益な書ばかりだ。

演奏家としても優れていたヒンデミットであるが、指揮者としても活動している。今でも彼の自作自演のC Dアルバムや、ブラームスやブルックナーの作品を指揮する映像などを見ることができる。明晰な楽曲分析に基づいた素晴らしい演奏を体験することができる。また戦後初めてウィーン・フィルが来日公演を果たした際の指揮者がヒンデミットであった。来日した楽団の編成は規模が大きくはなかったそうであるが、当時の日本における「音楽の殿堂」であった日比谷公会堂などで公演をした。その公演については岩城宏之先生の著作などで生き生きと語られている。僕がヒンデミットを知ったのも岩城先生の著書で、おそらく小学校6年生の頃だったと思う。その中でヒンデミットの指揮について「タコのようなクネクネした指揮」と岩城先生が感想を述べている。一般的に見られるヒンデミットの写真のスキンヘッドも相まって「タコ」という表現は些か失礼ながらも「言い得て妙」な表現と感心する。

このように時代に翻弄されながらも、20世紀を代表する作曲家としての地位を確立したヒンデミット。「書いて、指揮して、ヴィオラを弾いて、教えた」その人生は1963年に幕を下ろす。亡くなったのは旅行中、故郷と同じマイン河畔のフランクフルトであった。68年の生涯の最後は、かつてナチスから迫害されて追われた、祖国ドイツであったことは、ヒンデミットにとっては幸せなことであったと思いたい。そして今なお、ヒンデミットの作品はドイツ国内のみならず、世界各国のオーケストラによって演奏され続けているのである。

ヒンデミットは音楽史的な分類をすると「新古典主義」であるとか「新即物主義」という分類がなされる。「現代音楽」といわれているような無調の音楽ではないものの、和声の美しさや旋律の流麗さよりは、リズムや不協和音、複雑な和声や対位法を用いたもので、僕には「とてもカッコいい」音楽に感じるのであるが、一般的には少しとっつきにくさも感じるようである。どことなく間の抜けた感じもあるし、何か一本ネジが取れているような感じも受ける。しかし、それを超越して「とってもカッコいい」のだ。「ヒンデミット」という名前の響きもとてもカッコいいが、ヒンデミットの作品を鑑賞する際は特に「音楽のカッコ良さ」に注目して鑑賞していただけると幸いである。そしてその「カッコ良さ」の源泉は、ヒンデミットの卓越した音楽理論への理解と、それを音楽作品に昇華する能力に他ならない。ヴァイオリンやヴィオラだけでなく、多くの楽器を上手に演奏できたといわれている多才であったことも見逃せない。そして彼は「多作」の作曲家でもあった。

彼は、自身が一級の腕前を持っていたヴィオラのための独奏曲を多く作曲し、この楽器のレパートリーの拡大に大きな貢献をしている。その功績は同時代のバルトークやウォルトンをも凌駕するもので、11月に新日フィルの定期で演奏されるヴィオラ協奏曲「白鳥を焼く男」はヴィオラ協奏作品の代表作である。また、多くの楽器を演奏できたからという理由もあるのかもしれないが、多くの楽器のためのソナタを作曲している。その種類はオーケストラの編成にお馴染みの楽器のみならず、サクソフォーンやヴィオラ・ダモーレ、イングリッシュ・ホルン、ハープのソナタなども作曲した。これはあくまで「都市伝説」として受け止めていただきたいのだが、ヒンデミットのさまざまな楽器のためのソナタは、その「報酬の多寡」によってそのクオリティが違っているのだ、という話を聞いたことがあった。だが僕の耳で聞く限りは、どの作品も高いクオリティを持った名作ばかりである。このことは「都市伝説」の一つに過ぎないと信じている。

「カッコいい」だけでなく、ヒンデミットの作品には「ユーモア」を感じる作品もある。それを体験するためにお勧めしたい曲は、弦楽四重奏曲の中の一曲だ。タイトルが長いので心して読んでいただきたい。その曲名は「朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された『さまよえるオランダ人』序曲」という曲だ。タイトルの通り、「ワーグナーの序曲を下手くそなオーケストラが、朝早く初見で合奏したらこんな演奏になるだろう」というものを音符にして作曲した「冗談音楽」である。この曲は普通に楽譜通り演奏しても「下手くそ」に聴こえるような作品で、実際に聴くとイライラ、モヤモヤしてしまうような作品ではあるのだが、機会があったら是非聴いていただきたいヒンデミットの作品である。この曲が作曲されたのは1925年であるから、ナチスドイツが台頭し始めた時期である。ヒトラーはワーグナーを信奉し、自身の政治にも利用していたので、この種のパロディをヒトラーが聴いていたならば、怒りに打ち震えていたかもしれない。

ヒンデミットの音楽に対して「難解」であるといった印象を持っている方は、まずは比較的聴きやすい「ウェーバーの主題による交響的変容」や交響曲「画家マティス」から聴くことをお勧めする。「ウェーバーの主題による交響的変容」はタイトルが示すように、ロマン派の作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーのピアノ曲や管弦楽曲などの旋律を引用し、それをヒンデミット風に「味変」させている作品なので、しっかりと「旋律」を感じることができる。2楽章後半のトロンボーンから始まるフーガ風の音楽は、どことなく「アメリカン」な感じを受ける部分でとてもクールだし、3楽章の第2主題はとても美しい抒情にあふれている。4楽章の「マーチ」もヒンデミットのカッコ良さを存分に味わうことができる。

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カール・マリア・フォン・ウェーバー


そして「ヒンデミット事件」発端となった作品、交響曲「画家マティス」はグリューネヴァルトの3枚の宗教祭壇画を各楽章のタイトルに持つ作品だ。決して「無調の騒音」と言えるような作品ではなく、ヒンデミットの作品の中でも美しい和声や魅力的な旋律を持つ傑作である。冒頭の洗練されたハーモニーはまさに「天使の合奏」に相応しいし、その後登場するドイツ民謡から引用されたトロンボーンのメロディも崇高である。

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グリューネヴァルト「天使の合奏」(「イーゼンハイム祭壇画」より)

3楽章の冒頭の弦楽器のユニゾンで演奏される動機はヒンデミットの作曲技法の集大成のような部分であるし、その後の対位法的な音楽も堅牢なヨーロッパの大建築を見るようである。

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グリューネヴァルト「聖アントニウスの誘惑」

そして大詰めに金管楽器で奏されるグレゴリオ聖歌の旋律・・・。その音楽は、いわゆる「現代音楽」とは一線を画すものである。そのような曲を聴いていても僕はこう思うのだ。

「ヒンデミットはカッコいい!」と。

(文・岡田友弘)

♪♪♪新日本フィルがヒンデミットの作品を取り上げる演奏会情報♪♪♪

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《すみだクラシックへの扉 #03》

2021.11.19 FRI 14:00 開演 すみだトリフォニーホール 
2021.11.20 SAT 14:00 開演 すみだトリフォニーホール 

プログラム
フンパーディンク:歌劇『ヘンゼルとグレーテル』 前奏曲 
ヒンデミット:白鳥を焼く男(ヴィオラ:篠﨑友美) 
R.シュトラウス:メタモルフォーゼン(23の独奏弦楽器のための習作) 
フンパーディンク:歌劇『ヘンゼルとグレーテル』より 夕べの祈り~パントマイム 

ヴィオラ:篠崎友美

指揮:下野竜也
管絃楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

チケット等詳細は、新日本フィルウェブサイト

岡田友弘.jpg 写真:井村重人

岡田友弘(おかだ・ともひろ)
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻卒業。その後色々あって(留年とか・・・)桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンも多くいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。現在、吹奏楽・ブラスバンド・管打楽器の総合情報ウェブメディア ''Wind Band Press" にて、高校・大学で学生指揮をすることになってしまったビギナーズのための誌上レッスン&講義コラム「スーパー学指揮への道」も連載中

岡田友弘・公式ホームページ
Twitter=@okajan2018new




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