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平和という考え方について思うこと

平和という考え方について思うこと

なぜ、人間は平和を維持することができないのか?
誰だって平和がいいに決まっている、でも世界中で今もなお戦争が繰り返されている。

自分が生まれて育った街々が、銃撃やミサイルによって最も簡単に壊されてしまう、そして人が死んでしまうのだ。
こんな残酷で信じられないコトが2022年になっても続いている。

なぜだろう?常に『自分』主体で物事を考え、それを相手に対しても押し付けてしまうからなのか?

『平和』という言葉の意味をもう一度見つめて・考えないといけない時期が来たのではないかと感じている。

本人は平和ボケしている?


日本人が平和ボケしているというありふれた言説はさて置いても、少なくとも衣食住が保障されている生活の中で、地球上で起き続ける諸々の出来事について、全く現実問題として受け止める能力を感じれていない(欠落したとも言えるのではないか)現代日本人が、「平和」を主張することがあまりに説得力に欠けるのは事実である。

こうした空洞化した論理を用いて、唯一の被爆国である日本が世界平和を主張するのは至極当然の義務だと言うのであれば、それなりに過去の歴史をたどり、現状を把握することは大前提なのではないか。

仮に、日本が唯一の被爆国であることを理由に世界平和を主張するというのであれば、
まずはその当事者である米国の軍事基地と軍隊が沖縄を中心とする日本各地に点在している事実に対して、『撤退』、つまり我が国の主権の回復に徹するのが先決であることは言うまでもない。

戦争屋の米軍が多くの拠点を置きながら世界平和を主張し、軍事基地が守られるべき自然を破壊し、公害や住民に対する暴虐的行為が平然と行われていながら自然保護を主張するなど、これでは矛盾も甚だしいものであり、(日本とは違って)シビアな政治のプロフェッショナルである各国を説き伏せられるはずがない。

日本と他国の関係性に関する報道について思うこと


先日、米国バイデン大統領が韓国・日本を就任後初めて訪問しに米国を飛び去ったことで浮足立つメディアや政治家の姿は、相変わらず一体我々はどこの国の民なんだろうと深い懐疑を生起せずにはいられない。

まるで殿様を迎える従順な犬を見ているようであり、これならば政治とメディアでは議論にもならないことは明白である。

実際、直近の大統領はアジア訪問の際には日本から入ってきたが、今回バイデン大統領はあっさりと韓国を優先して訪問している。
つまり、全く相手にされていないことは日本人の羞恥となり、メディアはそれを国民に勘づかせない為に今回は中国を省いて対中を明確にしていると恥を摺り替えて報道している。
 
日本の政治、メディア、そして国民はこうしたことへの羞恥を深く根に持ち、メンヘラ的に身勝手に恨みを募らせる。
これは日露戦争で勝利した時、明治政府を中心にようやく先進国である西洋に認められるという強烈な自負を生んだにも関わらず、蓋を開ければ所詮白人に劣った東洋の黄色人種としてしか見られていなかった羞恥を抱えた時と同様だ。
こうして時の主人に恥を植え付けられたと被害妄想に暮れた日本人が、同じく立ち遅れてきたドイツとイタリアと手を組んで第二次世界大戦で特に英米に対する恨みを晴らそうと闘ったのは歴史の通りだが、こうした主人に恥をかかされたと妄想を膨らませる日本人の根性が、やがて歪んだ思想を生み出して多くの人々を教化し、敗戦確実の戦争に向かった上、特攻の様な信じがたい事実を生み出したのは見逃せない。
 

話は長くなってしまったが・・・


だからこそ、平和について考えるのであれば過去を知り今日本だけでなく世界中で起こっているコトに目を向けてリアルな情報を自分で取りに行くことが最低限必要なことではないかと感じた。


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