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小説 札幌駅前のチェーンのカフェにて

 ムツキは落胆していた。都会の薄給が原因ではなかった。
 3年目の札幌で、彼女は11時からの派遣バイトの登録会まで時間を潰すため、チェーン店のカフェに入った。2月の比較的穏やかな週で、予報では久々のプラス温度だったが、雪がちらついていた。
帯広の田舎から出てきたムツキは、OLスーツのくたびれが似合うようになってきたら、どうでもいい空き時間をどこにでもあるチェーンのカフェで過ごすことに憧れていた。
町のパン屋より高くてまずいサンドイッチを、味わうこと無く気怠そうにかじり、30分も滞在せずに唇だけを整えて次の営業先に出向くような、そんなショートボブのOL生活にあこがれていた。
 2年間の都会生活は、有意義な眩暈と自分を勘違いさせてくれる人間関係のおかげで満足に浸れた。
この都会の給料事情をなんとなく理解して、職場の同期達との話題も愚痴が増えてきたころに転職活動をした。
彼女の能力は地元の職業訓練学校で1年間事務を学んだだけだったが、若さが幸いしたのか、満足できそうに見える職場に受かった。どうせ半年もすれば同僚と愚痴に興じるだろうが、そのころには自分の程度を見つめたうえでの、愚痴のための愚痴になるだろう。
 中途半端な3か月後からの新生活までのつなぎに、派遣業務をすることにした。給料に対しての希望よりも、拘束時間の短さを求めるくらいには余裕があった。
 今日はその登録会であったが、朝の余裕の無さを見越して早起きをした。そのおかげで時間を気にすることなく準備を終え、家を出て会場のビルに着いたところで時間を確認すると、1時間早く勘違いしていたことに気が付いた。
 持てあます時間が出来てしまった。道路を挟んで向かいのビルにチェーンのカフェを見つけた。彼女が憧れていた姿を演じる機会がやっと来た気がした。今日までの2年と少しは、憧れに見合わない自分が目に付いてためらっていた。一人でカフェを利用することはあったが、そこに憧れの気怠さは無く、若者らしい幼いときめきを伴っていた。いま、役柄は彼女に必然性をもってキャスティングされていた。
 先払い式のため、自動ドアの前でメニューを悩むのも格好がつかないので、目に留まったものを注文することにした。このカフェは違う店舗でも何度か入ったことはあったが、いつも同僚たちと一緒で、何を何円で頼んだのかは覚えていなかった。初めての時、コーヒーが小さくてやたら安いのに驚いたことだけは印象に残っている。当時は喫煙席があった。いまは専用ブース「あり」と自動ドアに書いてあった。席は無いのだろう。
 カウンターに開かれたメニューで目に留まったのは220円のコーヒーとその横に縦置きされた新商品の宣伝だった。「スティックシュー」、つまりシュークリームの記事を固いスティック状にしたもので、カスタードとチョコがある。
220円と良心的だった。ほかのフードを確認することも無くまずはこれを頼む。目に留まったからだ。カスタードにした。コーヒーとチョコでは味が消えそうだったからだ。
「スティックシューと」と先に言っておくことで、飲み物も頼むつもりだという意思表示を見せた。ムツキはコーヒーに興味も無く、水でよかったが、それでは格好がつかない気がした。
一番上に書いてあるブレンドコーヒーと言いかけて、その右に書いてあった「紅茶」が目に留まった。
220円だった。1時間前に自宅でコーヒーを飲んだことを思い出し、悩むという程の時間もかけず、「ホットの紅茶で」と告げた。
 「一歩ずれてお待ちください」
と言われてから待っている間、紅茶にするならスティックシューとやらをチョコにしてもよかったと思った。同時に、「ブレンドコーヒー」と銘打つのに対して「紅茶」はやる気がないのかと心中でほくそ笑んだが、紅茶は1種類だからかと気が付いた。それにしても芸をほどこす気すら感じられず、紅茶が不憫に思えた。共に「コーヒー」と記載するなら、野暮ったさもスタイルになるのにと、おそらくスティックシューを用意している店員を無表情で見つめていた。
 体感で1分程経ったころ、とかく混雑もしておらず、簡便そうな宣伝商品と紅茶だけで案外時間がかかるな、と感じていると、ドリンクサーバーから振り返った店員が慌ただしそうに
「お席までお持ちいたしますので少々お待ちいただけますか」
と告げた。
彼女は驚いた。この場で待てと右側のレジ店員に言われたからではない。思いのほか提供に時間がかかることでもない。いま席で待てと告げた店員の目を覆う慌ただしさと苛立ちに驚いた。
 レジ店員の案内から、本来はスティックシューと紅茶を出すのには「一歩ずれてお待ちください」で十分間に合うのだろう。自分のあとに客が列をなしている訳でもない。ならばマシンか何かに不具合があったか、提供係の店員のミスなどで、本人も予期せぬ時間がかかっているのだろう。それは良い。その旨を告げて「申し訳ありません、お席までお持ちいたしますので」と笑顔で応対しろとも思わない。200円のドリンクとフードである。むしろ、ミスなんて起きても知らぬ、と待たせるか、ガムでも噛んでいそうな気怠さで案内をしてくれても構わない。振り返り案内を告げた店員は慌ただしさを隠そうと努めながら、句読点の無い早口と目の伴わない口角を浮かべていた。客への後ろめたさではなく、課せられた業務の中での対応マニュアルをこなさなくてはいけない義務と、本来不要であったその小さな非常時に対しての、つまり自分が被ることの無い煩雑を被っていることへの苛立ちであった。
 何を慌てることがあって、この人は何を背負っているのだろう、という疑問を、店員の指示に従って座席を選ぶムツキに引き起こした驚きであった。何を思ってそんなに必死に苛立ちを隠そうとして、業務を実行すること無く読み上げるような態度で慌て、それゆえに苛立ちを隠せずにいるのいるのだろう、と。店内に窓はなかったので、入り口の自動ドア越しに外が見える席を選んだ。ムツキは街の姿を見るのが好きだった。座席の肘置きが水平にカーブしているデザインで窮屈だった。これでは役にハマれない、と彼女は思って、視界の変わらないとなりの座席に移った。そこから奥は肘置きの無い椅子が並んでいた。同時に、いまの店員の表情も、珍しい物ではなく、むしろ都会の平凡な姿だったと気づいた。実際の都会は、田舎娘が憧れるクールさで覆われてはいない。たまにクールな人が居るだけだ。そしてその人は田舎には居ない。ムツキは満足だった。待つほどもなく、注文が運ばれてきた。さっきの店員さんは損したな、と思った。
 自分が注文したものに目をやることも無く気怠く時間を潰す、という憧れのOL姿に自然に入っていくのは少し難題だぞ、とムツキは運ばれてきたトレイを見て思った。「紅茶」は三角のティーパックだった。運ばれてきた時点でお湯と共にカップに入っていた。抽出はあと1分ほどかかりそうだった。ティーソーサーには「パックをここに置いてください」と印刷された水色の小さな紙製の台紙が添えられていた。今にも落ちそうで、落ちなくとも期待された役割を果たすとは思えなかった。カスタードの「スティックシュー」は黄色と白のストライプが渇いた平たい包装紙に差し込まれており、この包装紙に横並びであと4本は「スティックシュー」が入りそうだったので、貧しく見えた。「スティックシュー」と印刷されていた。適当な紙ナプキンで雑に包んで欲しかったな、と彼女は思った。
 お湯に「紅茶」の色が丁度でたところで一口すすり、予想通りの後悔が襲ってくるのをムツキは避けられなかった。とめどなく頭に溢れるあらゆる家庭用のティーパックがこの「紅茶」より美味しい記憶であることを恨んだ。彼女は紅茶通ではない。220円という値段が急に悲しみを伴った。原価率やコスパといった考え方は彼女は好きではなかったが、この味を「席でお待ちしてください」と言うなら、良いタイミングでパックを取り出してサーブするなりしてくれた方が、「パックをここに置いてください」のおかげで自分の好きな濃さを調節できることよりも気分がマシだと思った。取り出して文字の指示通り置いてみた。ソーサーに液体がこぼれた。カップの底が濡れた。
 まあ良い、とムツキが思い直して一旦席を立ったのは、2年間で都会の姿に慣れていたことと、予想よりも綺麗で広い喫煙ブースが座席のすぐ近くにあることに気が付いたからだった。「紅茶」は冷めるのを後悔させるような代物ではなかったので、彼女はタバコを吸いに席を立った。
 喫煙ブースは「五人までとさせて頂きます」と張り紙がしてあったが中には一人もおらず、広々と心地よくリラックスすることが出来た。店内と合わせた木目調を、蛍光灯が邪魔しないデザインが上手だった。白黒の小さなデザイン絵画が、白い台紙と黒い額で何点か飾ってあることがその効果を担っているのかもしれない。ドアから見て側面の壁の半分を鏡にしていることも、空間の広がりを感じられた。「まだスティックシューには希望がある」とムツキは二口目の煙を吐きながら言い聞かせた。美味しい必要はない。
普通でいい。投げやりな気分で作られていればむしろ良い。余計なことをしないでくれれば。既に包装紙はやりきれなさを提供してくれたが、「パックをここに置いてください」は入っていないだろうし、なにより「スティックシュー」を食べるのは初めてだから、記憶が今を比較してしまうことも無いだろう。側面の鏡を見た。OLスーツで脚をクロスさせ壁に軽くもたれかかる。電子タバコにしないのは、指で挟んで先端をすこし上に傾けたいから。フィルターが白じゃないとダメなのは、咥えたときに付着する口紅がクールを思わせてくれるから。憧れの時間つぶしはまだ出来る。彼女は座席に戻った。
 期待は抱かずに「スティックシュー」を渇いた印刷の包装紙から取り出す。味わってはいけない。見つめてはいけない。入り口の自動ドアから外でも見ながら、気怠そうに。
「ぱっさぱさ、、、」一口目でムツキは思わず呟いてしまった。大嫌いだった小学校のコッペパン以上にぱさぱさだった。ぼっそぼそ、かもしれない、と彼女は思った。意図せず口にでた一言目でクールの再建は一瞬で諦めた。この諦めは速かった。どうあがいても不可能だと思ったからだ。どうせなら「ぼっそぼそ、、、」も口に出してやろうかと思った。二口目で到達したカスタードの味は、その認識を生地の渇きにより妨げられた。彼女は悲しみに落ちていく自分を感じた。220円だったが、むしろ550円出してスーパーのシュークリームを5つ食べたいと思った。無茶苦茶に頬張ってやりたい。だって可哀そうじゃない?と誰にともなく脳内で問いかけた。この商品が企画会議を通過した事実に悲しくなった。もっとマシなものを提供して欲しい気持ちではなく、なにも出してほしくなかった。出すならとことん投げやりな商品を出してほしいと思った。レジカウンターに縦置きされたラミネートは、センスはないが小奇麗だった。この包装紙も、貧しさを感じさせるがそれはデザインの問題で、金がかかっているのだろう。まったく同じ商品を、330円で、乱暴に包んで提供されればこんな悲しみに嵌ることはなかっただろう。
やけな気持ちで頬張った。流し込むのに水を飲もうと思ったが、カウンターの隣でセルフサービスを取り忘れていた。冷めきった「紅茶」は、味わうつもりもなかったので丁度よくその代わりを果たした。
 11時の登録会には45分にこの店を出れば、10分前に着くだろうと考えていた。残りの25分を、ムツキは心を落ち着かせようとキンドルで読みかけの小説を読んだ。早く出たかったが、店を出ても時間を潰すところが無かった。イヤホンでお気に入りの邦ロックを流したが、悲しみは止まらなかった。何よりの虚しさは、その悲しみが余りにチープなもので、堕ち切って浸ることも出来ないところにあった。
 いったいどこからズレたんだろう、どの時点で切り上げればよかった?
と、集中できない読書を諦めて、自動ドアの外の街を眺めながらムツキは思った。雪は本降りになってきた。札幌は海に面する帯広よりも積雪が多い。彼女のOLスーツはちゃんとくたびれていた。滑り止め加工された冬靴使用のパンプスも、黒髪のショートボブも、文句のないオフィスメイクに一点だけ違和感を施す口紅の濃い赤も、まとまりをもって似合っていた。それはこの2年間の人間関係から納得出来た。「ブレンドコーヒー」にすれば良かった?パックも台紙も付いてこないから。縦置きの新商品に目をくれたところがお子様だった?クールな気怠さをまとった憧れのOLは、平日のお昼前に時間を持て余さないのかな。外の雪は舞うという表現よりも荒々しい。札幌の都心部と呼べる部分の面積は思ってたより小さいのだということを、彼女は2年間で知った。誰かがこの小さな大都会に空から蓋をして、出られなくなった雪が暴れてるみたい、と思った。スノードームのような静かさも温かさも無かった。外はただ冷たく、寒々しく見えた。
 時間が来たので席を立ってコートを羽織り、マフラーを巻いた。店内にさっと目をやると、トレイと食器はセルフ返却だと分かった。「紅茶」はまだ二口ほど残っていたが、立ち際に飲み干す気にもならなかった。トレイを返却口に返して、レジカウンターの前を通る。「ありがとうございましたー。」とおそらく2人分の声を掛けられて、そういえば座席まで注文を持ってきてくれた店員さんは、あの慌てた苛立ちの店員さんだったのだろうか、と思った。いま声をかけてくれた2人の内どっちだったのだろう、レジの店員さんと入れ替わったりしたのだろうか。振り返ろうかと思ったが、そもそも顔を思い出せなかった。ただ目の色だけが浮かんだ。その色はきっと、都会のカフェのどの店員も浮かべるものであろうから、振り返っても分からないなと思った。
 自動ドアをくぐるとやはり雪は荒々しく、冬の静かさは見当たらなかった。チープな悲しみはチープなまま消えなかったが、ムツキは地元に帰りたいとは思わなかった。

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