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プロモードという治療法 - 『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』

いつの頃からだろう。オープンワールドゲームというジャンルに、以前ほどのワクワクを感じなくなったのは。

いつの頃からだろう。オープンワールドゲームというジャンルに、圧迫感を覚えるようになったのは。

いつの頃からだろう。オープンワールドゲームというジャンルが、豪勢なプチプチシート潰しに思えてきたのは。

Same Shit Different Game

俺がオープンワールドゲームを遊ぶときの流れはだいたいいつもこんな感じだ。

まずゲームを起動し、チュートリアルをこなし、希望を胸に新しい世界へと飛び込む。次に、無数に散りばめられたアクティビティ──大抵の場合は、どこかに行って誰かを殺したり何かを盗んだりすることにちょっとした文脈を付与したものだ──を手当たり次第にクリアしていく。そしていくばくかの報酬を得る。忘れたころにメインストーリーも進めていく。

ふた昔ほど前と違って、いまのゲームはToDoリストが表示できるのでやることを忘れたりせずに済む。行くべき場所を見失って迷子になるようなこともない。現代の多くのオープンワールドゲームでは行くべき場所がアイコンで示され、ときにはマップに順路が表示される機能まで存在するからだ。そのおかげで、俺は迷わずに順路をたどり、アイコンへ辿り着き、そこでの仕事・・をこなし、また別の仕事・・に取り掛かる。

アクティビティ、アイコン、ミニマップ。アクティビティ、アイコン、ミニマップ。ゲームが差し出す報酬と成功体験に快楽中枢を刺激され、俺は回し車のハムスターのようにこのループを繰り返し続ける。もっと早く、もっと多くを。より短いプレイ時間で、より多くの快楽を。……そうして俺は本質を見失う。大勢のアーティストが心血を注いで描き出した美麗なオープンワールドではなく、アイコンとミニマップばかりを見るようになってしまうのだ。

これは、時間対効果タイムパフォーマンスなどという強迫観念を追い求め、コンテンツを"体験"ではなく"消費"しようとする現代人の宿痾である。軽蔑すべき、唾棄すべきゲーマーの姿勢である。

『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』(TotK)。もはや説明は不要、今年のゲーム・オブ・ザ・イヤーの大本命であり、現在進行系で無数のゲーマーの生活を狂わせ続けている。本当に素晴らしいゲームだというのに、俺は同じ病にハマりかけた。TotKをプレイして10時間ほど経ったとき、俺は自分の目がまたアイコンとミニマップに支配されつつあることに気付いたのだ。わざわざこんな記事まで書いたというのに!

このゲームの世界はこんなにも美しく、豊かに、そして巧妙に作られているというのに、ミニマップのある画面右下しか見ていない時間が多すぎる。俺が視界に入れようとしていたのは画面全体の1/20にも満たない。

ゲームを効率的に消費しようなどという利口ぶったプレイスタイルに恥じ入った俺は、宿痾の治療に乗り出した。

PROになれ

プロモード。それはシステム設定画面から選べる画面表示オプションであり、UI情報を最小限に減らすモードだ。これをオンにすると、ほとんどすべてのUIが見えなくなる。ミニマップはおろか、ハートの残量や、Lトリガーに設定しているゾナウの力もわからなくなる。画面に映るのは、ハイラルに実際に存在するものだけだ。

これから貼る諸々の画像や動画は、そうしたプロモードで撮影したものだ。

UIが見えなくてまともにプレイできるの?ハートが見えないと怖いし道がわかんないよお……と臆病風に吹かれるのも当然だが、結論からいえば可能だ。戦闘に入ればハートは勝手に表示されるようになるし、アイテムや人にインタラクトするときのUIも失われない。UI情報を最小限にするというのは、プレイに支障をきたさない範囲での最小限という意味だ。実際、そろそろ100時間にさしかかりそうな俺のゲームプレイの9割近くはプロモードで行われたものであり、その体感としてもプロモードでのプレイは十分に現実的といえる。

とはいえ、不便がないではない。最も大きな問題は、目的地への方角がわからなくなることだ。ミニマップが表示されないので、気付いたら目的地の逆方向へ向かいそうになっていることも日常茶飯事である。それを避けるためにたびたび全体マップを開くのは明らかに煩雑で、面倒くさく、手間のかかるゲームプレイとなる。

そのかわりに得られるのは、画面いっぱいに広がるハイラルの豊穣な世界だ。

雨が降ると景色が見づらくなるし、壁面が滑ってまともに登れなくなる。前作のBotWに引き続き、雨はこのゲームで一、二を争う嫌われ者だ。けれど、UIをオフにして雨の降りしきる草原を歩くのはとても気分がいい。現実世界と違って風邪をひく心配をせず、雨にけぶる景色を穏やかなBGMと共に堪能できるからだ。もしハートやミニマップがゴテゴテと表示されていたら、山の稜線にうっすらと月が光っていることに気付けただろうか?

前作の舞台をそのままに、TotKは縦方向に大きく世界を拡張した。天に浮かぶ空島と地底に広がる暗黒空間は、プレイヤーの好奇心をさらに刺激し続ける。中でも、空島からのスカイダイビングはプロモードとの相性がいい。眼下に広がる大地との距離がだんだんと縮まっていく臨場感が段違いだ。可能ならば『B:パラセール』のボタン表示も消してやりたい。ちなみに、もしこれがプロモードじゃないとこういう光景になる。

いかにも"ゲーム"だ

UIやHUDの存在が必ずしも悪というわけではないし、快適なゲームプレイを提供するためにそれらは必要不可欠だ。なかにはペルソナ5のように美的センスと使い勝手の良さを高次元で両立したUIも存在するが、これは神がかったケースであり、めったに出会えるものではない。UIが没入感やリアリティを阻害することはしばしば避けられず、それゆえ、最近では状況に応じてUIの表示を動的に変化させるゲームも珍しくない。

さっきも書いたように、ミニマップが表示されないのは単純に不便だ。しかし不便さの副産物として、プレイヤーは風景そのものにより注目するようになる。目的地のマーカーを思考停止で追いかけることがなくなり、主体的に地形を観察し、興味をそそるものを見つける習慣ができるのだ。そうして、『フィールド三角形の法則』に代表される本作のマップデザインの巧みさをつくづく思い知らされることになる。

また、全体マップを何度も開いて眺めることが増えるので地名を覚えやすくなるというのも思わぬ副産物だった。水の神殿を開放するための謎掛けを俺が一発でクリアできたのは、鍵となる地名を記憶していたからだ。

プロモードをオンにすることで、ただコンテンツを漫然と消費するわけではない本当の没入体験が生まれる。それは誘導や補助の欠けたタフなプレイスタイルだが、ゲームを効率的に遊んでやろうなどというタイパ目線の小賢しさとは少なくとも無縁でいられる。常に本気のプレイヤーでありたいと望む俺にとって、プロモードはまさしく僥倖であり、現代人の宿痾に対するささやかなカウンターだった。

……ちなみに、この記事はここ1週間くらいポツポツと書き進めたり消したりしていたのだけれど、そうこうしている間に以下の記事がゲームメディアのIGNで先に公開されてしまっていた。

ネタ被り勘弁してください。

長い余談:あるレビューによせて

先日、羊谷氏によるTotKのレビュー記事が投稿された。

このレビューの目の付け所は悪くないと思う。たしかに、TotKはプレイヤーの選択に応じたユニークな結果をもたらすことをしない。

たとえば、モドレコと長い棒があれば祠の謎解きの多くをクリアできるのは、アプローチの自由度の高さの証左だ。その一方で、スマートな最適解を選ぼうと脳筋スタイルを選ぼうと、得られる報酬はまったく変わらない。ゲームの面白さとしてよく挙げられるところの"選択と結果"の前者にのみ自由を許し、後者には許さないのがTotKなのだが、こうした窮屈さや単調さは意外なほど見過ごされている。その点に関する指摘は貴重だ。

だが、これをTotKのゲームデザイン全体の瑕疵やつまらなさとして一般化することはちょっと無理筋だ。その理由をひとことで言えば、「そういうゲームじゃねえからこれ!」である。

もし、ゼルダの伝説がロールプレイングゲームを名乗り、そのジャンルにおける"自由度"の高さをウリにしていたのなら羊谷氏の指摘は1000%正しい。しかし実際は違う。ゼルダの伝説は2Dと3Dとを問わず『謎解きに重点を置いたアクションアドベンチャーゲーム』であり、BotW以降は謎解きに加えて探索と発見という要素がさらに追加された。少なくとも俺はそう認識している。

キャラメイクもなく、キャラビルドもなく、ストーリー分岐もない。それが前提であるゲームに対してRPG的な選択と結果の自由度を求め、それがないから深みがないというのは酷だし、少なからず的外れであるように思える。ゼルダの伝説がダークソウルではなかったとしてダークソウルになる必要はないし、ゼルダの伝説がFalloutではなかったとしてFalloutになる必要はない。わざわざゼルダの伝説で体型スライダーをいじくって爆乳キャラを作ったりNPCをぶっ殺したりしたいのか?Starfield買ったほうが早くないか?

思うに、ゲームがどういったプレイスキルや理解度を要求するか(カジュアル/ハードコアのどちらであり、どのジャンルの能力を必要とするか)について、クリエイターとプレイヤーの間にはいつも暗黙の合意が交わされている。そこではなにかしらのトレードオフが成立する。カジュアルさのかわりに奥深さが、ハードコアさのかわりにインスタントな快楽がしばしば犠牲になり、プレイヤーはゲームを遊ぶ前提としてそれを甘受する。

それはやはり前提であって、評価軸にはならない。さもなくば、『星のカービィ』と『魔界村』はそれぞれカジュアルすぎる/ハードコアすぎることを理由に酷評できてしまう──そもそもそれ・・がウリのゲームなのに。

そんなわけで、羊谷氏のレビューは価値判断としては微妙に腑に落ちない。

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