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【ティアキン】 ゲームの「自由」に潜む魔物たち 【レビュー】


オープンワールドの自由とは?


デジタルゲームの自由度はいまや大きな関心事だ。

The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom での兵器や乗り物のクラフト術が巷を賑わせるなか、今月末に発売を控えた Final Fantasy XVI の「自由度のゲームではない」という先行プレイの感想が話題を呼んだことは記憶にあたらしい。好き嫌いは別にして、作品の自由度が僕らのプレイ体験に深く関わるのはまちがいない。

ゲームの「自由」とひとくちにいってもその意味はさまざまだ。実際、世間一般にいうオープンワールドからイメージされる「自由」は、

・移動の自由
・課題の自由
・解決手段の自由
・プレイヤーキャラクターの自由
・振舞いの自由
・成長の自由

などにこまかく腑分けできる。

クエスト選択と移動が自由なのは当然だが、プレイヤーキャラクターが何者でどういう振舞いをとるかまったく選べないものが数多くある一方、Cyberpunk 2077 や Elden Ring のように外見だけでなく出自も選べたり、そもそもプレイアブルキャラクターは膨大にいても主人公がいない Watchdogs: Legion のような変わりダネもある。

オープンワールドやその「自由」の議論がいまいち噛み合わないのは問題の前提や条件をだれも整えないからだ。

Zelda: TotK は立体的なフィールドデザインを活かしたフリーロー厶と個性的なクラフトシステムによる解決手段の「自由」が特徴だが、プレイヤーキャラクターの素性や成長、振舞いの幅はかなり厳しく制限されている。有名な Fallout 4 もまた、息子がいる素性は変えられないという意味ではおなじだろう。

もっとも、自由度の高さはかならずしも喜ばれる要素ではない。

実際 Final Fantasy XVI の先行プレイフィールは好意的に受け止められたようだ。前作 FF XV を例にだすまでもなく、オープンワールドは開発リソースを圧迫し、大量のバグや最適化不足を呼びこみ、アクティビティの多さにくらべて報酬システムの「不味さ」からなかだるみを招いては物語の整合性を失わせ、プレイングの没入感と快適さを削ぎがちだ。Hogwarts Legacy もそういう作品だったことは以前書いたとおり。

結局、重要なのはその作品の「自由」がどういう面白さに結び付いているかだ。自由度の高さを指摘して驚いてみせるだけのゲームレビューに作品分析としての価値はない。

今秋には品質管理のお粗末さで悪名高い Bethesda の待望の新作 Starfield が僕らを待っている。

宇宙空間を舞台にし、The Elder Scrolls V: Skyrim や FO4 以上の「自由」を掲げた野心の高さは興味深いが、正直僕はこの作品がどれほどきたない花火になるかがいちばん楽しみだったりする。

この文章では、最近発売された3つのゲームの「自由」を分析する。

ファンタジー系ストラテジーとして待望の続編リリースとなった Age of Wonders 4 と、XCOM ライクなポスト・アポカリプス RPG の Miasma Chronicles に、だれもが絶賛する The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom だ。

これらの分析をとおして、自由度が高いかどうかだけで語られがちなこの問題の解像度を深め、それがなぜおもしろく、なぜつまらないかの理解の助けになるといい。そして、僕がなぜティアキンを素晴らしい出来だが面白くはないと低く評しているかも。


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Age of Wonders 4

種族選択のメカニクス

ファンタジー系ストラテジーの待望の新作としてリリースされた Age of Wonders 4 でもある「自由」が話題になった。

それは、種族選択のスキン化問題だ。

AoW4 では自分の部族と指導者(プレイヤーキャラクター)をはじめに作成する。人間、エルフ、ドワーフ、オーク、ゴブリンといった定番にくわえ、モグラ族やカエル族、ネズミ族といったあまりみない種族も用意されている。しかも、部族と指導者はちがってもよく、ゴブリンを率いる人間の女性やエルフの率いるカエル族といった組み合わせもできるのはユニークだ。

問題はこれがただの「ガワ」でしかなく、ゲームのメカニクスには関与しないこと。

というのも、種族選択の際には物理と精神のふたつの特性も選ぶが、種族自体にはゲームのルールに関与する要素がなにもないどころかこのふたつの特性にも影響しない。つまり、人間にしようが、オークにしようが、ネズミ族にしようが見た目(スキン)以外はなにもかわらない同一部族を作れてしまえるのだ。もちろん、種族によって特性のプールが変わることもなかった。


移動速度や環境適応力ぐらいに差があればなあ


自由な想像力とリアリティ

Steam コミュニティでの議論の起こりをみるかぎり、ものすごく単純にいうと、スレ主の発言に端を発する「既存のファンタジーの伝統に則ってほしい否定派」「自由なロールプレイができて楽しい賛成派」のふたつに分かれるように感じた。が、僕からするとどちらも筋が悪い。

まず、既存の伝統や常識に則ってほしい、敬意を示してほしいという主張は、自分の愛着や慣れ親しみを尊重すべきというわがままにすぎない。

たしかに、ファンタジー世界をいちから創造することは煩雑な描写がふえるため、既存のイメージに則ることにはその作業の省略という利点がある。実際、ファンタジー作品の魅力的な物語やキャラクターはすでに共有されているイメージを裏切ることで生まれる。邪悪な蜘蛛の女神ロルスを信奉するドラウ(ダークエルフ)に生まれながらも善への目覚めにより地上世界を旅するドリッズト・ドゥアーデンは有名だろう。

しかし、既存のイメージを参照しない作品があってもいいし、挑戦されもするべきだ。AoW4 の開発方針にも影響したであろう、ファンタジー世界の種族の性質をあえて曖昧にする昨今の風潮に個人の愛着に依拠した主張が立ち向かえるともおもえない。

賛成派の考えはどうだろうか。

AoW4 の種族が「スキン」としてしか機能しないことはかえって多様な部族作成を可能にし、プレイヤーが想像力を活かすことでロールプレイの体験の質を高められるという主張は一見筋がとおっている。

しかし、Elden Ring の批評でも書いたように、プレイヤーの「想像」や「考察」を前提とした物語の「穴」は結局受容者の想像力ありきになるためそれ自体としては作品の良さになりえない。ひとの想像力は、なにもない場所、ただの物や形、なにげない行動にも自由に意味を見いだす気ままなものだ。

そもそも、否定派の反発の根本にはその部族の多様な組み合わせにリアリティを感じられないことがあるはずで、想像力を使おうが使わまいが部族作成にリアリティが欠けることには変わらず、反論として噛み合っていない。

AoW4 の種族選択のスキン化問題とは、突き詰めれば、メカニクスに関与しない「自由」な設定にリアリティの欠如を感じるか、想像力の余地を見出すかという問題だ。


Races beeing only cosmetic is not a good idea


選択の結果としての制約

僕が面白いと感じたある賛成派の投稿がある。

その人物は Pathfinder のウッドエルフをみろという。多種多様なエルフが用意されているなかで魔法に特化したものはほんの一部。きみたちの想像力がきみたちの限界だ。自由な部族作成こそがリプレイ性を高めると気付けばこのやり方が正解だとわかるよ、と。

TRPG の Pathfinder をプレイしたことはないが、それをベースにした Owlcat Games の Pathfinder CRPG を愛する僕からするとこの主張は正しく、同時に本質を見誤ってもいる。というのも、プレイヤーキャラクターや部族の作成の「自由」が面白さに直結するのはそうだが、Pathfinder ではエルフという種族選択がステータスに影響し、移動速度や体のサイズ、扱える武器の種類などを規定するからだ。種族選択がたんにスキン選びではなく、メカニクスと絡むことでひとつの結果を、あるいはほかの無数の結果を切り捨て、次なる選択の制約となる。

多種多様なものからなにを選ぶにせよ、その選択にゲームとしての意味があり、ことなる結果と制約を生むことでリアリティが生まれる。固有の結果をともなわない選択の「自由」にどれほどの面白さがあるだろうか。

Age of Wonders 4 の種族選択の失敗とは、背景描写を盛り込みにくいゲームデザインでありながら種族とメカニクスを切り離してリアリティも失ったことだ。繰り返すが、問題の本質はリアリティの喪失であり、メカニクスとの繋がりがないことなため、ファンタジーの伝統に則るかどうかは関係ない。

そして、この種族選択の「自由」の陰にあるのはシステムの単純化であり、プレイヤーの快適さが最優先の開発方針だ。

選択の結果は制約となり、プレイヤーの気ままな「自由」を阻むがゆえに嫌われやすい

詳述は避けるが、AoW4 はほかの要素でもこの選択の結果としての制約をかぎりなく排除し、リアリティが薄く、作品全体としては優れてはいるもののどこか節操のなさと地に足のつかなさが漂っている。本作の評価はそれをどれほど重く受け止めるかで様変わりするだろう。


Miasma Chronicles | Download and Buy Today - Epic Games Store

Miasma Chronicles

ヴィジュアル表現が魅力

The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom がさまざまなバイラル動画を生みながら最大限の賛辞を浴びている。

僕ももちろんプレイしたが、実はこの作品と同時期にリリースされてそれ以上に気に入った作品がある。それが Miasma Chronicles だ。

先に断っておくと Miasma は良い部分と悪い部分、ひとによっては不快な部分がハッキリあるため、不特定多数のひとに勧められる作品ではない。ゲームの総合芸術としての「側面」を理解し、ポスト・アポカリプスの荒廃したアメリカに SF 的想像力が組みあわさった独特な世界観と暗鬱なヴィジュアル表現に一目惚れしたなら楽しめるはずだ。

容赦なく殺される NPC、無造作に積みあげられた死体の山、荒れ狂う謎エネルギー、ロボットから奴隷扱いされる痩せ衰えた人間たち。全年齢向けではない陰鬱な表現からしか得られない栄養が Miasma には満ちている。

Miasma の悪い部分とはまさしく「自由」の扱い方だ。

シネマティックな物語進行に XCOM ライクなターン制戦闘、マップ探索、RPG の成長要素を掛けあわせた本作にも「自由」はあるがその満足度は高くない。昔批評を書いた Wasteland シリーズを想起させる作風だからこそ僕の期待値が上がってしまっているのは否めないけども。

先に挙げた「自由」をもとに考えてみよう。

・移動の自由
・課題の自由
・解決手段の自由
・プレイヤーキャラクターの自由
・振舞いの自由
・成長の自由


これはディアブロ4ではない


成長の自由にときめく理由

本作はオープンフィールドではない。

メインクエストの進捗に応じて4つの地域を解放し、そのなかにある複数のステージを「自由」に行き来して攻略を進める。サブクエストが序盤に集中し、物語が進むほど少なくなるのは没入感を高めるためとはいえやや残念だが、課題選択と移動の「自由」がある程度確保されているので納得はできる。

ステージ内の探索も作り込みの深さと美しさがあいまって満足度は高い。僕のプレイした難易度ハードではこまかな戦闘物資の拾得が戦闘勝利に繋がるため報酬システムもきちんと機能している。

課題の解決手段は戦闘勝利しかなく、プレイヤーキャラクターの素性も振舞いもまったく「自由」でないためアイソメトリックの RPG としては(本作を RPG とするならば)不満が残る。が、タクティカルコンバットというコアシステムを考えると、真の問題は戦闘内の解決手段(戦術性)とそれを支える成長(ビルド)の「自由」だ。

まず、武器の種類と拡張が少ない。

アサルトライフル、スナイパーライフル、ショットガン、バウンサーの4種類だけで、それぞれに3つのティアとユニーク武器、さらにスコープと弾倉のふたつの MOD が付けられる。XCOM や Wasteland シリーズでは他にピストルや重火器や近接武器もあったことをおもうとやはり物足りない。MOD も基本性能を高めるだけで武器の特性を変えるほどワクワクするものには出会えなかった。

スキルツリーはキャラクター毎に設定された4つのツリーから好きなものを解放するタイプで、レベルキャップが25という制限のため半分程度しか解放できないのは「自由」に選択の意味をもたせていて評価できる。

しかし、キャラごとに戦闘時の役割がある程度決められているうえ、パーティー上限3人のうち固定枠がふたりなため構成自体に幅がない。主人公のエルヴィスはオールラウンダー、相棒のディグスがフランカー兼タンク、そして、残りの自由枠をクリティカル特化のジェイドとサポート、グレネーダーで奪いあう。

しかも、瞬間火力の高いジェイドで孤立した敵をサイレントキルする重要性と、サポートのロボットに対するスタン攻撃能力の強さから、戦闘前はジェイドで敵を狩り、集団戦ではサポートに切り替えるのが理想の動きとしてデザインされていることが容易にわかる。

そのため、見掛けよりも戦術上の「自由」がせまく、「これとこれを組み合わせたらどうなるんだろう?」という期待感とプランニングの面白さがない

相棒のディグスはアフリカンなノリの気の好いヤツで、始終ロボットジョークをとばす陽気さは本作の魅力のひとつだが、武器性能への依存度が高く、最終的には頼りになるものの中盤では彼を外せないことにフラストレーションが溜まる。


ノーガンズライフっぽい


成長要素の足し算と掛け算

ゲームの成長要素には足し算と掛け算がある。

Miasma ではレベルアップによる体力の自動上昇と武器のプログレッションによる火力の増加が足し算で、個々のキャラクターのビルドとパーティー構成が掛け算にあたる。もちろん、掛け算の方がよりプレイヤーの創意工夫が問われ、課題解決に大きなインパクトをあたえるためこの部分が成長要素の「花」といえるだろう。

本作の「自由」の問題とはこの掛け算の魅力に欠けることだ。

つまり、武器やスキルやパーティーメンバーの選択肢が薄く、そのひとつひとつにユニークさが感じられるほどの違いがないため、個々のビルドやパーティー構成を試行錯誤する面白さに欠ける。50ドルという価格帯としてはけっして満足できるボリュームではなく、この掛け算の弱さによる「花」のなさがリプレイ性を損なっているのも大きな痛手だ。

実際、Miasma が気に入ったからといってもう1周したいかときかれたら正直渋い顔になる。成長要素の「自由」の薄さから次のゲーム体験を容易に想像できる、あるいは想像の枠を越えないことが容易に想像できるのでモチベーションの置きどころがない

その意味で、Miasma Chronicles はそのゲーム性よりも世界観やヴィジュアル表現といった「側面」を高く評価できる作品だ。成長システムに「自由」がないのは奇しくも Zelda: TotK とよく似ている。


The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom | Nintendo Switch games

The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom

ティアキンはなぜ色褪せるか

Zelda: TotK はその世界的な称賛とはうらはらに奇妙なゲームだ。

プレイしているときは膨大な量のタスクと未開拓領域をまえに無心で遊び続けられるが、1度離れるとその魅力は急に色褪せて見え、ハイラルの地でふたたび作業を進めようとはおもえない。Switch 専売として、メインストリーム向けとして素晴らしい出来だが、そうであるがゆえの問題が根本にあるため称賛する気になれなかった。

率直にいうと、Zelda: TotK は操作感を楽しんだり、移動手段を工夫したり、パズルを好き勝手に解いたりするぶんには楽しめるが、個々の要素以上の面白さを要求するととたんに退屈な(終わりなき)単純作業になる

主な原因は3つだ。

・報酬システムの貧しさ
・戦闘課題の単純さ
・成長システムの退屈さ

この文章では、ゲームの「自由」の観点からこれらの問題を少し考えてみたい。

Age of Wonders 4 と Miasma Chronicles からはふたつのことを確認した。まず、「自由」のなかの選択がメカニクスとの繋がりで固有の結果を生み、制約となり、リアリティを強めること。そして、成長システムの掛け算の「自由」がプレイヤーに創意工夫を問い、モチベーションになることだ。本作の「自由」の分析にもこれらの洞察が役立つだろう。

先に断っておくと、僕自身はゼルダシリーズのファンではない。世界観、音楽、ヴィジュアル表現のスタイルが良いとも好ましいともおもえず、Breath of the Wild も未プレイのままだ。そのため、僕にとっての Miasma 、みんなにとってのゼルダのような作品の「側面」への好感がないことは明かしておく。

また、現時点でのプレイ時間は75で、メインストーリーの進捗は2つの神殿をクリア、地下・地上・上空の探索具合は以下のとおり。これも、批評の公平性を期すために明かしておこう。


初手、砂漠踏破のヒリヒリ感はよかった
上空探索は実質ゾナウ製造機解放か
地下探索も最初こそワクワクしたものの……


移動手段の自由と探索の旨み

Miasma とおなじように Zelda: TotK の「自由」を以下の分類から考えてみよう。

・移動の自由
・課題の自由
・解決手段の自由
・プレイヤーキャラクターの自由
・振舞いの自由
・成長の自由

本作の魅力は3層のオープンフィールドがシームレスに繋がり、ウルトラハンドのメカニクスと絡むことでさまざまなプレイ体験を生みだす移動の「自由」だ。各ダンジョンではロード画面をはさむとはいえ、Switch 専売なことを踏まえると、変態じみたというほかない開発力の高さがうかがえる。

もっとも、その移動の「自由」がどこまでゲームの面白さに繋がったかは疑問だ。

ハード性能の限界ゆえに(たとえば Miasma のような)歩いているだけで満足できるヴィジュアル表現の高さはなく、どの地域を歩いても、どの宝箱からもワクワクするものが得られないことから本作の探索行動に意味と楽しさを感じなかった

実際、宝箱からもらえて嬉しいものはなんだろう?

せいぜい、ケムリダケ、バクダン花、矢、ゾナニウムの結晶ぐらいか。しかし、いずれもファームできるため、嬉しいというよりは困らないに近く、気になるロケーションを探索し、宝箱を開けるインセンティブとしては機能しない。

防具もまた本作でゆいいつユニークな報酬だが、いずれも限定的なシチュエーションでのみ役立つものばかりで、お洒落やコスプレや収集物としての価値をのぞけばわざわざ探し集めるほどのものではないだろう。少なくともプレイ体験を変えるおもしろさも期待感も抱けなかった。

そのため、移動手段の「自由」は素晴らしいが、それによる移動と探索のおもしろさはハイラル王国に思い入れがあり、作品世界に没入し、純粋な移動時間の「手触り」を楽しめるひとにかぎられる。そもそも各地で採集できる素材も似たり寄ったりだ。

前作 Breath of the Wild からフィールドデザインに定評があるが、正直、探索のおもしろさが没入感に依存するところにゲームデザインとしての弱さがみえた。


ARPG でのコンパニオンの扱いは難しい


課題選択の自由とロールプレイ

課題選択の「自由」とその膨大な量もまた、本作の驚異的な移動の「自由」の実現から要請された大きな特徴だ。特に、メインクエストのアプローチの順番が(難易度に多少の差があるとはいえ)任意であり、なんならスキップしても破綻なく進める念の入れようは興味深い。

というのも、Zelda: TotK にはプレイヤーキャラクターの「自由」もリンクの振舞いにも「自由」がないため、ロールプレイの余地がそもそも薄いシネマティックな物語だからだ。

たとえば、プレイヤーが友好的 NPC を攻撃してもそこにゲーム上の意味はないし、彼ら彼女らと話しても意味のある会話の選択肢は出てこない。当然、そのコミュニケーションのなかで何かを選択し、それらが制約となり、固有の結果を生むロールプレイングの醍醐味はない。

本作の物語において意味のある振舞いとは、Elden Ring とおなじように NPC と会話するかしないか、クエストを受注し、攻略するかしないかだけ。

そのため、プレイ体験はさまざまでも、プレイヤーキャラクター自体はだれにとってもおなじ振舞いでおなじ結末をたどるリンクひとりだ。

本作のシナリオと演出はたしかに感動的かもしれないが、ゲームの物語としてどこまで評価できるかはかなり怪しい。物語本来の柔軟性の高さがプレイヤーの選択する「自由」と結果にではなく、プレイスタイルの違いで没入感が削がれないことにのみ奉仕しているからだ。

また、プレイヤーキャラクターがユニークになるにはこまかな物語との結び付きのほかに成長システムも重要だが、リンクの成長にも驚くほど「自由」がない。

ハートもがんばりもバッテリーもポーチの容量もただ増やすだけの足し算で、そこに単純作業の喜びはあっても、なにかを選択し、選び抜いたものを掛けあわせる創意工夫の魅力はないだろう。

総じて、Zelda: TotK は意味のある選択をさまざまなメカニクスから徹底的に排除している。それに気付けないとしたら何かに化かされているはずだ。


癖のあるキャラクターデザインは良い


成長の自由と戦闘デザイン

プレイヤーキャラクターの成長には装備のプログレッションも関わる。

武器と防具の強化が(だいたい)敵の素材ありきなため、本作の成長システムを考えるうえでは戦闘デザインの問題は避けてとおれない

Zelda: TotK の戦闘は、爽快感のある「手触り」だが、率直にいうとカンタンで面白味に欠ける。というのも、モブには CC(行動阻害)がかならず効き、より上位の敵にはあきらかな弱点があり、ライネルのようなごく一部の敵にのみパリィやジャスト回避からのラッシュ攻撃という正攻法が有効と、大部分の敵にその攻略法がわかりやすく用意されているからだ。そのため、ケムリ花と属性槍や属性盾があればモブ処理には困らず、あとは DPS の高い武器を用意し、上位の敵の弱点に気付ける(調べる)かどうかだけ。

実際、遥かなるフライトの末にキンググリオーグを発見したときこそテンションがあがったものの、その攻略法に気付き、討伐報酬を手にしたときは心底萎えてしまった。

奇妙な意見に聞こえるだろうが、本作の解決手段の「自由」はゲームの面白さに結び付いていない。

というのも、さまざまなメカニクスを利用した「魅せプ」で倒すことも、派手な巨大兵器をクラフトして一掃することも、モドレコを使ったトリッキーな動きで翻弄することもできるが、そうする実用的な理由もその選択がもたらす結果もこのゲームにはないからだ。

たしかに、解決手段の「自由」の幅広さに気付けたときは素直におもしろい。しかし、その戦闘が幾度も繰り返せば結局楽なやり方に落ち着き、発見のおどろきは色褪せる。それでも解決手段の「自由」を面白くするのは、さまざまなやり方を試みさせる課題の多様性と、お気に入りのやり方をスタイルとしてプレイヤーキャラクターに結び付ける排他的な成長システムだ。

たとえば、スキルツリーとはいわないまでも、リンクの行動や倒しかたで報酬が変わったり、特定のステータスが伸びたりしたらその「自由」も活きるだろう。

また、課題解決の「自由」といえば、多様でかつ膨大な量の祠のパズルも大きな魅力のひとつ。問題は、それらを解決したとて、得られるのはハート/がんばりを増やす祝福の光だけという報酬システムの貧しさがここでも頸を締めることだ。


性癖のあるキャラクターデザインは良い


ゲームの面白さへの要求レベル

こうしてみると Zelda: TotK はプレイヤーの「手触り」をかなり重視した作品だと気付かされる。

移動手段の豊富さや戦闘/パズルの解決手段の幅広さなど、プレイヤーがその場で試し、その場で反応を楽しめるプレイ体験はかなり斬新でユニークだ。メディアやユーザーからの称賛は作品の「側面」をのぞけばこの部分によるだろう。

しかし、繰り返される戦闘や長大になりがちな探索といったより全体的で長期的なプレイ体験を考えると、それぞれの「自由」がやり込み甲斐のあるシステムと結び付いていない。ひとつひとつの戦闘や探索や移動は楽しめても、何百回という宝箱、何千回という戦闘の面白さを成立させる仕組みがないのだ。成長システムの単純さと魅力のなさが端的にそれを表している。

おもうに、本作の開発方針の根底にはいかにカンタンでユニークなオープンフィールドのアクションゲームを作るかという野心がある。

カンタンという言葉に語弊があるならカジュアルと言い換えよう。いかに学習を要求せず、上達をもとめず、取り返しのつかない要素(リプレイ性)をなくし、細切れのみじかいプレイングでも没入させられるか。そういう思想が根本にあるなら僕の分析した「問題」は問題ではなくなる。ゲームにもとめる面白さの要求レベルがそもそもちがうからだ。

僕がそれでも「素晴らしい出来だ」と冒頭で評したのは、Switch 専売として、メインストリーム向けとして、他の追随を許さないほどカジュアルゲームとしての完成度がきわめて高いからだ。それとおなじ理由で、僕は本作を手放しに「面白い」といえず、ましてや「神ゲー」と評することもない。

ゲーム作品の敷居の低さはたしかに素晴らしい。幅広い客層、プレイヤー、プレイスタイルに対応する AAA 級ゲームとしては当然の条件だろう。が、プレイヤーへの要求レベルを下げることは、複雑なメカニクスの絡みあいを理解してはじめて楽しめる奥深さを削ぎ落とす。カジュアルさには良い面と悪い面があり、そのおもしろさは色褪せやすい。

Zelda: TotK を傑作とし、ゲーム史上最高の、と手放しに称賛するレビューの根底には、デジタルゲームはカンタンであれという欲望が隠れている

思想も好みもひとの自由だが、自身の根底にある魔物に化かされて視野も解像度もかぎられていては評価者として情けない。本作の手放しな称賛は、デジタルゲームの「自由」を皮相的にしかとらえたがらないプレイヤーとしての欲望によるだろう。

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