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デカ盛り系ゲームの落日 - 『Horizon Forbidden West』

名作の続編を作るのは難しいものだ。映画であれゲームであれアニメであれ、それは変わらない。前作の何が良く、何が悪かったのか。何がウケて、何がウケなかったのか。これらを分析した上で、何を残し、何を変えるかを判断しなくてはならないからだ。そんなこと、わざわざ言うまでもなく誰だって分かっている。しかし悲しいことに、ファンから「なんか違う」と否定される続編は枚挙に暇がない。

近年のゲームでいうと『The Last of Us Part 2』などはまさにそういった例で、ゲーム史に残ってもおかしくなさそうな賛否両論の大渦を巻き起こした。これはクリエイターとファンの感覚のズレ、さらにファン同士のズレが表面化した結果である。とはいえ、万人受けするものが真に良いものである必然性はなく、賛否両論であることがすなわち悪いわけでもない。ラスアス2を巡る数々の事件と議論は、色々な意味で貴重な事例だったと思う。

一方、今回紹介する『Horizon Forbidden West』は、ラスアス2とはまるで反対のゲームである。前作である『Horizon Zero Dawn』の良かった部分を伸ばして悪かった部分を改め、ひたすらブラッシュアップに努めるという、ある意味で非常に理想的な続編だ。少なくとも前作ファンを失望させることはありえないし、新規プレイヤーが十分に楽しめるだけの間口の広さもある。

そう、『Horizon Forbidden West』は高品質なゲームだ。だというのに、どうしたことだろう。俺がプレイしている最中に本当の意味で興奮することはほとんどなかった。何百人もの才能と何年もの歳月、何億という金をかけて作られたAAA級のゲームを遊んでいるにも関わらず、俺はこのゲームをひどく漫然と体験し、そしてエンディングを迎えてしまった。

かつて高評価だったゲームの要素を山盛りに詰め込んだこのゲームは予想通りに楽しく、しかしそれ故に退屈だったのだ。

吞み込まれる美しさ

嫌味ったらしく短所を挙げる前に、しっかり長所を述べておこう。『Horizon Forbidden West』は精魂込めて作られたゲームであり、数え切れないほどの長所がある。最も明白なのは、その素晴らしいグラフィックだ。PS4で発売された前作でも機種の限界を超えるような高精細なグラフィックが印象的だったが、今作も期待を裏切らないゴージャスなものとなっている。

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砂埃舞う荒野、夜道を照らす月光、錆と蔦に覆われた巨大ビル。本作を遊んでいると、世界の美しさに息を呑む瞬間は数え切れない。見慣れたはずのエリアでさえ、少し時間が変わるだけでまるで違う表情を見せてくれる。フォトモードだけで元を取れると感じられるほどに、このゲームはどこを切り取っても画になるのだ。

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『Forbidden West』では無機物だけではなく、人間のグラフィックも向上した。最先端のフェイシャルアニメーションは不気味の谷を軽々と乗り越え、親近感すら覚えるリアルな表情を生み出している。また、前作ではキャラクター同士の会話は単純なバストショットの繰り返しで退屈なことが多かったのだが、今作ではかなり改善されているのも嬉しかった。カメラワークの引き出しが増えたことに加え、キャラクターの身振り手振りや表情が段違いに豊かになったことで映像としての楽しさが大きく高まっているのだ。ちょっとしたサブクエでさえメインストーリーと変わらないクオリティが保たれており、制作陣の愛と熱量がひしひしと伝わってくる。

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豊かな戦闘システム

前作が高く評価された理由の一つとして、洋ゲーのオープンワールドとしては戦闘の楽しさが頭一つ抜けていたからというものが挙げられる。滑らかな操作感に加え、機械獣の装甲を剥がしたり弱点部位を切断したりといった戦術の奥深さはザコ敵との戦闘でさえ面白くしてくれていた。『Forbidden West』では、この優れた戦闘システムに更に磨きがかかっている。

前作で強すぎた属性や武器を抑えつつ、機械獣ごとの弱点属性をよりハッキリさせることで、状況に応じた使い分けが重要になったのは特に嬉しい調整だ。属性を使いこなすプレイヤーもいれば爆発で全てを吹き飛ばすプレイヤーもいるし、近接攻撃で果敢に攻め立てるプレイヤーもいるだろう。強力な戦術が豊富にあるためプレイスタイルが一つに偏らず自然と多様化するのは、ゲームとしてとても健全な状態だといえる。

戦闘の楽しさは間違いなく『Forbidden West』のセールスポイントだが、文句をつけたくなる部分が無いでもない。乱戦になったときの手を付けられないカオスはその最たるものだ。ボスクラスの強力な機械獣との一対一はとてつもなく面白いのだが、取り巻きのザコがそれに絡んできた途端に泥仕合が始まる。四方八方から絶え間なく飛んでくる攻撃を全て止められるわけもなく、ひたすら回避ボタンを連打するハメになるのだ。

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そもそも、このゲームは最下級のザコ敵でさえ硬い装甲に覆われており、きちんと弱点を突かなければ一撃で倒すことは難しい。一体ずつ丁寧に対処しなければならないために戦闘時間は否応なしに延びていき、心地よかったはずのバトルの緊張感は次第に疲労へと変わっていく。夜更けに戦いが始まり、終わったときには朝日が昇っていることも珍しくない。また、広範囲攻撃を持っている敵が多いため、どうあがいても攻撃を食らう理不尽な状況が多発するのも個人的にはフラストレーションだった。とはいえ、オープンワールドゲームにそこまで精密でフェアな戦闘を求めること自体が高望みし過ぎなのかもしれない。

人と人が紡ぐポストアポカリプス

メインストーリーの出来映えも、及第点をしっかりと超えている。

前作は孤独な異端者である主人公アーロイが生まれの謎を解き明かし、世界を救うことで己の存在を認めさせるという、一種の貴種流離譚だった。本作においても、機械獣が蔓延るポストアポカリプスの世界を崩壊から守るという大筋は変わらないものの、仲間の存在が大きくフィーチャーされている。一作目では重厚な世界観設定の理解のためプレイヤーに膨大なアーカイブを読ませなければならず、ストーリーテリングのぎこちなさが目立っていた。しかし今回はその呪縛から解き放たれ、美しく厳しい世界で生きる人々のドラマを魅せることに全力を傾けられている。

異なる部族と仲間になり、戦いと学習を通じて先入観の壁を壊していくというのはいかにも現代的な教訓を含んでいるが、そこに至るまでにしっかり紆余曲折があるため説教臭さは感じられない。仲間になったあとも民族性ジョークを交わしたり互いを認める発言をしたりといったシーンが挟まれることで、仲間とのやりとりからは現実的な希望が垣間見える。

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ネタバレになってしまうが、クエンという部族が登場するチャプターはかなり興味深かったのでここで紹介したい。クエン族はアーロイと同様に旧人類のアーカイブにアクセスしたことのある、数少ない存在である。しかし、貴重な古の知識を共有せず、逆に隠匿し曲解してしまったことで、クエンは真理から程遠い神秘主義に傾倒してしまった。アーロイは行きがかり上、クエン族の遠征隊と一緒に旧文明の遺跡を探検することになる。その遺跡とは、旧人類の破滅を導いた史上最悪の大罪人であるテッド・ファロが、己の生存のためだけに築いた地下シェルターだった。ファロは人類の救世主であるというクエンの(誤った理解に基づく)教義と、自分は彼の生まれ変わりであることを信じる遠征隊の長は、しかし、その真実を受け入れられず暴走し、あっけない最期を迎えてしまう。正しい知識を間違って解釈することによる悲劇は、ポスト・トゥルースの時代に生きる我々の鏡写しのようだ。

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錆びついたゲームデザイン

『Horizon Forbidden West』のグラフィック、戦闘、ストーリーがどれも一流のものであることは疑いない。だが、冒頭で述べたように、俺はこのゲームで興奮することはできなかった。本作のゲームデザインはなにもかも既視感があり、まるでここ10年近くの名作ゲームの不器用なパッチワークのようになってしまっているからだ。その上、色々なゲームから貪欲に取り入れたデザインやギミックがうまく連動していないため、ボリュームに見合った満足感をプレイヤーに与えられていない。こんなUBIゲー的な失敗を、プレイステーションのファーストタイトルで見たくはなかった。

まずは本作のマップを見てもらおう。

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多い。明らかにアイコンの数が多すぎる。フィルターで絞り込むことができるとはいえ、一体どのアイコンが何を指しているのか、何がプレイヤーにとって重要なのか初見ではまるで分からない。ちなみに、アイコンは基本的に白く、アクティビティをクリアすると緑になるのだが、セーブポイントのようにクリアという概念が存在しないアイコンはいつまで経っても緑にならない。色が視覚的な手がかりとして機能していないのだ。UIとしては明らかに失敗している部類だろう。

また、『Horizon』シリーズにおいてプレイ当初のマップは霧に包まれてうまく見えない。なので、トールネックと呼ばれる巨大な機械獣をハックすることで霧を晴らし、マップ内のアクティビティを把握することができる。霧が晴れたエリアにアイコンの大群がボコボコっと湧いてくるのだが、正直全然嬉しくない。むしろ、多すぎる情報に胸焼けしそうになる。現地に行かないと内容が分からない『?』アイコンに至っては、存在意義が全く理解できない。俺は苦労してトールネックによじ登り、マップの情報を解禁したんじゃなかったのか?

ランドマーク攻略→マップ情報開示という流れ自体が10年前のUBIゲーからまるで変わっていない。それに、そもそもこの流れは10年前から大して面白くなかったのだ。

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右の『!』の人に話すとサブイベが始まる

サブイベントについても、アイコンを追いかけて対象人物に話しかけることで開始という旧態依然としたやり方を踏襲してしまっている。もっと自然な導入があっても良さそうなものだ。こういうとき、俺は『レッド・デッド・リデンプション2』の人助けイベントを思い出す。それは、フィールドを放浪していると道端で困っている人に出会い、助けるかどうかを選ぶことができるというものだ。助けるとお礼を言われ、カルマ値がプラスされる。よくあるランダムイベントに聞こえるかもしれないが、この話には続きがある。別の人物が困っているのを見つけたのでまた助けたのだが、今度はなんと悪人で、馬を奪われてしまったのだ。その瞬間、俺はこのゲームがプレイヤーの心理を完全に見透かし、双方向性の物語を作り出していることへの感動で鳥肌が立った。こうしてみると、『Forbidden West』のクエスト周りのデザインは4年前の『RDR2』に遠く及んでいないことがよく分かる。

余談だが、馬泥棒は殺した。

思うに、クオリティさえ確保されていればサブ要素を詰め込んでも問題はない。だが、その詰め込み具合をこうまであからさまに可視化するのは悪手だった。おせっかいにも『ここにこうした要素があります』と先に伝えてしまうことでプレイヤーから主体性が奪われ、優先順位を付けられなくしてしまうからだ。その結果、プレイヤーの行動はアイコンを巡ってアクティビティを消化するだけの作業に単純化されてしまう。

しかも、いくつかのアクティビティは本当に面白くないアーカイブ集めに終始するので、先程述べた『クオリティさえ確保されていれば』という条件もクリアできていないのが実際のところである。Horizonの世界は息遣いを感じるほどに美しい。なのに、その他のあらゆる要素が『これはゲームだ』という前提を隠そうともせずに見せびらかすせいで、プレイヤーから没入感が取り上げられていく。これは辛い体験だ。

『Forbidden West』と同時期に発売された大傑作『エルデンリング』では、サブイベントを進めるための手がかりは会話や環境から得られる情報をもとに推測することでしか得られず、イベントの進捗状況を途中から確認することもできなかった。この仕様は不便という声も多かった一方で、プレイヤーをゲームの世界に引き込んで当事者意識を持たせるという点で非常にうまく機能していた。もしエルデンリングが上記のネタ動画のように”親切”な設計だったら、得られるゲーム体験はまるで異なっていただろう。

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『Forbidden West』からの新要素であるグライダーグラップリングも、アクションゲームとしては目新しいものではなく、しかも他の要素と上手く繋がっていないため浮いてしまっている。高いところからグライダーで降りるのは楽しいが、普通のジャンプでは届かない場所にグライダーで到達するようなギミックは驚くほど少ないのだ。明らかなオマージュ元である『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』と違って本作には上昇気流などもないので、グライダーはアトラクション以上のものとして機能していない。

グラップリングも、期待していたほどには活躍しない。高所に素早く登ることができ、戦闘時の移動や回避に応用できるという発想自体は悪くないだろう。だが、戦闘の多くはグラップリングできるポイントのない空間で起こるため、グラップリングを使った立ち回りを学ぶ導線が途切れている。そのくせ、敵の拠点を攻略するときには思い出したようにポイントが仕掛けられたりしているのだ。これは明らかに、グラップリングがギミックのためのギミックになってしまっている状態といえる。グラップリングの自由度をもっと上げて活用の機会を増やすか、それが出来ないならそもそも実装すべきではなかっただろう。

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グラップリングの見た目はカッコいい

足し算はもう終わりだ

良いゲームは”かけ算”になっていると聞いたことがある。ゲーム内の要素をかけ合わせ、全く別の可能性を生み出せるゲームは面白いということだ。先程名前を挙げた『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』はこうした例の最たるものとしてしばしば取り上げられる。『BotW』における”草に火が着き、火から気流が生まれ、気流に乗って高く飛ぶ”シーンは、まさにかけ算式の面白さが爆発している状態だ。ブレスオブザワイルドではこのかけ算の発想があらゆる場所で通じるため、プレイヤーはゲーム世界の可能性を信じ、楽しみ続けることができる。本当に稀有な作品だ。

『BotW』が”かけ算”なら、『エルデンリング』は”引き算”だ。自分たちの作るゲームでプレイヤーを楽しませ没入させている鍵は戦闘と探索の2つであるということをしっかり理解し、この2つから離れる要素は極力省いている。『エルデンリング』については既にレビューしているので詳しく述べないが、マップやUIの情報量を絞り、あからさまな誘導を避けてプレイヤーの自主性を尊重するスタイルは『Forbidden West』の対極にあるものだ。

一方、『Forbidden West』は、どこからどう見ても”足し算”のゲームだ。人的資源と資金と開発力をふんだんに使い、シナジーなど考慮せず思いつく限りの遊びを詰め込んだブロックバスター。確かに、6、7年前にはそういったデカ盛り系のオープンワールドゲームが大多数を占めていたように思える。UBIが毎年のようにアサシンクリードシリーズを出したせいでいい加減にウンザリされ始め、CDPRが『ウィッチャー3』で一世を風靡した時代だ。もしあの時に『Forbidden West』が発売されていたら、あるいは満場一致でゲームオブザイヤーを獲得していたかもしれない。

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だが、今は2022年だ。デカ盛りがウケる時代はもう終わった。プレイヤーはゲームを通じてもっと深い満足感や達成感を求めているし、子供騙しのようなサブ要素はすぐにそれと見抜かれてしまう。開発者からすると難儀な時代かもしれないが、AAA級のゲームにはさらなる革新と洗練が求められているのだ。

『Forbidden West』は強烈なクリフハンガーで終わった。マーベル映画よろしく、ビッグバジェットの次回作がきっと作られることだろう。その時は、もっと削ぎ落とし、ずっと攻めた作品にしてほしい。そうでないと、本当に旧文明のゲームになってしまうだろうから。

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