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璦憑姫と渦蛇辜 終章「海神(うみがみ)」①

 海の八十諸神やそもろかみ集いてはじめはそぞろに、やがてにぎにぎしく云い交わし合うは『竜宮』の行く末。
いくばくのひまもなく消えて無くなる海の都を如何せんと、あちらでもこちらでも嘆き怒り悲しみ、はては笑い出す者まで現れる百面相の神々だ。

「連れ戻せ」と一柱が宣った。

「連れ戻せ」と神々が追唱した。

海神わだつみのかみを連れ戻せ」「ふたつ合わせて連れ戻せ」「しかして島の結界は? 」

再び顔を突き合わせる神々に、隅の方で小さくなっていた磯螺いそらしわがれ声で云った。

「ひとつだけ方法はある」

八十諸神の目が一斉に磯螺を見た。

「『下海げかい』の女が男神の『波濤はとう』と体の一部を持っておる」

おおぉとどよめきが起こった。磯螺は続けた。

「島と体はひとつながりの骨肉、結界はくぐれる。しかして島を砕き愚かな海神を引きづり出すには『波濤』では些か力が足りぬが…………」

「『下海』の者といえども『竜宮』を再び盛り返すためなら、力を貸すこともやぶさかではない」

先ほどの神が磯螺に高らかに宣った。神々はまたそれに続いた。
磯螺は満足気に髭を擦り皺の奥の目を細めた。

ー“母なるものを殺し、父なるものと交わり、そのもの『真海しんかい』の最期の王とならん”、か…………。

誰もが知っているのに、いつ誰がどこで告げた予言なのかその出どころが分からぬまま今日に至る。

ー面妖な予言ではあるが、考えようによっては背理ともなりうる。

磯螺の見立てはこうである。
どのような神であろうと、そのような禁忌を犯すことはできない。よってもう『真海』に王は立たない。
八十諸神の計らい通りに、ふたつに分かれた海神の荒御魂は『竜宮』の礎に、和御魂はその守護者になる。

「回り道したものだが……、さあ、戻ってこい海神」

いざ海神を引き戻さんといきりたつ神々の群れの隅で、磯螺はこっそりとほくそ笑んだ。




 嵐の前触れに胸がざわつく。風に混じる潮の臭いが重くなる。雌漂木メヒルギの根の間で揺らぐ波が、いつもよりまったりと重いような気がする。

「こりゃあ大きいのが来るかあ」

タマヨリが云えば亜呼弥あこやが手を伸ばし、

「亜呼弥は嵐なんて怖くないですが………、不吉な予感がします」

とタマヨリの腕を掴んだ。
ふたりは猿梨やガマズミ、ムカゴなどを集めながら海岸伝いの森を歩いている最中だった。どれも貴重な食料である。
木の実を入れた棕櫚の籠を抱え直したタマヨリは、

「ははは、なんてことないさぁ」

と亜呼弥の頭を撫でたが、亜呼弥はぷうっと頬を膨らませた。

「子ども扱いはやめてほしいわ」

「だって子どもじゃろ? 」

「島の中では亜呼弥がいちばんのお姉さんですのよ」

不知火しらぬいがおるじゃろ」

「不知火は亜呼弥の後に生まれたんですの。それに子どもっぽくて、同い年だなんて信じられませんの」

「おれの兄ぃさも童と遊んでばかりで、まるで子どもじゃったなあ」

にこにことタマヨリは云った。亜呼弥は少しの間黙っていたが、もぞもぞとたずねた。

「ヒメのお兄さまは………どんな方でしたの? 」

「兄ぃさか……そうだなぁ」

タマヨリは目の前に海彦がいるように微笑んだ。

「やさしい兄ぃささ。漁師じゃった」

「お顔は? 」

「顔は日に焼けて黒かったぞ」

「そうでなくて」

「笑うとな、歯が欠けておって、そうじゃハトに少し似てるかな」

「ええー」

ちっとも素敵じゃありませんわと亜呼弥は云いかけて飲み込んだ。タマヨリが「世界一の兄ぃささ」と云ったからだ。

「兄ぃさがおれの魂を見つけてくれるから、おれはなにも怖いことがない。『中津海なかつうみ』に兄ぃさを迎えに行くまで、おれはただ出来ることを精いっぱいするよ」

「お兄さまは『中津海』にいらっしゃいますの? 」

「そうじゃ。海に生きる者は死ぬと『中津海』へ行くからな。………ああ、でもな、時々思うんだ。おれが皺くちゃで髪も真っ白の婆さになって、でもその側におんなじように皺くちゃになった兄ぃさがおったら良かったかもってな」

「そういうば」

と亜呼弥は云った。

「タマヨリヒメはずっとお姿が変わりませんね。お父さまの髪も随分白くなったのに、ヒメのはいつまでも真っ黒で」

艶めく長い髪に亜呼弥はうっとりと触れた。

「そうじゃな。変わらんなあ、おれは」

タマヨリの姿はこの島に着いた時からまるで変わっていなかった。つまり年をとっていないのだ。

「おれはきっと母上にどんどん似てくるのが怖いんじゃな。だから知らん間に体が止まってしまったようじゃ」

それを聞いて亜呼弥は胸の内がぎゅっとなるのがわかったが、努めて明るく云った。

「それではそのうち、亜呼弥の方がお姉さんになってしまいますわ」

「そうなるじゃろなぁ。亜呼弥がお姉さでもちーっとも困らんが、変わらんというのも人のことわりをそれたことなんじゃろなあ」

木漏れ日がタマヨリの顔の上に影と日向を作って鎮座している。

「……遠くへ行ってはだめですわ、ヒメ」

亜呼弥の心内に不意に不安が萌した。

「何云ってんだぁ。遠くになんて行くわけないさぁ。ここがおれの島だからな」

「亜呼弥は時々心配になりますの。海がタマヨリヒメを呼んでいるような気がして。いつかヒメは海に帰ってしまわれるのではないかと……。行かないでくださいね」

「行くもんか。おれは皆が仕合わせに暮らせるのを見届けるんじゃ。それをせんうちは何処にもいかんぞ」

亜呼弥は一安心したようにうなづいた。

「戻って皆に嵐が来ると知らせよう。おれはこのままぐるっと浜に出て、礁姐のとこへ知らせに行くから亜呼弥はろう達のところへ行ってくれ」

「心得ましたわ」

「急がんでええぞ。気をつけて行けー」

進みかけた亜呼弥は振り返って微笑むとタマヨリとは反対の道を、集落目指して戻っていった。

「なあワダツミ」

ひとりになるとタマヨリは島に向かって呼びかけた。

「おまえが来たのは嵐の日だったなぁ。また大きな嵐がくるぞ。……どうか皆を守ってくれ」



 タマヨリから嵐の知らせを受けた海賊たちはそれぞれに立ち回っていた。
ウズとカイは舟を持って行かれないように縛りつけ、ハトは礁玉を海辺の洞窟から集落へ連れて来た。
コトウの提案で皆で山の洞窟で夜を明かすこととなった。
子どもたちはそわそわし、いつも以上にはしゃぎ回っていた。
亜呼弥が蛇避けと虫避けの薬草を鞄に詰め込む横で、不知火は釣りの道具を集めていた。

「そんなもの持って行ってどうするのよ。山じゃ魚は釣れないでしょう」

と亜呼弥に云われれば、

「風で飛ばされてどっかいっちまうかも知れねえだろう。あーあ、それよりなんで同じとこで寝なきゃいけないんだよ」

とわざとらしく大声で云う。
それを真似た子どもらも、「おまえとは寝たくない」だの「隣で寝よう」だの散々に騒がしくなった。

「大丈夫ですよ。あの洞窟は入り口は狭いが奥が広いから、不知火と亜呼弥は反対側でうーーーんと離れて眠ればいいんですよ」

ろうが口を挟んだ。

「いや、別にそんなに遠くなくてもいいんだ……」

と不知火が云っても取り合わなかった。
人が寄り集まると宴のような様相になるのは海賊時代の名残か、洞窟の入り口で持ち寄った食べ物飲み物を囲んで賑やかなひとときとなった。
誰が持ち込んだのかまたたび酒が振る舞われ、ハトが得意の真似踊りを始めるとウズが太鼓を打ち鳴らし、飲めや歌えの騒ぎとなった。
タマヨリも便乗してお婆さの物真似をして場を沸かせた。
島にまとわりつく重苦しい風や雲も吹き飛ばしてしまいそうな、底なしの明るさが洞窟の周りに満ちた。

「タマヨリヒメは格別にお美しいのになんであんな変な顔で踊りますの? 」

亜呼弥が少しだけ不服そうに云った。夕暮れの浜を物言わず歩くタマヨリには目を見張るものがあったが、今の姿はかけ離れている。

「でも好きだろ? 」

不知火がお婆さの真似をするタマヨリを真似て、珍妙な表情を作って亜呼弥をのぞきこんだ。

「もちろん、好き………ぷぷぅ」

その顔に耐えきれず亜呼弥は吹き出した。

「いちばん上の姉ちゃんって感じだ」

「そうですわね」

「こうやって集まってるとさ、みんなが父ちゃんでみんなが母ちゃんって気がするな。あとはきょうだい」

「あら、コトウはお爺さまですわ」

「そりゃそうだなぁ」

「聞こえておるぞ」

とコトウがまたたび酒片手に不知火の横に座った。

「わしは浪と十も違わんぞ」

「うそだろう!」

心底驚き思わず立ち上がった不知火のそばにウズとハトとがやってきて、

「コトウは初めて会った時からジジィだったんだぜ」

と告げた。

「今のお前らより若かったわい! 」

憤慨してみせるコトウを、少し離れたところからタマヨリは笑って眺めていた。
それからふっと立ち上がって洞窟を後にした。

「タマ、どこへ行くんだよ」

草むらで用を足して戻るカイとすれ違った。

「ああ、海の様子を見に行くんじゃ」

「そうか、頼んだぜ」

そう云ってすれ違ったもののカイは虚をつかれたように立ち止まった。
いつものタマヨリだが瞳だけはどこまでも澄み切って、カイを見ているようでうんと遠くを見ているような瞳だった。それがわだかまるが、理由までは思い至らない。
頭をひねるカイの心内に幼かった頃のタマヨリが浮かんだ。
一味に来たばかりの頃の、心許なげにワダツミの姿を探していたタマヨリだ。
人懐っこい童だったがいつも何かを探しているような迷い子のような、娘になってもまだそういう危うさを拭いきれないようだったのが、今はどうだろう。
振り返って見る後姿は、カイのよく知る強い者達ー礁玉や亥去火のような迷いのない背中だった。カイはその場を動かず、時折り気まぐれにザーっと降ってはやむ雨を頬に受け続けた。

 白浜の砂はタマヨリの裸足の足の裏に緩く絡みついた。
風が梯梧デイゴの木の枝を重たげに揺らしている。その真横を通り過ぎ、波打ち際まで来ると、海の彼方をじっと見つめた。
何一つ見逃してはいけない。そんな気がした。
タマヨリの口元には我知らず笑みが浮かんでいた。
身の内にあるのは、いつまでも醒めやらぬ夢のみぎわにいるような穏やかなぬくみだった。
溢れるような歓喜ではなく、静かにタマヨリを満たした。満たしてなお満たそうとするそれは、軽やかに痛みにも反転した。
たどり着いたここでの暮らしも、楽しいほど失うのが恐ろしい。
長く、できるだけ長くと願うほどそこにいつか終わりがあることを知る。
思えばみなそうだった。
兄を思い返すたび感じる喜びと悲しみ。
それは表裏であって分け難い。そうやって真逆のものを背中合わせにして生きてきたのだ。ワダツミと己という似ても似つかぬ者同士、ひとつの魂を分けて生きたように。

タマヨリは何かを待っているように見えた。
何かはいつも海の向こうからやってくる。
呼ぶのはいつもタマヨリだ。

「夢の中へ参りゃんせ そりゃ ざぶんざぶん………」

と唄の一節を小さく呟いた。その時タマヨリ真っ黒な瞳には、海の彼方から迫りくる海嘯かいしょうが映っていた。



続く






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