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オイスター[短編]

 雪が降って、閉じ込められて、ほんとうの親族が続々ぞくぞくとやってくる。

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 汐風しおかぜに晒され色をなくした旧市街の 、煉瓦れんがや石段のそのひとつずつが気紛れに吐き出す、百年分の昔語りが、重なりあい交じり合いあるいはそっぽむきつつ互いの靴を踏みつけあって、その街の地図の上に流れ出る時、入り組んだ路地はさらに入り組み、石段の登り降りは行く者の心臓を破らんばかりに起伏し、過去は過去の領域を抜け出し、未来は無数の鏡台の乱反射のうちにひょっこりと姿を見せ、ゆるやかなカーブをかく坂を登りきった晴れならば港を一望できる高台にある外灯に、点燈夫が火を灯す黄昏たそがれ色の時刻、その古びた映画館は現れる。

あなたに送られるのは一通の招待状だ。

封蝋には今は亡き没落貴族の紋章が使われていることにあなたは気がつかないけれど、かまわず開いてその慇懃いんぎんな手紙を取り出すといい。まわりくどくて要領を得ない手紙に飽きたら、底の方に残った紙切れに気づくだろう。

『オイスター』

文字だけが刻まれた映画の切符。手にした時からそれはあなたのもの。

トランクに詰め込むのはいつもの曲芸道具じゃない。20年ぶりに会う妻子への土産だろう。もっとも妻に似合うのはもう真っ白な日傘じゃない。息子が喜ぶのはよく鳴る草笛でもない。でも月日がどんなに残酷かなんて考えてる暇はないんだよ。
革靴はクリームをたっぷりつけてピカピカにしなきゃ、髭もきれいにあたってね、よそ行きの外套がないのなのならお隣から借りればいい。香水はやめときな、歯だけはよく磨いて、それから道化の赤っ鼻はかくしたかい?

では、いってらっしゃい。


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無人の切符売り場は暗く、のぞき込んでも人の気配はない。ひさしの下に伸びた常緑蔦アイビーの無遠慮な茂りかたが、この建物を包む年月を語っている。上演中のシネマのポスターが張られていたが、硝子板が半分も雪に目隠しされて分からない。どんなに目を凝らしても焦点を結ぶことを拒んで、ただ白装束の人であるような何かがそこに描かれているのだ。

はたけば湿った雪が外套から落ちて、赤い天鵞絨ビロード敷きのロビーに染みになってすぐ消えた。
高い天井を支えるのは、よく焼けたカヌレのような色あいの柱。ロビーの壁は紫煙に煤けた石膏せっこうの 薔薇模様が、シーリングライトのぼんやりした灯りで凝固していた。こんな雪の日では客足も遠のくのか、ロビーにはあなたのほか誰もいない。あなたはおずおずと正面の重厚な扉を押した。

映画はもう始まっていた。客席もちらほら埋まっているところをみると、時間を間違えたのか。
ー仕方ないわこの雪だもの。歩くのだって一苦労。
あなたはそう思いながら、湿ったスカートの裾を気にして近くの空席に腰掛けた。 
斜め前の席の観客がちらりと振り返ったような気がしたが、そんなことはない。
だってここにいるのは、あなた以外ママが作った人形だから。

モノクロームの画面の中で頭髪の薄くなった男と、若いが陰気くさい男が街角で語りあっていた。

20年ぶりの再会を果たした彼等は親子らしい。曲芸師の父親は盲目の猿をつれている。深緑に山吹色の縁取りの洒落たチョッキを着せられた猿は、同じところをくるくる回っているが、時々犬に吠えられて慌てて手探りで男の足にしがみつく。その人間臭い仕草がどこか憐れだ。

彼等の口は油の足りない鎧戸のように開くと見せかけて閉じてしまい、ようやく開いても天気の話ばかりが延々と引き延ばされる。歳月を埋める決定的な言葉は最後まで出ないまま、息子から母親は家にこもりきりでいること、男が出奔した後に娘が産まれたことを知らされる。

「それは本当に俺の子かい?」

その映画の中で男が見せた表情らしい表情はそこだけだった。

あなたはもう十分に退屈しきって席を立った。足音を立てないようにゆっくりゆっくり歩いて、重い扉を開けた時、観客席に拍手があがった。

銀幕にはエンドロールの代わりの文字が映し出される。

『オイスター』

と。

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ひんやりと冷たいそれが物珍しくて、外に出たのがまずかった。あなたは賢いから近所だったら壁を伝って帰ることもできただろう。しかし雪は家々から顔を消し去ってしまった。手足に馴染んだあの石造りの街路も屋根も階段も、真っ白な仮面の下で息をひそめるのみ。例えあなたの眼が見えていようと、馴染みのものは見あたらない。
さっくりと冷たい堆積に囲まれて、あなたに為す術はないだろうね。

そんなチョッキ一枚ではあなたの身体が短く清潔な毛皮で覆われていても、寒さは骨の内側まで染みとおる。小さく鳴いても誰にも届かない。そこに娘が通りかかったのは幸いだった。
彼女はあなたに驚くが、一言二言話しかけると手を差し伸べた。それで雪の中で一夜を過ごすことをまのがれて娘の家に連れてこられたのだ。

娘の家は立派な正面ファサードを備えた呉服商だったが、店は既に人手に渡っており彼女と彼女の母と兄が寝起きするのは、かつて物置小屋として使っていた離れだった。
小屋の奥で母親は古布でせっせと人形をこしらえている。母親の背後の棚にはずらりと人形が無関心を装い並んでいた。永続の眠気にうべなう眼。力なき手足。居留守を使って地下室で飽食の宴をしているような、息を殺した静けさが人形達の影に生まれ人形の中に還っていく。

「なんだいその猿公は?」

分厚い瞼を大儀そうに押し上げて母親が聞いた。娘は自分を拭った布で榛色の毛を拭いてやりながら答えた。

「迷子になっていたの。どこかのお屋敷の猿かしら。雪がやんだら飼い主を探すわ」

「ついでに自分の仕事も探してくることだね。大叔父が死んでもうだれも用立ててくれる人がないからね。兄さんだってここ数日帰ってこない。何が映画で一山当てるだい。私には分かってるよ、上手くいきっこないって」

「だったら止めたらよかったのに」

娘はせかせかと台所に入って食料を確認する。湿気ったオートミールを山羊のミルクで煮込む間、閉ざられた場所特有の甘い眠気があなたを包んだ。

「食料庫はからっぽだろう。この雪じゃバザールも立たないだろうね。御用聞きに払う駄賃もないときてる。やだやだ、もうお終いだね、春までに老いたミイラができあがるよ」

母親の愚痴に答えるものはおらず、薪の燃え尽きようとする暖炉の煙突の中に煙といっしょに吸い込まれていった。そのあとに灰黒色の木片の奥で緋が小さくまたたいてみせた。


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今、外からそのサーカステントを見た者がいたら、太い喉からあつい空気の咆哮を放つ、それがひとつの巨大な生き物であると錯覚をしただろう。
内部の揺れはその外皮までも震わせて、背骨はしなり肩甲骨は翼となり万国期やら提灯やらをその躰にまとわせて、夜空へ向けて飛翔の開始を待つばかりだ。

重力からの解放。
空中ブランコはサーカスの花形。
ブランコに膝でぶら下がった男が跳んで―いや飛んできたと言った方が正確だろう、とにかく投げ出された女の両手を虚空で掴んだ時、歓声はサーカステントを揺るがせた。
拍手があがりあちこちで口笛が鳴らされる。梁の上で深々とお辞儀をしたブランコ乗りのペアが去ってもなお、熱気は最高潮に達したままだ。
さあ、お次は何だ。
貪欲な魚の目になった観客たちは瞬きを忘れてステージを見つめる。

赤っ鼻の曲芸師がひとり転がり出て来る。ひとしきりジャグリングを披露すれば観客は箸休めのように気の抜けた拍手を送った。
それから、舞台に娘が引っ張りあげられた。
観客席から、恐る恐るというようように彼女は舞台に上がっていく。しかしこれもショーの一環。仕込みなのだよ。

でもあなたが驚いたのはそんな有体な演出のためじゃない。その娘!人形だらけの納屋で母に代わってスープを煮詰めていた妹じゃないか。

「立ってるだけの簡単な仕事があるの」

そう言って妹が出ていった時、どうして引き留めて話をしなかったのだろう。
娘は目隠しされて、派手な戸板の前に立たされている。

曲芸師はトランクを開けて中身を見せる。ぎっしりと並んだ銀のナイフ。ご丁寧にその一本を手に刺す真似して盛大に痛がって見せる。
それからわざとらしく思案げな仕草で、娘に向けて狙いを定めた。曲芸師の肩から滑り降りた緑のチョッキの猿は、よちよち歩きで娘の足元にたどり着く。励ましているつもりだろうか、右の脚にびったりくっつき尻尾をからませている。

見ているあなたは気が気じゃない。
ああ、やめておくれ!
ジャグリングだってお粗末なもんだったじゃないか。もののはずみだって何だって娘にそれが擦りでもしたらどうするんだ。

ついに曲芸師がついにナイフを投げたその時、あなたは立ち上がってしまった。後ろの客が迷惑そうに裾を引っ張る。

ーあいつは知らないだろう!的にしてるのは自分の娘だ!

そう言いたいのにあなたの口はぱくぱくとするばかり。頭を抱えて座り込むと、頭上を熱を帯びた歓声と拍手が流れていった。

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盲目の猿は映画館のカーテンの影でずいぶん長いことじっとしていた。毛には埃が積もっていたが、ここに居ればあの男の声を聴けるのだ。もうこの街にはいない男。
映写室で技師の男がいそいそと、巻き戻したフィルムをもう一度映し出す。猿の白濁した眼に映るフィルムは永遠に白いまま。
銀幕にはサーカス。
タイトルは『オイスター』。

本日も満員御礼。サーカスでは花形の空中ブランコを抜きさって、今や目玉となったのは赤っ鼻のナイフ投げ。
男の手からナイフが離れるその瞬間、カレイドスコープの如く死の虚像が観客の脳裏に花開く。無数の観客よ。死はあなたから遠い。しかし目の前に事故が起きらないとは限らない。事故が!
あなたは懐の痛まない程度の対価で、命のやり取りの目撃者となれるのだ。ただひたすら受身のあなたと娘は同質でありながら、決定的に違う。それは分かりきっているね。
緊迫と罪悪感をその銀のナイフは貫いて、娘を避けて戸板に刺さったドスリという音で、刹那くびられた心音も再び動き出す。

「的の女と関係を持ったその次から失敗するんだ」

懐かしい男の声に猿は一声だけ鳴いた。無論、スクリーンの中の男から返事はない。

獣と化粧の匂いに満ちた楽屋の出口で、男は娘にそう言った。失敗したことはないの?と娘が聞いたから。

「1人目は太腿にブスリと、2人目は脇腹に、3人目は顔さ」

「4人目は?」

と娘が聞いた。

「そこで打ち止めだ」

「私とは関係を持たないの?」

「死にたいのかい?」

「違うわ。ジンクスを破りたくはない?」

「1人目はむしゃぶりつきたくなるような脚だった。2人目は撫で回したくなる腰つきだった。3人目は神々の秘蔵品みたいな目鼻だった。お前には、そんな所がひとつもない」

楽屋の鏡に映った姿を、娘は上から下まで見た。

何かがマズイ訳でもないのに何も好くない。笑うと目が細くなるのは死んだ祖母にそっくりだ。最期にはつるりと乾いて小さくなった祖母の皺の一本一本を自ら顔の上になぞれば、それはもう祖母の顔だ。今は目に見えなくても、血縁というものは躰の奥の病巣のようなもので時間とともに皮膚に横溢おういつする。

さて、映画館には続々と親族が集まっていた。

ちくちくちくちく、娘の母親が縫った人形達だ。
スクリーンには何が映ってるかなんて気にしやしない。
親戚同士のお決まりの話をお決まりの表情で繰り返す。ざわめきは天井まで満ちて、誰ひとりも劇場では口を閉じましょうとは言わない。部屋の中ではあれほど無言を貫いているのに。映写技師はひとりため息をつくが、彼も人形の1人でないとどうして分かる?

際だってやかましいのは子ども達で、駆け回り転がって笑ったかと思えば金切り声をあげて喧嘩を始める。老人達はあっちでもこっちでも死にかけているのに、誰も気にとめはしない。無秩序の奔流の中で、重い扉が開かれた。

雪の匂いが満ちてくる。
ゆっくりと閉じた扉の前に真っ白な娘。全身雪にまみれ、着ているもの全て真っ白になってそれが花嫁装束だ。
目隠しされて顔半分がわからないけど、頬がわずかに紅潮している。ねえ、外は寒かった?それとも?

娘の手をとり劇場のバージンロードをゆっくりと進むのは父親だ。
神父役を買って出た猿が銀幕を祭壇にして待ち構えている。

スクリーンの中で映画は続行中。サーカスのショーが始まる。

息を詰めて待つ列席者。祝福の拍手。この時ばかりは子どもたちも静かになって、綿埃と一緒に宙を舞っている

そして娘の目隠しがはらりと落ちる。
隣を進む父親は赤っ鼻の曲芸師。
猿が笑い出す。
娘の雪のウエディングドレスの胸元に赤色がにじむ。


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「的の女と関係を持ったその次から失敗するんだ」

と男は言った。

「それでこの子とそうなった、ということだな」

警察官は言った。男は力なく首をふる。

「いいえ。わたしは……」

「関係はしていたんです」

男に代わって息子が答えた。
とっ散らかった映画の撮影セットの中で、妹の心臓にはまだナイフが刺さったままだ。

「だって、そうでしょ。父親なんですから……」


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あなたはドレスをせっせと縫った。肩に綿をのせ、裾には雪の結晶の刺繍をいくつもいくつも重ねたとびきりのドレス。

あなたを囲む人形たちも特別におめかしさせた。たくさんのおじさんたくさんのおばさん。晴れ舞台は賑やかな方がいい。

まだ雪は降り続けている。

どこにも出られないなら、口は固く結んでおきなよ。

牡蠣のようにね。







誰もいなくなった映画館でフィルムが回り続ける。


ziziziziizziiziiiiiiiiiiiiiiiizziiiiiiiiiiii   

tu.  pu. tu.p      p   p  p  p   z     z      z     iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii

                         O ys ter

   z        z         z         z           Zzzziiiiiiiiiiiiiiii   zi           



cast

 曲芸師の男
息子

母親



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人形たち




『オイスター』
















 





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