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璦憑姫と渦蛇辜 13章「鯨と翁」①

 指先を小魚にくすぐられタマヨリはゆっくりと目を開いた。
夜が明けようとしていた。寝転がって見る空の一角は茜射す雲を浮かべていたが、半月を貼り付けた群青の空にはまだ星が名残惜しげにぽつりぽつりと瞬いていた。

 体を起こすと自分が寝ていた場所が、舟上でも陸でもないことに気がついた。一抱えもありそうな大きな流木の、全て削がれた幹の分かれ目に抱かれるようにして乗っかっていたのだ。

 潮に漂う流木と共にどこまで流れてきたのか、もうおかは見えない。
長い夢を見ていたようでしかし何の夢だったのか思い出せない。

「帰らねば………竜宮へ」

その言葉が自分の口から出たことに気づいたのは、しばらくしてからだった。

「おれはなんで、ここにおる?」

流木の上に立ち上がって穏やかな波の果てを見やった。ふいに胸に差し込むような痛みを感じタマヨリは思い出した。

「……凪女なぎめは死んだんだ」

母ーー乙姫の憎悪に澱む目も思い出され、急に両腕から力が捥ぎ取られたように感じられた。
崖から岩礁へ飛び降りて生きていることよりも、未だ悲しみも苦しみも消えていないことに呆然となった。

「ずっと眠っておられたらよかったんじゃ……」

水平線から顔をのぞかせた太陽が沖を光らせ、やがて黒碧の海面に光の道を生んだ。
その道に沿って、海の中から泡の輪が現れる。消えたと思うとまたその近くに現れる。泡の輪は幾つも連なり、その下に魚影がずいっと広がった。

「あ、鯨だ!」

光の道の中に悠々と巨体を浮かび上がらせた鯨は大きな息を吐いた。空気が震える。ひとつひとつの仕草はゆったりとしているがとにかく大きい。大きいものの一息は風を起こし、浮き沈みひとつで海のつらは揺れる。

タマヨリは揺れるに任せた流木の枝をしっかりと握った。
鯨はひと息つくように大きく潮を吐いてから喋った。そう喋ったのだ。
低い声だったが人の言葉だった。

「何がそれほどまでに苦しいのじゃ?」

と鯨は云った。

「……おれに聞いとるのか?」

「そうじゃ、おぬし/おぬしらに聞いておる」

鯨の声は不思議だった。ひとりで喋っているのに同時におぬしとおぬしらという語を発する。音の前に意味がくる。耳から頭の中に直に言いたいことを置いていかれるような語り方だった。

「苦しいさ。おれがおると人に禍いが起こる」

「ほう」

と鯨は相槌を打つと、その巨躯はみるみる縮んだ。タマヨリが驚いている間に鯨の姿は波に溶けてしまった。
代わりに流木の舳先にちょこんと小さな人が座っていた。
逆光に縁取られた姿は子どもよりも小さく、両の掌で掬ってしまえそうなほどの大きさだった。

「それはおぬし/おぬしらが、人の世にいつまでおるからじゃな」

人影は言った。鯨の声と違って甲高くも擦れがちな声の持ち主は、顔中を皺に覆われた白髪の翁だった。

「お爺さん誰じゃ?」
「わしか?」

翁は髭を撫ぜた。その手の甲には染みのように貝が張り付いている。

「うううむ、わしが誰かと問われればわしには磯螺いそらの名があるが、わしが何かと問われれば、海の最も大きなものから最も小さなものにまでに宿る海の命じゃ」

「わからん」

「つまりわしは海そのもの。あまねく海の魂の仮り宿り。『真海しんかい』にあっては神の格を授かりしもの」

「磯螺………神さまなの?おれ神さまに初めて会ったよ」

「ほぉっほぉっほぉっほ」

と磯螺は笑った。

「竜宮の王はいとおもしろきことを云う」

「面白いかなぁ……、だっておれは人だ……」

と云いかけてタマヨリは黙った。人ではないのだろう、もう分かったことだが陸に生きる者とは出自が違うのだ。
タマヨリの顔が陰るのを見て、磯螺は告げた。

「竜宮は良いぞ。帰ってこい」

「磯螺は竜宮から来たの?」

「竜宮ではないが竜宮にもわしは在る」

「神さまの云うことはいまいち分からんが、じゃあ、竜宮の行き方も知ってる?」

「無論じゃ」

「じゃあ!じゃあワダツミを連れて行ってあげて。海境うなさかを開いて、そしてあの人を故郷へ帰してあげて」

「それはできん」

「なんで?ワダツミはずっとずっと、竜宮のことだけを想っている。あいつだけでいいんだ、帰してほしいんじゃ」

「できんのじゃなあ」

「どうして?」

「お主の片割れは、『竜宮』じゃからな」

「神さますまん、おれに分かるよう話してくれんか」

「ふふううむ」

磯螺は皺だらけの頬を掻くとゆっくりと語り出した。

「おぬし/おぬしらは二つで一つ。もとよりひと柱の神であった。
竜宮は千年に一度生まれ変わる。海神は何度も生まれ何度も死ぬ。いやそれはかりそめの生とかりそめの死でしかない。
しかし何度もこの世と常世を生き来するうち、その力を死者の国へと吸われていった。小石をひとつ置いてくるように、力の根源を陰府に置き去り、海神は千年を幾つも重ねるうちにもとの力を失っていった。徐々に徐々にとな。
衰えるは神の御座所おましどころ、竜宮の威光。新たに生まれる海神は強きことが望まれた。
しかし生まれたのは禍々しいまでの荒御魂あらみたま
竜宮に住まう者はその体を割いた。二つに割った。
なぜじゃ?
荒御魂を竜宮の礎とするために、そこから分かれた和御魂にぎみたまを竜宮の守護者とするために。
分かるかのう? 割きて生まれし和御魂よ。海の死者を統べるもの、陰府の力の器となりしもの。
強き力は和御魂に、美しき姿は荒御魂に。その調和こそが神々の望む竜宮を出現させる。
『真海』『下海』『中津海』、果ては人の世までも竜宮の威光で覆い尽くす。それが新たな竜宮の姿なのじゃ」

「竜宮の力が弱くなっているとは、母上も云っていた。山にいたお爺さも同じようなことを云っていた。そういう仕組みのなのじゃな。でもそれは、詰まるところワダツミもおれも竜宮へ行くということとなにが違う?
いや、聞きてぇことはたくさんあるぞ。おれがでかい魚なのは、あれか?あれじゃな、竜宮を守れというわけじゃな。じゃがワダツミは?」

「今在りし竜宮は消える。現に竜宮は輪郭を失い海へ溶け出しておるのじゃ。やがて消える前に、あれの身体は『竜宮』となる。あれが竜宮となればおぬしは守護となる。おぬし/おぬしらは常にひとつ」

「磯螺はワダツミを知らないの?」

タマヨリの問いに磯螺の眉が寄った。

「ワダツミを『竜宮』にしてしまったらワダツミはどこへ行くの?ワダツミは乱暴だけど、そりゃ恐ろしいところもあるけれど……。ワダツミは、ワダツミだよ。ワダツミのなりたいものは竜宮の王なんだ」

「ほぉっほぉっほぉっほぉおおおほほんごほほ」

磯螺は今度は甲高く笑った。笑い過ぎて声は最後は嗄れた咳に変わった。

「それこそが、竜宮の王のおぬし/おまえらの役割じゃ」

「……分からんが、それでワダツミはしあわせになれるのか?」

「竜宮とはもとより悲しみや怖れのない世界。人間のような移ろう心は無用。悠久の命、美しき永久の楽土。そこにしあわせがないなら、いったいどこにそのようなものがあるのじゃ?」

タマヨリは考えた。考え巡らせたが分かることと分からないことが二つながらに渦巻いて、ますます分からなくなった。
しかし、ひとつこれだけは分かるものがあった。

ー故郷に泣きてぇほど帰りたい気持ちはよく分かる。

「どうすれば、おれもワダツミも竜宮へ行けるの?」

「ふうううむ。いよいよ戻ると云うのなら、その力を示して見せることじゃな」

「……それはおれがでかい魚になるということ?鱗の体になれって」

「なにもそうとは云っておらぬ」

「おれは『いさら』を奮えば鱗が生える。どんどんどんどん魚になっていく。どうにもそれが嫌なのじゃ」

「ほほう」

「あんな化け物じみた形になったら、あにぃさに会った時おれがタマじゃと分からんじゃろ」

「兄となぁ」

「兄ぃさの魂は『中津海』におる。いつか会う時が来る」

磯螺はしばらく考える素振りを見せた。

「『いさら』を越えた力を奮うから跳ね返って、体がそれを受け止めているのじゃ。『いさら』に収まるだけの力を使えば良いのじゃ。それだけじゃ」

「そうは云ってもその加減が分からんのじゃ」

「おぬし/おぬしらはどうにも人の世に馴染みすぎておるのぉ。それでは竜宮の王は務まらん」

「おれはまあ、こんなんじゃがな。ワダツミは賢いぞ」

「ともかくじゃ。おぬし/おぬしらの力をあまねく人々に知らしめてみせよ。人の世は今、大きく変わろうとしている。それを力で抑えるも知恵を与えるも、神のわざを人に示しすのじゃ。そうすれば、おぬし/おぬしらに海境を開こう」

自らの弁に満足したように磯螺はこくりこくりとうなづいた。
タマの眉根はぎゅーっと寄った。

「人に知らしめるって………、磯螺、どうやったら知らしめたことになるんじゃ」

「では、大きな諍いを止めて見せよ」

「大きな諍いね」

「そうじゃ。竜宮の守護たるもの、人ごときの諍いを治められずには務まるまい」

「おれには荷が重い」

「ほっほぉっほぉっほぉっほぉ」

笑い事ではないのになぁと呟いてタマヨリは茫漠とした海を眺めた。登ったばかりの日はすでに海の表を温めはじめていた。




続く


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