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ダ・ヴィンチ子宮全摘出手術6 手術終わりの目覚め

ダ・ヴィンチという手術支援ロボットを使って、子宮全摘出手術を受ける。
34歳の5月半ばのこと。

麻酔からの目覚め

私は職場のいつもの自席で、電話をかけている。
おそらく、取引のある業者さんとの連絡だ。
相手から見えもしないのに、受話器を持ちながら頭をぺこぺこ下げている。
そんな自分の様子を、2mほど離れた斜め後ろから眺めていた。
そんな夢を、麻酔中に見た。
手術中なのに仕事の夢を見ている、と自分でも妙に冷静に思った。
麻酔中にまさか明晰夢を見るなんて。

「終わりましたよー」
ゆっくりと目を開けると、天井の照明が眩しかった。
何人もの看護師さんが私を囲んで見下ろしている。
「練りものさん。無事に終わりましたからね」
主治医の声だ。
うまく目が開けられない。
「あ、りがとうございました」
びっくりするほど声が出ない。
聞こえたかどうかわからないほど声がガスガスだった。
喉に痛みはないが、イガイガとした不快感がある。
口の中がとにかく乾いている。
ああ、手術、終わって私はまたこの世に戻ってこられたんだ。
そう自覚すると、すぐに寒気を感じて全身が震え始めた
何でこんなに寒いのかよ、手術の後という名の非常事態。
自分では制御できない寒気と震え。
今度は、下腹部の重くだるい痛みに気づいた。
生理痛のひどいときような鈍く強い痛み。
しかし、生理痛であれば強い波と弱い波が交互にやってくるものだが、今回の場合はずっと強いまま一定。
おまけに、何か熱いものが絶えず外に流れ出ているような感覚。
カールハインツ・シュトックハウゼンの何だかの曲で出てくる、無限下降グリッサンドのような、床屋のサインポールのような、はじまりも終わりもない延々と流れ続けているような、感覚。
ずっと出血しているような感じがする…
思わず口に出してしまったが、自分でも何言ってんだと思った。
「切って縫ったからかもね〜」
主治医の声だろうか。
術後の譫言と片付けられると思ったが、答えてもらえて嬉しかった。
またすぐ気を失ったのか、ひとまず記憶があるのはここまで。

病室に移る

いつの間にか、天井は見覚えのある病室だった。
寝ている間に戻ってきたらしい。
ベッドの周りで看護師さんたちがあれこれと作業をしている。
右の上腕に血圧計が巻かれる。
これが15分おきに膨らんで血圧を自動的に測る。
人差し指にはまだパルスオキシメーター。
左のほうでは、点滴のスピードを見ているようだった。
体温計を差し出され、腋の下に挟む。
相変わらず寒く、ガタガタと震えては呻きながら大きな息を吐いた。
そういえば私、マスクをしていない。
腐海の底に落ちたナウシカのようなこと思いながらも、今はどうすることもできない。
「寒いですか?」
「はい」
「お熱、いま38℃あって震えてるので、電気毛布かけますね」
なされるがままに包まれていった。
「アイスノン、持ってきますね」
看護師さんが離れた途端、またさっきの下腹部の鈍痛に気づいてしまった。
カチカチのアイスノンが頭の下に敷かれる。
固くて頭の位置が落ち着かないが、すぐに冷気を感じて気持ちが良かった。
痛みが耐えがたく身体を右に左に捩る。
そうか、今回は脊椎麻酔じゃないから下半身が動かせるんだ。
尋常じゃなく重たい生理痛、としか形容できない。
子宮を取ったはずなのに、子宮があるかのように痛い。
これは、幻肢痛なのか?
「痛いですか?」
「下腹部が、かなり」
「痛み止めが2種類あって、ゆっくり長く効く点滴と、筋肉注射とがあるんですが、どっちがいいですか?」
「後者でお願いします…」
カスカスの声で答える。
少しでも早く楽になりたい。
口の中で血の味が広がっていることにも気づいた。
ほどなくして看護師さんが2人やってきて、病衣をめくって左腕の肩を出すと注射された。
そのときの痛みは覚えていない。
ほんとうに痛くなかったのかもしれないし、お腹が痛すぎて気づかなかったのかもしれない。
退院してからレセプトを見ると、ソセゴンという鎮痛剤だったようだ。
注射してもらった安心感からか、下腹部の重い痛みが和らいでいくように感じる。
震えも少しずつおさまり、いつの間にか眠ってしまった。

ぼんやりと、うつらうつらと、寝ては覚めてを繰り返す。
ベッド回りに引かれたカーテンの向こう、窓の外はまだ明るそうで、17時くらいだろうか。
布団をぎっちり着ていたので暑さを感じ始めた。
寒気と震えは消えていたし、下腹部の痛みも感じない。
さっきの鎮痛の注射がこんなに早く効いたのだろうか。
気がつけば顔じゅう、身体じゅうにびっちょりと汗をかいていた。
ちょうど看護師さんが様子を見に来た。
「暑そうなので、電気毛布は外しますね」
「あの、手術終わったって、家族への連絡は…」
「あ、こちらでしておきますよ」
「すみません、お願いします…」
手術当日に家族は付き添いできないことになっていた。
代わりに、病院から連絡があれば30分以内に駆け付けられる場所で待機するように、とのことだった。
手術終了後の連絡も、本人が元気であれば本人から、難しければ病院スタッフから電話、と入院前に決めてあった。
だるくて、とても連絡できるような状態ではなかった。
普段あんなに肌身離さないスマホすら、見たいという気にならない。
申し訳ないが看護師さんにお願いした。

下腹部の痛みは、あの注射のおかげか、嘘のようになくなった。
お腹の痛みがおさまり、身辺の色んなことがわかってきた。
膀胱留置カテーテルが入っているようで、管が布団の外までつながっている。
へその水平ラインに手術で切った創があるはずだが、指で触ってみてもぼよんぼよんとした感覚しかない。
入院日に麻酔医の先生が言っていた、神経ブロックというのがこのあたりに打たれているのだろう。
それとも、背中に硬膜外麻酔の管が入っているのか?
そんな説明は事前になかったから、多分ないだろう。
今は痛くないけれど、これが切れたらどんな痛みが待っているのか。
痛みが出てくるのが怖くて、このまま時間が進んで欲しくない思いもある。
唇を閉じたときの合わせ目がぴったりと皮でつながりそうなくらい、ねりねりの発生がすごい。
通じますか、ねりねり?
そういえば、全身麻酔のときに人工呼吸の挿管をするとき、とんでもなく凶暴な鎌みたいなルックスのものを喉に差し込むらしいので、興味のあるかたは「喉頭鏡」でぜひ検索を。
あんなもん入れられたらそりゃ喉もガスガスになりますわな。
胸には心電図のセンサーが張り付いていた。
そのコードが一瞬、体内のドレーンかと思ってギクッとしたが、位置的に違いそうだとわかる。

「麻酔から覚めたら、頭痛とか吐き気に苦しむよ」と入院前に周囲の複数の人から聞かされていた。
しかし、そのような感じは一切なく、だるい以外は通常どおりだった。
幸いなことに、私はそういう体質に恵まれていたのかもしれない。
心配事はとりあえずひとつクリアできた。
今思えば、このときが一番痛みのない幸福な時間だった。
これから、長い夜が始まる。


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