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「本当のわたし」って?本質派と統合派のすれ違い


※この毎日投稿は、Stand.fmの音声投稿をふりかえりながら、補足や一歩踏み込んだ内容を書いています。

聞き直して、いきなり反省点がモロ見えする投稿だった。

「本当」という言葉で説明していたものが、途中から「本物」にすり替わっている。

同じ意味で使っていたのに、どこかの文章で「本当」より「本物」の方が、語感がしっくりきたのだろうか。

文字だと起きにくいけど、語りだスルッと間違えてしまう。

いつもより、話の構造を意識しながら話したつもりでいたら、今度は表面への意識が疎かになってしまった。

自転車の乗り方を練習しているみたいだ。

漕ぐのに必死で、ハンドルがぐらぐらしたり、バランスを取るのに必死で、漕ぎが甘くなる。

思考の協調運動は、頭の中が目に見えない分、どこが弱いのか特定するのが難しいし、特定の注意を強化するのに何をすればいいのかも曖昧だ。

今日は、ふたつの「本当の」が意味するところの違いがテーマだった。

クリアにわかっているつもりが、語ってみると全然洗練されていないことがわかる。

でも、話終わると、どことなく整理がついてきて、今なら語りよりクリアにまとめられそうだ。

要するに、

前者は本質志向の玉ねぎ型。後者は統合志向の宇宙型。

玉ねぎには核はないし、宇宙には果てがない。

だからどちらも、その希求している「本当の姿」に「至る」ことはない。

その過程で新しい捉え方が現れた瞬間に、「本当らしさ」を、「前の認識との差分」に感じるのだ。

あなたは、「本当の姿」と言われたとき、どちらをイメージするだろうか。

どちらも、存在を理解するのに大切な視点だが、個人的には前者の方が、「さらなる本当の姿」がどこまでも今の認知に可能性として内在していることに気づきにくいからか、

「本当の自分をみつけよう」
「本当の自分を知った」
「これこそが本当の姿だ」
「君はまだ、本当の彼女を知らない」

撒き餌ワードとして市場に拡散されすぎているようにも感じる。

これらの言葉には、まだ隠された素晴らしい、あるいは恐ろしいドラマチックな未来を想像させ、感情を激しく掻き立てる。

それを知ることは、過去よりも望ましい状態になるということであり、言い換えれば、過去を否定することだ。

「本当の自分に生まれ変わる」
という言葉で、過去の自分と縁を切るようなニュアンスもある。

一方後者は、知れば知るほどに、果てがなく、知覚として捉えられることのできる領域が、相対的にどんどん小さく感じられるようになるので、「本当らしさ」を捉えたと感じる瞬間のカタルシスが、前者よりも鈍い

「彼あっての自分だった」
「あの環境が、僕を育ててくれたのだ」
「あの事件なしに、今のわたしは存在しなかった」
「今の自分は、テクノロジーに生かされていると言っていい」

前者の認知が開かれる瞬間の目線が未来に向かっているなら、後者は過去に向かっていると言えるだろう。

過去の認知が変わることで、今の認知が変わるという順序だ。

過去の点が線で繋がり、伏線が回収される、あるいはコネクティングドッツが完成する瞬間かもしれない。

「なにひとつ無駄な存在なんて、ないんだ」

近づくほどに首を垂れる、ある種の悟りに向かう風情もある。

前者は能動的に過去の自分を否定し、後者は受動的に現在の自分を過去によって否定させる…と言うこともできそうだ。

もしかしたらこれも、西洋的態度と、東洋的態度に代表される、陰陽の法則のバリエーションのひとつなのかもしれない。

・・・

どちらの方向性も、ものごとの理解には不可欠なものだ。

ただ、多くの場合「利き手」のような認知の偏りがあるように思う。

コミュニケーションが噛み合わないとき、分かり合えないと感じたとき、こういう2極の方向性のある言葉の両方の現れ方を知っておくことは、無益な対立的コミュニケーションをしないためにも、大事だと思っている。

それにしても、この手の話ってもっとしたいんだけど、シンプルに話せるつもりが、やってみると意外と複雑で、受取手ファーストな表現になかなかまとめきれない。

こういう話が、サクッとできるようになりたいなあ。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。