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AIが「市民」を作る日

昨日は選挙だった。

ニュースアプリが選挙ニュースを度々通知してくる一方で、わたしのSNSは、その日が選挙だったことがほとんど分からないくらいのいつも通りさ。

noteのトップページにも、ひとつも選挙という言葉が並んだ投稿がない。

どれだけ普段、自分が選挙に関心がない場所にいるかが証明されたような気分である。

選挙へは、1週間休んだうちに草原化した圃場の整理を終えてから夕方に向かった。

一応できる範囲で情報を調べて投票したけれど、抽象的なワードが並ぶ謳い文句のなかから自分が得をしそうな案にすぐ目線がいってしまう自分の現金さが発見されるばかりで、何かを掴んで投票できたという実感はあまりない。

仕事に、家庭に、プライベートに、複数の役割を分担して社会に貢献しながらも、自分の人生を充実させ、自律した生活を送る。

男性も女性も、「あるべき姿」として日々とりくんでいる日常のはたらきは、技術革新でひとつひとつの作業が簡略できるようになった分、種類はどんどん増えていて、

その技術革新を気軽に買い、並行管理する力がある状態にあるならともかく、そうでなければ日常のやりくりでいっぱいいっぱいなのが、現代人の様相であると、自分自身の姿を見てひしひしと感じている。

選挙という仕組みが初めて歴史上に現れたのは、古代ギリシャ時代。最初に参加できたのは、一定以上の土地を持った裕福な男性市民だったという。

ここでいう市民という言葉は、単なる一般人という意味合いとは異なり、上記要件他、兵役など特定の条件を満たした一部の人を指す言葉だった。

そういう概念とセットで選挙という仕組みがスタートしたことを振り返ると、候補者や議論すべき議題について調べたり、意見交換したりする知識も余裕もない一般人である自分の投票は、「清き一票」とはとても思えず、投票した側からモヤモヤする自分がいる。

最近はAIが仕事を奪うとか、だからこれからは遊びを磨いて評価を得るだとか、趣味の仲間との繋がりを大事にしようって、声をよく聞く。

これもわたしのSNSの情報の偏りの現れなのかもしれないけど、個人的にはAIが仕事をやってくれることでやっとわたしたちは「市民」になれる、と期待していて、

それによって選挙や政治について考える時間も含め、短期での物理的な結果が計測できないために放置されてきた問題の数々に取り組めるようになるとわくわくしている。

自分が食べることに精一杯で放置されていた地域環境の整備や、費用対効率の悪さから放置されてきた問題、たとえばケアを必要とする人たちへの人間的な支援に人的リソースを注げるようなるのだ。

わたしたちはやっと、明日の飯の心配をせずに、藪を整備し、自分達の生活を維持しながら、今の価値あるものをより良くし、次世代に繋いでいくために何が必要かを、ゆっくり語り合うことができるようになるわけだ。

ただ、これはAIが仕事を奪ってくれた後、わたしたち自身が「次の競争(他者との比較の基準)」を探さないことが条件だ。

そういう意味で、来るシンギュラリティの先に備えてできることがあるとすれば、競争不要の人生の満たし方を社会に提示したり、体現していくことなんじゃないかって、ちょっと感じている。



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。