深すぎる!!映画「すみっコぐらし」を一滴残らず語り尽くす(随時書き足し更新)
\\\\ ☆7/8 10個目まで更新しました☆ /////
※今後の書き足しのため、タイトル一部削除修正しました。
長らく書けずにいましたが、ぼちぼちnoteのすみっコで愛を叫ばせていただきます…!!
1ファンの脳内で展開しているフィクションファンタジーとしてお楽しみください。
公開時の導入部
お久しぶりです。
すみっこの秋の新作映画がAmazonプライムで配信が始まりましたね!これ、映画館で見てから、すみっコぐらしについて語りたくて語りたくてたまりませんでした。
すみっコぐらしって、どのくらい意図的なのかは分からないのですが、掘れば掘るほどおもしろいんですよね。
で、脳内では散々掘りまくって一人で楽しんだのですが、書くとなると、あまりにも長くなりそうで手がつけられず(泣)
なんど書きかけて放置を繰り返したことか・・・・。
だが、すみっコファンとして、書かずには死ねない…!!!!
というわけで、作戦変更。最初になんか後に引けなそうなタイトルと小見出しだけぶちあげて、徐々に書き足すスタイルで進めてみようと思います。
突然ですが、今年のわたしの目標は先延ばし魔の脱却、計画を守ること。
2022年も早3ヶ月、手段を選ばず、実行あるのみです…!
書き足し更新したら、その都度つぶやきでおしらせします。
同じすみっコファンの方、読んでみたいと興味を持ってくださった方、「スキ」&フォローで応援してもらえたらうれしいです!!
(コメントも大歓迎です…!!)
人気キャラクターに反映される時代の空気 (6/9公開)
時代が変われば、文化が変わる。
文化が変わればかわいさも変わる。
わたしが子どもの頃、いつもそばにいたキャラクター。
それは、キティちゃんでした。
口がないことで、女性蔑視だと解釈されたり、日本のKAWAII文化のシンボル的に扱われたり、ヤンキー文化に愛されたり、現代アートやらハイブランドとも仲良しこよし。ご当地コラボでお土産としても全国制覇。
どこに行ってもセンター張れる、変幻自在の主役っぷり。
わたし個人にとっても例外ではなく、いつも持ち歩いていたら最後、ボットントイレに落とすという、人生最初のショックなできごととして、揺るがないポジションを占めております。
キティちゃんがピューロランドでファン一人一人を抱擁するその姿はまさに女神。アジアのキャラクター文化の頂点に君臨する唯一神のようにも見えたのでした。
キャラクターの世界には、キティちゃんだけでなく、よりガーリーなキャラ、キモかわ系、海外絵本系、アメコミ系など、名づけるまでもなく、ありとあらゆる系統のキャラが独自の領土を統治しています。
しかし、どれだけ多くのキャラが生まれようと、西はネズミ(オス)、東はネコ(メス)が統べるキャラクター世界は、揺るぎないように見えました。
バブル崩壊以降、日本の経済競争力は失速し、技術はどこかガラパゴス化。いまや大半の若者も世界に勝負をかけるより、ドメスティックなことに関心やエネルギーが注がれるようになっています。
そんな時代の変化は、キャラクター文化にも徐々に波及。あらゆるかわいさが提案あるいは輸入され、模倣され、拡散しては去っていく。混沌が渦巻くなか、それは起こりました。
「もう世界のセンターは狙わない」、「なんなら世界地図のすみっこが落ち着くんです」とでも言いそうな時代の空気、
すべてのものに魂が宿るという、日本古来のアニミズム文化、
そして、かわいそうなものがかわいいという判官贔屓の精神が重なり合ったその瞬間、
すみ神が降臨し、すみっコぐらしというインスピレーションが地上にもたらされたのです…!!
というのはは全てわたしの頭のなかのフィクション物語ですが、時代の空気と共に憧れのキティちゃんから、自分の分身のようなすみっコへとキャラクター文化の潮流が変わってきたのは、みんなも感じている流れなんじゃないかなあと思っています。
すみ神…いや、サンエックスさん天才ですね…!!
あ、キティちゃんは最初に書きましたけど、相変わらず揺るぎなくて、センターを常にキティさんが押さえてくれてこそ、カウンターとしての「すみっコ」が際立つもの。
キティ様にはいつまでも東のセンターを押さえていていただきたいものです。中心なくして端もないですから!
個人的には、東京の冠を被った千葉のディズニー、神奈川と誤解される多摩のサンリオピューロときているので、、サンエックスランドができるなら、埼玉県民の首都、池袋がベストだと勝手に思っているので、完成を楽しみにしています。
(でも、いまのイベントが巡回するだけでランドを持たないのもすみっコらしくていい気もする……)
世界の「すみっコ(こ)」としての日本(6/13公開)
西にヨーロッパ、東にアメリカ。日本がまんなかの世界地図。
それがずっとあたりまえだと思って育ってきました。
はじめて英語で記された、イギリスが中心の地図を見たのは高校生のとき。
地球は丸いって学校で習っていたのに、だから世界に真ん中も端っこもないと深く考えたこともなかったのに、初めて見たとき、すごい衝撃を受けました。
あれ?日本どこ?って位置。
そういや極東って、この辺のことなんだっけ…?
いつか流行った映画で愛を叫んだ世界の中心はエアーズロックだけど、世界の時間の基準はグリニッジ天文台、イギリス。
いまの社会の基盤になっているあれこれの中心地は広く見てもヨーロッパかアメリカ。
だよね〜、そうだよね〜、でも、これほどまでに日本が世界のすみっこだったとは…!!!
それまで知らずに見ていた自分がはずかしくなり、少し寂しくもなりました。
そんなせつない日本人のこころに、すみっコたちのささやきが聞こえます。
「ここがおちつくんです」
「ここがいい」でもない、「ここがすき」でもない。エネルギーを必要とするような、ポジティブな圧がまったくない。
ただ、自分が落ち着くというニュートラルな「いまここ」の肯定。
才能を発揮できる世界に羽ばたかない、稼ぐだけ稼いで脱出もしない、日本に生まれ、日本で生きていくことを選んだ日本人の心に響かないわけ、ないじゃないですか…!
すみっこぐらしには外国人向けの英語の公式インスタアカウントもあるし、販路は完全に内向きってわけじゃないとはないと思います。
ただキャラクターコンセプトとしては、ユニバーサルな感性に色目を使わず、ドメスティックな感性をど直球で狙いにきたところには、本当にリスペクトしかありません。
(ほんとうは多少、使っていたとしても…!)
かつて、これほどまでに魂を揺さぶるキャラクターがいたでしょうか…?
少なくとも、わたしはいませんでした。
「日本人の精神性(こころ)」と言うと、武士道、大和魂、おもてなし、もったいないとか、禅だとか…、色々なコンセプトがありますが、それらはすべて、「他の文化と比較して」浮かび上がってきたもので、だからこそ価値化されて広告されてきたものです。
言ってみれば外国人向けの商品のようなもので、それらのコンセプトと個人を重ね合わせても、「外国より日本が優れている」という借り物の優越感を与えるものでしかありません。
日本の個人が本当に必要としている、日本人の心のよすがとなるようなコンセプトが探られてきたことはあまりなかったように思います。
世界のすみっこ、「ここがおちつくんです」
それを体現しているすみっコたちの姿は、わたしには、そのこれまで欠けていた日本人のための日本人のこころを満たすコンセプトが、詰まっているように感じています。
世界的に有名なネズミと日本を代表するネコと逆ベクトルの「かわいさ」(6/20公開)
「かわいい」ってなんだろう?
それだけで、一晩語りあかせそうなほど深淵なテーマではありますが、人が「かわいい!」と思わず口をついて出るときの心のありようは、深淵のしの字もありません。
胸をぎゅっと掴まれるような、たまらず吐息が漏れてしまうような、テンション高めの狂おしさ。
それは、ディズニーストアでも、サンリオショップでも起こるのですが、そこでグッズを手に入れて自分のものとするときの体感は、ビミョーにちがいます。
以下はあくまで個人的な感覚ですが、
ディズニー(ミッキー・ミニー)グッズはちょっと自分のグレードが上がった感じ、
サンリオ(キティ)グッズはちょっと自分の女子力が上がった感じ、
つまり「アガる⤴︎⤴︎⤴︎」感じがあります。
どちらも、テンション盛れまくり!見ているだけでアガります。(この画像を見てパークに行きたくなってしまったらごめんなさい)
じゃあ、すみっコはどうかというと…
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圧倒的安心感っ…!!
「ひとりじゃない」「いっしょにいるよ」感…!!!
今のままの自分が、何かアガるわけじゃない。
でも守られている、見守ってもらえてる、むしろオチてもだいじょうぶと、手をつないでもらえている感…!!!!
あちらのグッズが攻めの武装なら、すみっコグッズは守り(受けではない)の武装、防具です。
この逆ベクトルが自分の今の気分にハマるんですね。
今日も見守ってくれてありがとう、です。
自覚しにくい弱点をを対象化する触媒としてのキャラクター(6/21公開)
すみっコぐらしのキャラクターの魅力は、かわいさだけではありません。メインキャラたちは皆、ユング心理学で言うシャドウのような抑圧された自己を持っています。
それぞれのキャラクターについてはあとでじっくり語りたいので触れませんが、どのキャラクターも自分の本当の姿を抑圧しています。
あるキャラは嫌われることを恐れて自分の正体を隠し、あるキャラは自分の種族らしい生き方を忘れ、あるキャラはあり得ない夢を信じています。
ちょっとディスってない?と思われるかもしれませんが、どうでしょう?
現代の社会で生きる大人なら、誰でもひとつは思い当たる節、ありませんか?
キャラの設定まで知らないと言う方は、すみっコのキャラの設定をぜひご覧ください。できればマンガも読んでみましょう。
そのうえで、自分が最もキュンとするキャラを選んでください。
誰に胸が震えましたか?
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そう、そのキャラが抑圧している真実、弱点こそが、あなたの弱点です!
ちなみにわたしはえびふらいのしっぽが一番好きなのですが、キャラ設定を見ると…
「かたいから食べ残された」
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色々、思い当たる節しかなさすぎる…!!!
こんにちは、残飯です!でもまだ食べられること諦めてません!!
痛々しいことこの上ないですが、えびふらいのしっぽは不動の人気キャラなので、仲間もいっぱいということで、ちょっと救われます。
という具合に、みんな好きなキャラで心理テストができてしまうのでは?というくらいのキャラ設定に深みがあります。
もしかしたら、すみっこキャラの推しを聞くだけで、気になるアノ子の弱点が、チラっと見ることができるかもしれません。
映画の公開は終わりましたが、もし自分が今女子高生なら、好きな男の子にはすみっコの漫画を貸すか、配信された映画をなんとか一緒に見る会を画策したいところです(鼻息)!…ま、当時の自分にそんな勇気はなかったですが。
余談ですが、下の画像は20年前、わたしが大学生のときに描いた絵本「う❤︎こ姫」の1シーンです。クリームとフルーツのドレスで着飾った主人公が、好きな人に食べてもらい、ひとつになれると喜ぶものの、自分の肉体だけが消化されずに残り、トイレに流されるという話。
これ、掃除しているときに発見したのですが、えびふらいのしっぽと同じコンセプトじゃないですか!?
∴ えびふらいのしっぽに惚れるのは必然でしかなかった…!!!
自分が残飯かもしれない感覚は、自分なんて誰にも必要とされていない、人が必要としているのは自分の上部や記号だけで、自分そのものは誰にも受け入れてもらえないんだ、という感覚です。
この感覚、夢に敗れたからだと思ってたけど、こんな絵本を描いていたということは、もっと前の二十歳そこそこから既にあったんですね…。そういえば、恋愛を通してそんな感覚になっていたような…。
そんなことを思うと、えびふらいのしっぽが多くの人々の心をとらえ続けている理由がわかったような気がしました。
はっきり言葉にすると残酷すぎる真実を、こんなふわっふわのお姿で抱き締めさせてくれるなんて(う○こにたとえた私とはレベチすぎる)…!ほんと愛しか溢れてきませんね!
弱点をダイレクトに直視しなくてもいい、すみっコを愛でることで自分も受容できる、やっぱりすみっコは最高です!!
MOTTAINAIと八百万のツクモ神のフュージョン(6/23公開)
ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが世界共通語に再定義した「MOTTAINAI」。
古いものに聖霊が宿るとされる、付喪(ツクモ)神という発想。
日本人が物を大切にするときの、その「大切」のねっこは、ここにあるように思うのは私だけでしょうか?
古いものを長く使う精神は、日本のように毎世代家を新築せずに、家具も一緒に住み継いでいくヨーロッパの方が、ある意味強い気はするけれど、その根っこにあるのは「良いものは長く持つから」「良いものはむしろ時を経るほどに価値が上がる」といった、物の機能性や財産価値としての文脈で語られている印象があります。
でも日本人的なものを大切にする感覚って、「縁」であって「価値」じゃないんですよね。
子どもの頃に、駐車場で見つけた透き通った石。
おばあちゃんからもらった紙人形。
もう削れないくらいちいさくなるまで使った鉛筆。
大掃除をするときも、一番辛いのは、そういう愛着があるものを捨てるとき。ゴミ袋に直接放り込むのはかわいそうすぎて、紙に包んで捨てたり、ゴミ箱に手を合わせたり。供養になるようなおまじないがないと、苦しかったりします。
そんなまなざしでみると、すみっこ暮らしの世界では名前のないものも含めてだいたい顔があって、子どもの頃から見ている世界と同じ。とてもしっくりくる感じがあるのです。
モノにも魂のようなものがあり、丁寧に扱えば応えてくれるし、手放すときも最後まで誠意を持って使い切ることで成仏させてあげられるように思う、
そんな感覚は、MOTTAINAIと、外国の方が感銘と共に再定義したように、グローバルスタンダードではないようです。
でも、そう言われると、余計にこの感覚に愛着を感じ、失いたくないな、と感じてしまう自分がいます。
そんな日本人独特のモノへの共感をフュージョンさせ、ぎゅっと結晶化したのが、すみっコぐらし。
こんなキャラ、世界広しと言えど、どの国に行っても手に入りません。
まさに日本人による、日本人のためのキャラクター。
(毎段落、結びはほぼ同じで恐縮ですが、)すみっコ、ほんと大好きです。
ちなみに、Youtubeで英語で紹介されているすみっコぐらしを探しましたが、それほど多くはないようで…でも、この動画は古いモノですが、キャラのバックグラウンドを理解した上でかわいいと言ってくれています。
(英語ですみっコぐらしは”corner living”と言い換えられると知った…)
ジェンダーフリーであらゆる痛みを刺激しない究極の無害性(6/24公開)
すみっコぐらしのオリジナリティについて色々書いてきましたが、忘れてはいけない特徴のひとつが、「公式設定で性別の記載がない」ということです。
「すみっコぐらし 性別」でググると、性別はないということが確認できる一方、いろいろな人がどのキャラが性別どっちか予想して当てようとしているのを見ることができました。
でも、ないっていうのがいいし、それを押し出していないのもいい。
とくにとんかつは、1本目の映画であかずきんをやったり、おじいさんをやったり、オスかメスかどちらかに位置付けようとする無意識の反応に気づかせてくれるところもさりげなくもゆるぎなくてグッときています。
季節商品は、全員女装っぽいシリーズもあるし、Maison de FLEURコラボなど、男役と女役がはっきりわかるデザインでの販売もあります。
でも、開催中のすみっコぐらし展のデザインはメインキャラ全員タキシードだし、すみっコぐらしファンクラブも全員Tシャツで、ボーイズあるいはユニセックスな格好の方が多い感じで。
公式サイトのすみっコぐらしコレクション資料館(これ見るの大好き!)を見ていると、ジェンダーなんて仮装でしかないよなあって気がしてきます。
生まれついての肉体的な性別は、大半の人ははっきりとどちらかに決まっていて、特別な外科手術なしには変えられません。
けれど、その性別らしい特徴は、体も含め個人差が大きいもの。それを、より「男・女らしい」方が望ましいという尺度で無遠慮に測られることで、傷ついた経験がある人は、けして少なくないはずです。
自分がそうなので、みんなもそのはずだ!と思いたいだけかもしれませんが、女っぽすぎるキャラグッズって、女らしくない自分とのギャップが際立つというか、自分が手に取る資格がないような気がして、惹かれる一方で、見ると辛かったりもしました。
勝手な被害妄想のようなものですが、そういう痛みを刺激する角が、すみっコぐらしにはないんです(少なくともわたしには)。
女子っぽい格好をしていても、シリーズ名に「ごっこ」とよくついているように、遊びでマネっこしているだけ、という距離感がある。ほんとうはそれじゃないんだけど、それになったふりをしているだけ。
そこがいい…!!!
ふわふわの手乗りサイズで当たっても握っても危なくないだけじゃなく、心理的玩具安全性も抜群すぎる。STマークに心理的安全性の項目はないけど。
ドキッとさせられる、ちょっと攻撃的なアートも好きなんだけど、心を社会的規範の檻から安全に解き放させてくれるすみっコは、アートとしてもイケてると思っています。
上昇志向のビジネスマンにこそ勧めたい映画版(7/5公開)
さて、ここで本題の映画「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」。癒し系の心理的安全性がバツグンに高そうなタイトルが、実はなかなか切れ味の鋭いアート系映画であるという話をしたいと思います。
映画にも色々ありますが、見たいものを見せるのがエンタメ、見えていないものを突きつけるのがアート系。
そのどちらも満たしていて、見る人に応じて受け取るメッセージのレイヤーが変わるのが面白い作品です。言葉の解釈には色々ありますが、ここではこの個人的解釈で話を進めます。
子ども向け映画は、親と子それぞれに面白さを与えようとするので、ここでいう面白い作品になりやすいと思っています。
宮崎アニメのように、分かりやすい夢やきれいごとを語りつつも、その下に重ねられている解釈のレイヤーの数が多い作品は、見る人によって受け取るメッセージも変わるし、見るたびに新たな気づきがあります。エンタメ系レイヤーと、アート系のレイヤーが重層的に作用している例です。
一般的には親子に「それぞれの世代が見たいもの」ものを見せる、エンタメの層にエンタメの層を重ねるのが基本で、それでも十分面白い作品と言えます。
すみっコも、そんな面白い作品なのですが、
「ありふれた日常が一番、ありのままのあなたでいい」
という見たいものを見せてくれるだけの癒し系のエンタメかと思ったら、
それはとんでもない大間違い!!
「見えていないものを突きつける」アート系の側面を持っている作品でもあるのです。
特に、夢は叶えてこそ夢だ、実現のための手段を実行できない夢は妄想だ、現実逃避だ、甘えだ、未熟さの表れであり、克服すべきものだ…!!!
という男性的上昇志向の人に対して「見えてないものを突きつける」内容。
女子色強めの映画に同伴してくれる、イマドキのいいパパor彼氏であることを厭わない、善意に溢れるポジティブ上昇志向の男性狙い撃ちにしてないか…?
って疑いすら抱いてしまう、なかなか鋭利なメッセージというか、問いかけがあるんです。
そして、すみっコに惹かれる「大人」女子が「ゆめを見続ける」という自分たちが選んでいる道がどんな道なのかを、美化することなくあらわにしてくれています。これも何気に鋭い。
でも、子どもたちには、「ゆめってだいじだよね!」っていう毒気のないきれいな表面しか見えない構造。
この表面的やわらかさと秘めた鋭さ、第1作の比じゃない。
1作目「とびだす絵本とふしぎのコ」はとにかく泣けるので、その期待を持って見た方はがっかりしたのではないかと思うのですが、その期待を裏切るテーマで2作目を作ったという点を見ても、重層的なアート系の作品を目指しているように感じました。
特にすみっコ好きの大人、「つきあってあげて」見にきた大人に対して「見えてないものを突きつける」、財布の紐を握っている相手の期待に迎合せずに攻めていく姿勢はリスペクトしかありません。
ただ、受けとるというマインドセットがないと、ただすっきりしない、モヤッとして終わるだけになるケースも多いようで。1作目の方が良かったという声も聞かれるのは残念に思っています。
なので、見るときはぜひ、アート系のメッセージを受け取る意識を持って見てほしいと思っています。ポイントはふたつ。
「自分とふぁいぶを重ね合わせる」視点で見ること。
もうひとつは、自分に「ゆめ」があるなら、どのキャラの「ゆめ」の形に近いかを自分と重ねながら見ることです。
その視点で、ふぁいぶの善意と思い込みがもたらすもの、すみっコたちの反応を観察してみてください。
ヒントはネガティブケイパビリティ。最近知った言葉ですが、この映画から多くの気づきを受け取るのに、重要なワードかと思うので、映画見たけどモヤッとしただけだったわ!って方はこの概念にちょっと親しんでから見直すと、新しいものが見えてくると思います。
自分はすみっコとしての自分と、ふぁいぶとしての自分の両方の面に気づかされました。この気づきを持って見ると、1作目より泣けますよ…!
「映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」は、Amazonプライムの見放題タイトルに入っています。
ぜひ、すみっコとか癒し系とかに冷めた目で見ている人にこそ、見てほしい作品です。この、ブランドの自己批判を厭わず、自己受容に向かう勇気に、触れてみてください。
持続可能な「ゆめ」を見るすみっコたち(7/6公開)
この映画を見て一番考えさせられたのは、「ゆめ」は叶えるべく未来として自分の外側にあるのではなく、思い描かれている未来もまた現在の自分の一部だということです。
成功してなんぼのビジネス世界の文脈では、夢を語ったら最後、そこに至るまでの道筋を洗い出し、スモールステップまで分解して、その一歩を踏み出し始めてこそ意味があるとされます。
でもこの視点で見るとき、「ゆめ」は叶うことでその価値が図られるわけじゃないことが見えてきます。
実現して現実が変わることも、「ゆめ」の持つ機能のひとつですが、それが達成することで「ゆめから覚めた」と自分を見失う人もいるでしょう。
じゃあ、次々に新しい実現可能な「ゆめ」を立ち上げて、それをどんどん実行していく必要はあるのかと言うと、なんのために「ゆめ」を次々実行するのかという問いが現れます。
しあわせになるため?もっと成功するため?
でも、それっていつまで続けるの?何が叶ったら、「ゆめ」を見る必要がなくなるの?
この答えに、明確な時期と条件を出せる人はいるでしょうか?もしいたとして、本当にその時期が来たら、スッパリと「ゆめ」が消えるでしょうか?
ここまで問いを重ねて行き着くのは、「ゆめ」を見ることが、生きるのに必要だという心の声です。
英語で本当に大事な目標のことを「TRUE NORTH」と言いますが、これはここでいう「ゆめ」の役割をシンプルに言い表してくれていると思います。
「ゆめ」は自分という物語を進むための方角を示してくれるもの。
方角がないと道に迷って不安になる。自分の人生の舵取りを自分でしている実感、昨日より今日が良くなっている感覚を得るために、進むべき方角がほしい。
これが、わたしたちが「ゆめ」を必要とする理由ではないでしょうか。
わたしたちが「ゆめ」に求めている基本的な機能は、次々に新しい「ゆめ」を変えるビジネスマンも、ひとつの見果てぬゆめを抱きつづけるすみっコたちも同じです。
ゆめを見ることは楽しいですが、次から次へとあたらしい「ゆめ」を消費することは、個人のエネルギーの点から見ても、環境資源の点から見ても、実は持続可能じゃありません。
あたりを見回せば、次から次へとあたらしいものが生み出されています。「あんなものがあったらいいな」、「こんなものを作ってみたいな」、ドラえもんの昔のオープニング曲のようなたくさんのゆめの実現と共に生まれたたくさんのものたちが身の回りにいっぱいです。
この観点から見ると、世界がもので溢れ、持続可能でなくなっていると感じられるのは、成功神話がもたらした、「ゆめ」の過剰供給にある、と言える‥というのは言いすぎでしょうか?
わたしたちにとって重要なのは「ゆめ」を見ることです。
成功神話にどっぷり浸かっている頭で見ると、すみっコたちの姿は、愚かで気の毒に見えるかもしれません。
でも、「ゆめ」を見続けることが願いなら、本当はあたらしい必要なんてなくて、見果てぬ「ゆめ」こそが、実は最も賢い選択肢だったりして…?
もちろん「個人のゆめ」を超越することで得られる世界の広がりもあります。すみっコはこの世の真理を悟った存在として描かれているわけじゃありません。見果てぬゆめの世界は、変わることのない、無限ループの世界です。
でも、成功神話もあたらしい「ゆめ」を求め続けている限りは無限ループ。
どちらも「ゆめ」に生かされるというすみっコと同じステージにいるんですよね。それに気づかせてくれるのが、この映画のとんがったところ。
いやー、胸が苦しいですね。でも、それがいい…!
じっくり自分の「?」に向き合いながら見ると、いろんなことに気づかせてくれる、倍速非推奨の映画。ちょっと見たくなってきませんか?
モーフィアスとしての「ふぁいぶ」(7/7公開)
「ゆめ」を見ることの意味を問う、このすみっコぐらしの映画ですが、夢がテーマの映画で思い出すのは、「マトリックス」。
(全員サングラスですが、モーフィアスは右の方です)
真実を知ることができる赤い薬を飲んだ主人公が、それまで自分達が現実だと思っていた世界が夢に過ぎなかったことが分かる、というところから始まるお話です。
その、赤い薬を差し出すのがモーフィアスというキーパーソン。彼もまた、主人公のネオこそ救世主に違いないという「ゆめ」を見ることで、マトリックスの外側の厳しい現実の世界を生きています。
そんな夢の入れ子構造に気づかされたり、夢の外を旅して改めて道を選ぶ、自由意志の旅が展開される一大シリーズなのですが、全然似ていないように見えるこの二つの作品、「ゆめ」から目覚めて夢の外を旅し、自由意志で選択するという旅のかたちは同じなんですよね。
夢から覚めさせる役割を担うキャラが悟った神のような存在ではなく、同じ構造の内側にいる無知な存在だという点も同じ。
いかついスキンヘッドのサングラスのおじさまと、見習いまほうつかいのふぁいぶでは、見た目の印象はまるで違いますし、旅の仕方も全然違うんですけどね。
1作目「とびだす絵本とひみつのコ」は、すみっコの世界のなかに入れ子的にある絵本、架空の世界のなかの架空の世界が舞台でしたが、2作目である「青い月夜のまほうのコ」はすみっコたちが自分たちがそれぞれの「ゆめ」のなかを生きているというのが主題。
この流れで妄想すると、3作目はついに、謎のアームの上の世界、もしかしたら外の世界から誰か来る(行く?)とか、わたしたちが生きている世界とのつながりが暗示されるような展開があったりして…!?
次回作の期待は今から高まるばかりです。
さて、話は戻ってまほうのコ。ゆるかわマトリックスの住人に、赤いピルを飲ませるモーフィアスとしてのふぁいぶは何を見ることになるのか!?
真実は本編をご覧ください!
現代社会に欠けている、徹底したアガペー志向(7/8公開)
さて、すみっコ映画の魅力について、少し心の世界から見てみましょう。
キーワードは「アガペー」です。
アガペーは、キリスト教における概念神の人間に対する愛のこと。無償の愛、慈愛、絶対的な愛とも言われます。
アガペーの他の愛の形としては、隣人愛をあらわす「フィリア」と、性愛をあらわす「エロース」があるのですが、エロースは自分に欠けたものを求める気持ちであり、異性への欲望を含めた、より大きな概念とも考えられています。
エロースは自分を欠けたものとして捉えるところからはじまり、それを埋めてくれるものを求める気持ち、それによって自分をより完璧な存在にしたい気持ち、と言い換えることもできるでしょう。
この気持ちって、物心ついた頃から持っている、最初の愛のかたちですよね。
あれがほしい、これがほしい、あれがあれば、これがあればと求める気持ち。
この気持ちがある程度満たされて初めて、自発的につながりあう友愛の気持ちを持って人とつながることができる、心の土台になる気持ちです。
満たされてつながり、関係を育んだ先に、あふれた愛を見返りなく他者に注ぐ、無償の愛が湧いてくる。
これは、わたしの感覚に過ぎないのかもしれませんが、わたしはこの3つの愛のかたちをそんなふうに理解しています。
さて、いまわたしたちがいる現代社会に溢れている愛ってどの状態の愛でしょうか?
あれは必需品、これもないとダメ、あれも念の為、これからはこれがマスト…。
手に入れても、手に入れても、まだ足りると言ってはいけない。求め続け、獲得し続けなければいけない。
文明はどんどん発展している。その速度に合わせて必要とされる能力を高められない人に居場所はない。
そんなメッセージを受けるたびに、3つの愛の土台の底に穴が開き、どんどんこぼれ落ちていく、そんな印象を受けているのは、わたしだけでしょうか?
個人を超えた大きな何かから発せられるメッセージは、わたしたちをエロースの愛の状態にわたしたちを押しとどめる方向性を持っている。
あれがあれば成功する、これがあれば豊かになれる。成功や幸せを目指す、一見キラキラ、ワクワクするようなメッセージも、恐怖心を煽る声とは真逆に見えて、このエロース志向という意味では、同じです。
見た目の文明は発展してるけど、古代から人間の悩みは変わっていないのだとすれば、まだまだ人類の成長ははじまったばかり、ということなだけかもしれませんし、むしろ恵まれた一部の個人だけが精神的な発達を遂げるなかで、残された人たちが置いていかないでと嘆き助けを求めている、ユングで言うところの集合的無意識の叫びなのかもしれません。
だとしたら、それは問題として遠ざけるのではなく、むしろ手を差し伸べる必要がある課題なのかもしれませんが、この叫び声に惑わされては飲み込まれそうになる自分は、助ける側に回るには、まだまだ子ども。
まずは一旦退いて、ただただ見守ってくれる、今の自分を肯定できるアガペー志向の愛を求めている自分がいます。
未熟な存在としての自分、自分達が無限ループのなかにいることをただ観察させてくれる場所。
わたしがすみっコの世界に感じている魅力です。
「目覚めよ」とも言わないし、そこに「意味がない」とも言わない。
その状態に、いいも悪いもない。ただそこにいるんだね、いたいだけそこにいていいと見守ってくれる。神の愛のまなざしで、受容してくれる。
それは、安全なこころの家です。
心の土台を癒し、育み、でもちゃんと自分を見つめさせてくれるすみっコぐらしの世界。
エロース志向のメッセージで疲れたら、ちょっと癒されに来ませんか?
※家庭の事情により、この記事はここまでで一旦終了します。
すみっコ映画、3本目の公開が決まりましたね!続きはそのときに書こうと思います…!ありがとうございました。