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虚構の世界と実在の世界

私たちが偶然生まれ落ちた現代は、
デジタルによってこの世に実在しないものがあたかも、実在するかのようにいとも簡単に表現できるようになっている。


もはやそれは"日常"である。

一昔前ははそう簡単にはいかなかった。

だから、人は想像することでどこかに実在するかもしれない虚構の世界へ思いを馳せた。

芸術はまさに、いわゆるアーティストの想像した実在しないもの、つまり虚構を絵画や彫刻、映像というメディアを通して表現していることが多い。

現実との乖離が大きければ大きいほどユニークでそこに芸術美がある。

つくる側も、そしてみる側も
そこには、虚構に想像を膨らませる人間本来の姿が感じられる。

芸術だけではない、これまでもそして今も人間は虚構の世界の下で生きている。

国家、金(経済)、企業。これらは人間が作り出した虚構の代表的なものであるが、人間は協働しそれらを信じることで、初めて成り立った。そして、虚構という傘の下でルールや決まりを作ってきた。

このように虚構の世界と実在の世界という二重の世界の中では、虚構の世界は実在する世界よりも大きな力を有している。そんな中でも虚構と実在がうまく共存してきた。

それは人間が虚構の世界の中で当たり前に考え、想像しながら生きてきたからである。
少ない情報、限られた空間、手段で何をどうすれば生きていけるのか。どうコミュニケーションをとればいいのか。生きるため、考えることに必死だった。そして、想像することで作られた虚構の中で協働することができた。

しかし、昨今感じる違和感はなんだろうか。
人間は自ら作り出した虚構を制御できなくなっている。

まさに人間が人間たる所以である、想像することを徐々に放棄したのだ。
それも想像していないことにも気づかないほど、かなり自然に。

そうして、いつの間にか虚構が制御できないほど強大な力を持ってしまった。実在する世界と虚構の世界の絶妙なパワーバランスが崩壊したのである。

なぜだろう。
虚構と実在を見極めることがデジタルの発達によってかなり難しくなっている。

気づけば、私たちはデジタルでしかものを見なくなった。デジタルで容易に、そして大量に作られたものを、デジタルを通して感じている。そこに対象が実在する根拠はどこにもない。気づけば世界は虚構で溢れかえった。

そして、デジタルに慣れてしまった私たち、デジタルでしかものを見なくなった私たちは、デジタル(スマートフォン、パソコン)を通して見たり聞いたり読んだりしたものを信じ疑わなくなった。

インプットして、(読む、きく、みる)
メモリーし、(記憶、記録、保存)
アウトプット(行動、共有)する。

情報を入力し、保存し、必要とあらば伝えるだけの人間は、チンパンジーとなんら変わりない。

これを読むあなたは、虚構であるか実在なのか本当に見極められているだろうか。

その自信はあるだろうか。

多くの情報と娯楽によって、圧倒的に想像する余裕がない現代(それにも気づいていないのだが)。
虚構が強大になった世界でこそ、これまで以上に想像することが必要となることに気づいていない。

新しい現実や架空の現実、つまりは虚構を生み出すために、想像をしてきた人間本来の姿はそこにはない。
人間は考えなくなった。考えなくとも生きていける気になってしまった。

パスカルは『パンセ』で「人間は考える葦」であると言った。
考えなくなった人間は人間ではない。

「考える葦 人間」の復興は誰が為す。

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