本を大量に読めと言うのは何故なのか?

 大学に入ってしばらくすると、ぼんやりと教授の立ち位置や人柄などが分かるようになってくる。親身に色々教えてくれる教授、講義はつまらないが単位を簡単にくれる教授、性格は最悪だが恐ろしいほどに面白い講義をしてくれる教授等々。そうして日々を過ごしているとお気に入りの教員というものが数人ほど頭の中に浮かんでくる。そして、研究内容などをもっと知りたいと思った時に、入学式で貰った教員紹介の冊子の存在を思い出した。

 冊子に書かれているのは研究内容や担当の学問分野、担当講義の名前、入学生に向けたコラムといったもので、コラムを書くのは人気や実力がある教授のようだった。私が気になっていた教授は性格は最悪であったが、講義はとても面白いタイプの人間であったため、やはりコラムを担当していた。斜め読みしてみると、同じ分野の学問書を10~20冊同時並行で読めという内容が書かれていた。当時は「また教授の学生いじめか」と思ったが大学を卒業して数年たった今、それが意味と根拠のある内容だったのだなと思い至った。


同じ分野の本を大量に読む必要性

 大体の人は「なぜ同じ分野の本を大量に読む必要があるのか」と疑問に思うだろう。一冊読んだらもう十分のように思えるし、他の分野の本を読んだ方が知識の量は増えるように思える。もしも内容を忘れてしまっても、また読み返せば良いだけの話だ。なぜ、同じ分野の、あるいは同じ題材の本を読む必要があるのか。

 結論から言えば、帰納法で根幹となる知識を抽出するため、と私は考えている。

 帰納法と言えば哲学におけるイギリス経験論で有名なフランシスコ・ベーコンが生み出した思考法だ。
 例えばA町のカラスは黒いという報告をされたとする。続いてB町、C町のカラスも黒いという報告をされた。そして隣のD国やE国のカラスも黒いという報告を受けた時、それぞれの報告において「カラスは黒い」という共通点を見つけることが出来る。この結果から「カラスは全部黒い」という類推が出来るだろう。全ての国、全ての地域のカラスを確認したわけではないが、大量に集められたデータにはカラスが黒い事を示しているのだから「カラスは万国共通、どこの国でも黒いのだ」と言う結論を出しても差し支えないハズだ(もちろん一羽でも黒くないカラスが発見されれば、この結論は間違いであるとして瞬く間に崩壊するのだが)。
 このようにいくつかの事例の中から共通項を見つけて新たな法則、ルールを見つけようとい思考法が帰納法である。現代でも科学の分野はもちろん、イギリスの法曹界の判例中心主義はこの思想を基に作られている。過去に裁判所が出した判決、それは判例として後世に残っていく。そして大抵の事件というのは大体似通った内容が多いので、裁判官は過去の似たような事件の判例を集めて、自分が担当する事件との共通項を探し出す。そしてその共通項は普遍的な正義の法、コモン・ローとして体系化していき、今後の判決の基準となっていく。

 さて、帰納法について多少の理解を深めたところで、大量に同じ分野の本を読む行為となんの関係があるのかを考えていく。
 同じ分野の本を読めば多かれ少なかれ全く同じ内容が書かれている、という状況に出くわす。多少は筆者の持論だとか、つまらないジョークなどが混じっているかもしれないが、数学の公式だとか法律の条文だとか、そういった普遍的なものがまるで違うという事はまずない。教科書や参考書によって三角形の面積を求める公式が違うなんてことはあり得ない。なので、まずその分野の知識をつけないといけない学生や初学者などは、将来的に研究をする為に知識をつける「勉強」をしなければならない。しかし、その勉強で得た知識が紛い物、ガセであったら意味が無い。そうした時に複数の本を同時並行で読み、共通している内容を押さえれば妥当性の高い信頼性がある知識を得られる。
 一冊だけ信頼に値しない悪書を読んでしまったとしても他に百冊の本を読んでいれば、それが間違った悪書だと気付くことが出来るだろう。参考書の表記ミスで「三角形の面積は底辺×高さ÷3だよ!」と間違った事を書かれていても、他の10冊の参考書で「底辺×高さ÷2」と書かれていれば、10冊分の参考書の情報の方が正しいと分かる(もっともこの読書法は高校の勉強に使う参考書ではなく学問書用だろうが)。安全かつ安心に信頼性のある知識をつけることが出来るため、同じ分野の本を大量に読む事に価値があるのだ。同じ分野の本を大量に読むことで共通した内容を見つけ出し、信頼性の高い知識を抽出する事が出来る

 一つの情報源を根拠に理論を組み立てると、その情報が紛い物だった時に何も残らない。インターネットの普及で専門家の情報にいち早くアクセスできるようになったが、アフィリエイトによる集客目的のフェイクニュースも大きく増えた。ネットの情報が玉石混交であるという事は昔から指摘されていたが、昨今ではより情報を見分ける難易度が高くなっているように感じる。
 そうした情報と比較した際に、本は出版までの間に編集者などの多くの人間の校正が入り、慎重に検証が行われる。理由は簡単、間違った情報を載せた本を出せば、出版社はたちまち信頼性を失って本が売れなくなるからだ。本を出版した時代の影響もあるので絶対ではないが、インターネットの情報と比較しても信頼性は高いと結論をつける事ができる。なによりその本を同時並行で読んで、帰納的に内容を見るのだから信頼性はより高くなる。だから本を大量に読むことに意義があるのだ。もちろん簡単かどうかは別問題だが。

 何かを語る際に「○○は良いらしいよ」と言う事が日常でも良くある。しかし、「どこからの情報?」と聞かれると「ネットに書いてあったよ」としか言えなかったりする。かくいう私もここまで長々と書いておいて良くやってしまう。一つの情報源に頼ることは騙される危険性をいたずらに上げることになる。我々はカルト宗教の信者を見て「バカだなぁ、あんなのを信じているなんて」と思うだろうが、ネットの不確定な情報源を盲目的に信じてしまう我々が彼らを笑えるのか。信じる主体が変わるだけでやっている事はまるで同じだ。確度の高い知識をつけるだけでなく、そうした社会での身の振り方を覚える。それがあの意地悪な教授が学生たちに伝えたかったことなのだろうと、今になって痛感する。

 


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