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〈好み〉を知るは、己を知り世界を知ること。

書評:トム・ヴィンダービルト『ハマりたがる脳 「好き」の科学』(ハヤカワ文庫)

何かを「評価する」という行為を「意識的にやっている」人間にとって、「(個人的な)好み」の問題は、非常に重要なポイントである。
たとえば、ある音楽や絵画や小説について評価を下し、それを人に語るとき(ここが重要)、それは単に「自分が(は)面白く感じた」という話なのか、それとも「これは(客観的に)面白い作品だ」という話なのかで、その評価の意味や価値は、大きく違ってくるからだ。
つまり、自分にとって面白かった否かという「主観のみ」の評価なら、小学生でもカントやハイデガーを評価することができるし、その評価も間違いではないだろう。彼にとっては、それは確かな真実なのである。しかし、そうした評価が、他人にとって価値のあるものかと言えば、無論そんなものは、ほとんど無価値であろう。「子供は無邪気でいいなあ」くらいの微笑ましさや羨ましさは感じても、その評価の中身は、無価値だと断じても良いと思う。

しかし、そんな「評価」、つまり単なる「主観的評価」をしているのは、決して子供だけではない。このAmazon上においても、「良かった悪かった」というだけの主観的評価を語って、何の疑問や痛痒も感じていないらしい大人のレビューも決して珍しくはないのというのが、私たちの現実である。

もちろん、論評の対象になっている商品が、単なる「嗜好品」なら、自分の「好き嫌い=趣味」だけで判断し、それを語っても、何ら問題はない。それはそういう商品なんだから、あれこれ個人的な事情を説明する必要はないだろうし、他人もそんなことまで期待してはいないだろう。
しかし、大半の商品はそうではないし、まして音楽や絵画や小説といった芸術作品の評価というのは、単なる「好き嫌い」評価では、前記の「子供の感想」と同様、ほとんど価値が無いのだ。

では、どのような評価が、他者に価値をもたらすのかと言えば、それは「客観性のある評価」であり、具体的に言うと「評価の基準や根拠が明確に示された上での評価」ということになるだろう。つまり、自分の主観に止まらず、他者を「説得」しようとし、説得するだけの力を持つ評価が、他人にとっても「価値観を共有できる」という点において、価値を有するのである。

しかしまた、客観的な根拠を示した上での評価というのは、そう簡単なものではない。
なにしろ、それは「私はこう感じる」に止まらず、「私以外の、あの人やこの人」はどう感じるだろうかと「想像力」を働かせ、その上で、そういう「他者」の立場に立って、彼らが納得するような根拠を示さなくてはならない。自分とは違った「他者」というものの「像」を、自分の中に仮構した上で、その仮構されたものの価値観に憑依するかたちで、説得力のある評価を構築しなければならないのだから、「私の世界=世界」という「唯我独尊的世界=幼児的万能感世界」に生きている人には、そんなこと出来ようはずもないのである。

では、「他者」の世界理解を想像する力をつけるためには、何をすれば良いのか。
その一つの方法としては、「私の趣味に合わないもの」に価値を見いだす人(他者)の立場に立って、その人の価値観を推理的に想像してみる、そんな努力も当然必要ではある。だが、これはなかなかしんどい作業だ。なにしろ、自分が「面白いと思えないもの」「好きになれないもの」にこだわって、それを「面白い」とか「好き」とか感じる人の内面を想像しようというのだから、それがたいへんな苦役であろうことは想像を難くないのである。

ならば、もうひとつの、比較的無理のない道として考えられるのは、自分自身の「好き嫌い=嗜好」の意味するところ、言い変えれば「方向性=指向性」を考えてみることだ。「自分は、あんな作品やこんな作品が好きだけど(嫌いだけど)、その共通点は何だろうか」と考えてみると、自分の「個性(他者よりも強い指向性)」が見えてくる。さらに、これをどんどん進めていくと「自分の輪郭(自他の境界)」がおぼろげにも見えてくる。
そして、それが見えてくれば「私はこういうものに特に惹かれるけれど、他の多くの人は、そこまでこういったものに惹かれないようだ」ということがわかり、自身の評価を語るにあたっても「私はこの作品のここに惹かれるけれども、しかし、そうでない人にとっても、この作品(商品)のこの(別の)側面は、充分に魅力的なのではないだろうか」といった「他者」に配慮した評価を語ることも可能になってくるはずなのだ。

つまり、自分の「好き嫌い=嗜好」を知ることは、自己を知ることに止まらず、「他者」を知ることにもなるし、ひいては、主観と客観によって織りなされる「この世界」というものの性質を知ることにもなるだろう。「この世界」とは、主観だけでも、客観だけでも、済まされない世界であり、それを知ることは、より良く生きるためにも必要なことなのである。

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さて、本書は、そんな「人間の好き嫌い」の世界とその謎についての探求の旅をつづった本である。
著者は、食べ物や音楽や書物といったものの受容にあらわれる「好き嫌い=嗜好」の問題を、各界の専門家にインタビューして回り、自分の経験にも照らしてあれこれ考察しており、じつに興味深い話が満載である。

しかし、本書の中で、決定的な「回答」が与えられるわけではない。なにしろ、人類はまだ、その究極の答えに立ち至ってはいないのである。だから、本書で語られるのは、「好き嫌い=嗜好」をめぐる探求の「最前線」だと言えるだろう。
いろんな人たちが、いろんな方面で、いろんなかたちのアプローチで「好き嫌い=嗜好」の問題を探求し、すこしずつ知見が積み重ねられているのだ。だが、最終回答には至っていない。だからこそ、読者もまた、その探求の旅に、主体的に参加できるのである。

「私の好みって、客観的に見たら、どういう方向に向いているのかな?」「どうして、そうなのかな?」と考えてみることは、とても興味深いし、極めて知的な行ないだ。それに、健康な人間なら誰しも、多かれ少なかれ自分が好きなのだから、自分探求というのは面白くないわけがない。
だが、その一方、時にその旅路は「凡庸でつまらない私」に直面する「恐怖」を味わわせるものでもあろう。だから、それを敬遠する人の気持ちもわからないではないのだが、そういう「避けている自分」「逃げている自分」という意識を完全に避けることだけは誰にもできないのだから、多少はビクつきながらの冒険でもいいし、それをわざわざ人に語らなくてもいいのだから、スリルとサスペンスに満ちた、自分探求の旅に出てみてもいいのではないだろうか。

難しい話ではない。
「なんで私はこれが好きなの?」一一これを考えるだけで、人は「一次元上の自分」になれるのである。

初出:2020年6月14日「Amazonレビュー」

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