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いかにもユング派的な〈絵解き〉

書評:河合俊雄『NHK100分de名著 2020年8月 ミヒャエル・エンデ『モモ』』(NHK出版)

著者による、いかにもユング派心理分析医らしい『モモ』読解が、間違っているとは言わない。ただ、いかにも「ユング派」らしい、あるいは「河合隼雄」の息子らしい、非常に無難に優等生的な読解が、いささか「つまらない」と感じた事実は、とうてい否定のしようがない。

無論これは、私が文学趣味の持ち主であり、フロイトよりもユングの方が「ひとまず面白い」と感じる程度にはユングもフロイトも読んでおり、河合隼雄をはじめとして、『季刊へるめす』などで活躍した人たちの著作にも、ある程度は親しんだ人間だからであろう。
つまり、若い頃の私なら、こういう「絵解き」に「なるほど」と感心したのだけれど、そういうものをいくつか読んできた身としては、「また、これか」という退屈さは否めないのだ。

たしかに『モモ』を、ユング派的な「心理構造の図式」に当て嵌めることはできるし、それはそれで「正しい読解の一つ」だとは思うけれど、これで何か「片づいた」つもりになるのだとしたら、それはあまりにも罪つくりで貧しい「絵解き」なのではないだろうか。

かつて、その種のものが歓迎されたのは、それが通常の「文芸批評」とは違った角度からの「読みの試み」だったからであり、だからこそ、そこに「新しさ」があった。「蒙が啓かれる」感動があった。
しかし、今またそれをやられても、無難に「定石どおりの読解」を示されたという印象しかない。これは「河合隼雄の優等生読者による、優等生的模範解答」という印象しか受けないのだ。

「心理分析」が与えてくれる「自己解釈」とは、無論、ひとつの「解釈」であり「物語」にすぎない。けれどもそれは、その「治療的有効性」において、価値を有するものであった。
そのため、それは、患者個々に応じて、千変万化する「物語」であったはずなのだが、それが、このような「図式主義」的な解釈法として「型」になってしまったのなら、そんなものに左程の価値があるとは思えない。

もっと読者個々を触発し、その個性に応じた「読解」を引き出すような「解釈=物語」を、著者は示すべきではなかったか。

『作者のエンデは、あるインタビューで「私の本は、分析されたり解釈されたりすることを望まない。それは体験されることを願っている」(子安美智子『エンデと語る』朝日選書)と語っています。』(P6)

無論、作家の手を離れた作品と読者の関係に、作家があとからあれこれ口を挟むことはできない。それは、しようとしてもできない。しきれないのだ。

だが、ここでエンデの言いたかったことは「小説とは、元来、分析したり解釈したりするためのものではなく、作品世界に没入し、体験するためのものなのだ。そのことを忘れないでほしい」ということなのではないだろうか。

「解説者」や「評論家」は、「分析したり解釈したり」するのが仕事だから、それは避け得ないことなのかもしれないが、そうしたものの存在の故に、多くの読者が「小説とは、分析したり解釈したりするため(感想を持つため、教訓を得るため)の、素材である」などと勘違いしたとしたら、その次点で、すでにその「読み」は、本質的に誤った方向に向かっていると言えるのではないだろうか。

結局のところ、「小説」の読解においては、「正解」はない。作品は、読者個々との関係の中に開かれており、おのずと多様なものであらざるを得ない。
ただ、「読解」という点に注目すれば、その無限の多様性の中にも、やはり個々の「読み」の間に「浅深」の差はあるという、それだけの話なのだ。

だから、「浅い解釈」はいらない。「型通りの解釈」ではつまらない。
読者が、真に目を開かれるような「読解」とは、その読者にしか語り得ない「読解」なのであり、その点において、本書の読解は、かなり物足りないのである。

初出:2020年8月5日「Amazonレビュー」

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【付録】

  モモの瞳に映った〈私〉 一一 レビュー:ミヒャエル・エンデ『モモ』

本作が「時間に追われて、人間らしい生活を見失った現代人」批判であるというのは、間違いないのないところだろう。それを読みとれない「大人の読者」は、ほとんどいないはずだ。
本稿では、子どもにとっての本作『モモ』ではなく、私を含めた「大人の読者」にとっての、『モモ』という作品の意味を考えてみたい。

子供たちにとっての本作は、起伏に富んだ展開と不気味な敵との闘いによって、ワクワクしハラハラさせられる、最高に「没入できる物語」であろう。ところが、「大人の読者」にとっての本作は「身につまされ、反省させられるところの少なくない物語」なのではないだろうか。

なぜなら、本書で描かれるのは、自分たちなりに充実していた「自分たちの生活」と、そこに流れていた「大切な時間」の存在に気づかなかったがために、まんまと「灰色の男たち(時間泥棒)」の口車に乗せられて、「豊かな時間」を捨てて、「貧しい時間」に生きるようになってしまった「これはわれわれ自身の物語」だ、と感じるからではないだろうか。

作品中でも指摘されているとおり、「灰色の男たち(時間泥棒)」たちは、決してどこか他所からやってきた「侵略者」などではなく、言わば、人間の心の貧しさが生んだ「病い」のようなものだと言えるだろう。
だから、彼らが「加害者」で、私たちが「被害者」だと考えるのは、適切ではない。
本当は、私たち自身が私たち自身を攻撃しているのであり、私たち自身が「被害者」であると同時に「加害者」でもあるのだ。この物語は、私たち自身の「加害者」性を思い出させるが故に、私たち「大人の読者」には「身につまされ、反省させられるところの少なくない物語」となっているのではないだろうか。

例えば、本作の中で、子供たちから「自由な時間」をうばったのは、「灰色の男たち(時間泥棒)」たちだったのだが、現実には、私たち大人が、子供たちから「自由な時間」を奪っている。
私たち大人は、私たちの中にいる「灰色の男たち(時間泥棒)」の命ずるままに、子供たちに対し「これはお前の(将来の)ために、良かれと思って言うのだ」などと自己正当化しながら、子供たちを「塾に行かせたり」「習い事をやらせたり」「スポーツをやらせたり」している(「みんな、やってるじゃないか」と)。また「そんな幼稚なマンガなんか読んでないで、この本はとても良い本だから、これを読みなさい」などと、世間で評判の良い「良書」を読ませようとしたりはしていないだろうか。

私たちは、本作『モモ』を読んで、身につまされたり反省させられたりはするだろうが、しかし、それで、それまでの生活を改めるようなことはしない。そう断言しても良いだろう。
この小説を読んでいる間、そしてその余韻に浸っているしばらくの間は、なにか「大切なことを教えられた」と思い「これからは生活を改めないと」などと殊勝なことを考えたりもするのだが、そんな「気分」は、持って二日間くらいのものだろう。

そもそも、本書の作者であるエンデ自身が、本書で描かれたような「自由な時間(理想的な時間)」を生きているだろうか。
「地位も名誉も多くの稼ぎもいらない。ただ、ゆったりとした人間らしい生活を、慎ましく生きたい」というような生活をしているだろうか。

モモの親友であるジジは、物語作家として社会的に成功したがために、時間に追いまくられて、自分を見失ってしまったのだが、成功したエンデは、はたしてジジと同じ轍を踏んではいないと、そう言い切れるだろうか。
例えば、彼が「有名作家」として来日した場合、予定はびっしりと詰まっており、「効率的に日程を消化しなければならない」なんてハメに陥ってはいなかっただろうか。行く先々で、多くのファンに取り囲まれてサイン攻めにあって、疲労困憊、内心ではウンザリしながらも、ファンサービスのために笑顔を作って、サインに応じ続けなければならない、などという、いかにも「灰色の男たち(時間泥棒)」たちが喜びそうな人気作家生活を送ったりはしなかっただろうか。はたして、『モモ』を書いたエンデだけは、当たり前の「人気作家」とは、本質的に異なった、非現代的な生活を、悠々と送っていたのであろうか。
一一私は、そんなことはないと思うし、そんな「ファンタジー」を信じたりもしない。

私は何も、ここでエンデに「偽善あり」などと責めたいのではない。
そうではなく、エンデの描いた問題は、単純に「昔に返れ」では済まない難問であり、エンデ自体がそれを打ち負かしたわけではない難問なのだから、私たち読者が、本作を一読しただけで、途端に変われるほど、それはお易い問題ではない、ということを言いたいのである。

つまり「もっと人間らしい、ゆったりとした時間を過ごさなければならない、と思いました」というような感想は、「感動しました」というような決まり文句と同様に、作品から何も受け取ってはいない証拠でしかないし、「この作品は、現代の問題を描いている」などという社会派の感想も、自分が評論家になって、批判されている現代的主体としての「個人責任」を回避しているだけだ、と評されてもしかたないのではないか。
私たちは『モモ』を読んで、なにかしらの「ありきたりな感想」を抱いたら、そして、それを表明すれば、もうそれですっかり免責されてしまって、変わらなければならないなんてことも、すっかり忘れてしまうのである。

そしてこれは、たいへん「効率的な物語(娯楽)消費」ではあるものの、それこそ、これも「灰色の男たち(時間泥棒)」たちの思いどおり、狙いどおりなのではないだろうか。

私たちが『モモ』を読んで考えなければならないことは、私たち自身がモモになろうとすることではないだろう。そんなことは無理なのだ。では、どうすればいいのか。

それはたぶん、私たち読者の一人ひとりが、自分のおかれた現実の舞台において、自分を主人公として、モモに恥じない生き方を実践するしかない、ということである。
だから、読者全員に通用する答(正解)はない。読者それぞれが、自分で考えて、選択し、行動するしかない。そして、時に間違えるかもしれないが、たぶんそれしかないのである。

ただ、この物語が、私たちに何かしらの力を与えてくれるとしたら、それは、私たちが思わず何かをしようとした時、あるいは、ある考えにとらわれた時に、モモを思い出して、「こんなことを思いついたんだ。どうだ素晴らしいだろう」と、想像の中で、モモに話してみることができる、という利点にあろう。

モモは、あなたの選択や考えを、頭から否定したりはしないだろう。だが、彼女の澄みきった瞳は、あなたにこう語りかけているはずだ。
「それがすばらしいと、あなたが本気で思うのなら、私もきっとそうなんだと思うわ」
でも、その時、私たちもきっと「ちょっと待って。もういっぺん考えてみるよ」と言いたくなっているはずだ。

あわてて答をだす必要はない。話を聞いてくれる人に話しかける時間は、きっと無駄ではない。
そのとき私たちは、時間を「効率的に消費」するのではなく、多少なりとも「豊かな時間」を取り戻していると言えるのではないだろうか。

(2021年7月16日)

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