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〈人間愛〉と経済学

書評:ヤニス・バルファキス『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社)

私は典型的な文系人間で、さらに言うと、大の数字嫌いである。数字、数式の出てくる理系学問は、端からダメだし、数字には拒絶反応さえおこしてしまうタイプの人間だ(だから、給料明細、各種支払い明細のたぐいは一切見ない、きわめてどんぶり勘定の人間だ)。

だが、政治を語る上で、「経済」の問題は避けて通れない。
ことに近年のわが国においては、経済の長期停滞によるデフレの解消が一向に進まない中、経済格差の二極化だけがどんどん進んでおり、もはや「経済」問題を回避して、政策の良し悪しを論じることなどできないのが明らかな危機的状況なので、さすがの私も、やっと重い腰を上げ「経済」の勉強を始めたところなのである。

私のような人間にとっては、本書の文学的な部分(思想、哲学、人類学、歴史学)は平易すぎるほどに平易だが、やはり肝心の「経済」の部分になると、途端に頭に入ってこなくなる。
それでも、文系的常識をくつがえされた部分について、一つだけ書いておきたい。それは「借金無くして、経済的発展は無い」という、経済の基本である。

私たちの常識では「借金は、しないで済めば、それにこしたことはない」ものであり、その意味で「借金は、好ましからざるもの」であろう。まして「借金を返すのは当たり前のことで、借金を返せないというのは、罪悪である」ということになろう。こうした倫理観に異論を唱える人は多くないはずだし、現在、日本の政府が進めている「債務の抑制」も、こうした倫理観によって支えられている。

しかし、話を「経済」に限定して言えば、前述のとおり「借金無くして、経済的発展は無い」のだから、「借金は、悪徳ではない。(悪く言っても)必要悪だ」ということになろう。喩えて言えば「飯を食わずに生きていければ、それに越したことはないが、そういうわけにもいかない」というのと似たようなことだ。
つまり「経済を回すための借金」は、是非を論じるまでもなく「必要なもの」であり、あとは、その「必要」なものを、どのように「弊害少なく、うまく運用できるか」という問題なのである。

私のような「経済」にうとい者は、「銀行は、私たちの預貯金を、企業への融資に転用することで、その利ざやを稼いでいる」くらいに思っているが、経済をすこしでも知っている人にとっては、これは笑うべき、時代錯誤な認識である。つまり「金本位制」時代の、前時代的認識そのままだということだ。

私たち「経済の素人」は、未だに「金を貸すからには、その裏づけがあるはずだ」と思っている。言い変えれば「持っている以上の金を、他人に課すことはできないし、それをするのは詐欺で無責任だ」という感覚があるはずだ。しかし、現在の「経済」は、そのような「実体的裏づけ」のない「数字」の操作の上で回っている。これが「事実」なのだ。

つまり「銀行」は、実際に持っている以上の金を、起業家に融資する。起業家が、予測どおりに儲けてくれれば、裏づけがなかったはずのお金が「儲け」を生むのである。だから、問題はないし、そのようにうまく回転させるために、融資には審査があるのである。
これは、銀行の親玉である「日本銀行」も同じで、国の経済を回すために「お札」をたくさん刷って、経済活動を誘発し、それがうまくいけば、裏づけのないお金を刷って作った借金以上の儲けが生まれるのである。

もちろん、これは「うまくいけば」の話であって、時には失敗して「経済恐慌」を起こすこともあるのだが、だからと言って「借金はダメ。持っている元手だけで、堅実に経済を回すべき」だなんて言っていたら、経済成長は望めないし、逆に衰退していく一方。中間的な「現状維持」など無いのだ。だからこそ「経済には、健全で適切な借金の運用が、是非とも必要」だ、ということになるのである。

以上の、私の「理解」には、間違いがあるかもしれない。それは私の誤解であって、本書著者の間違いではない。だが、本書が、典型的な文系人間である私に、このような「驚くべき現実」を教えてくれたというのは事実である。
人間的な(一般的な)「倫理」と、経済的な現実における「倫理」を、何も知らないままに同一視していると、私たちは「経済」を破壊衰退させてしまうかも知れないのだ。言い変えれば「貯め込めば良い」というものではないのである。

欲にかられた「不適切な借金の運用」は、その身を滅ぼすことになるのだが、しかし、個人には可能な「ただただ固く無難に、守りの姿勢を貫く」だけでは、国家社会レベルの経済は死んでしまう。だから、是非とも「経済には、健全な借金の運用が必要」なのである。

そして、文系的に言えば、「健全な経済活動」が、なぜ必要なのかと言えば、それは、すべての人が平等に最低限の生活を営むための基礎だから、である。

『 先ほど聖職者とその役割について話したときに、支配者が余剰を独り占めしても許されるような考え方が植えつけられたと言った。金持ちも貧乏人も、そんな考え方を当たり前だと思うようになってしまっている。
 金持ちは、自分がカネを持つに値する人間だと思い込んでしまう。君自身も、気づかないうちに矛盾した思い込みに囚われているはずだ。
 お腹を空かせて泣きながら眠りにつく子どもたちがいることに、君は怒っていた。
 だけどその一方で、(子どもはみんなそうだが)君自身はおもちゃや洋服やおうちを持っているの当たり前だと思っているはずだ。
 人間は、自分が何かを持っていると、それを当然の権利だと思ってしまう。何も持たない人を見ると、同情してそんな状況に怒りを感じるけれど、自分たちの豊かさが、彼らから何かを奪った結果かもしれないとは思わない。
 貧しい人がいる一方で、金持ちや権力者(といってもだいたい同じ人たち)が、自分たちがもっと豊かになるのは当然だし必要なことだと信じ込むのは、そんな心理が働くからだ。
 しかし、金持ちを責めても仕方がない。人は誰でも、自分に都合のいいことを、当たり前で正しいと思ってしまうものだ。
 それでも、君には格差が当たり前だと思ってほしくない。
 いま、十代の君は格差があることに腹を立てている。もし、ひどい格差があっても仕方ないとあきらめてしまいそうになったら、思い出してほしい。どこから格差がはじまったのかということを。
 赤ちゃんはみんな裸で生まれてくる。高価なベビー服を着せられる赤ちゃんがいる一方で、お腹を空かせて、すべてを奪われ、惨めに生きるしかない赤ちゃんもいる。それは赤ちゃんのせいではなく、社会のせいだ。
 君には、いまの怒りをそのまま持ち続けてほしい。でも賢く、戦略的に怒り続けてほしい。そして、機が熟したらそのときに、必要な行動をとってほしい。この世界を本当に公正で理にかなった、あるべき姿にするために。』(P42〜44)

初出:2020年9月30日「Amazonレビュー」