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note利用者の〈特異な傾向〉(2)

前回は、私の記事への「スキ」の付き方から、note利用者の傾向として(Amazonカスタマーレビューの閲覧者と比較して)「書き手」意識か強い(相対的に「読み手」意識してが薄い)のではないか、と指摘した。

その際も指摘したとおり、これは「立場」意識の違いであって、良し悪しの問題ではないのだが、「書き手」意識が強いと言われて、悪く言われたと感じる人は、あまりいないはずだ。しかし、くりかえすが、これは良し悪しの問題ではない。物事には、プラスマイナスの両面があるからである。

「書き手」意識が強いというのは、創造性において積極的であるとか、自己表現に積極的である、という点では、たしかに「良い」と言えるだろう。
しかし、私が思うに、note利用者は「私が」という自意識が強い。だから、自己表現に積極的なのであり、これを今どきの言葉で言えば「承認欲求」が強い、とか、それにとらわれている、そんな人が多いのだとも言えるだろう。
一一同じことをこのように表現すると、あまり高評価には聞こえないし、好印象を与えないのではないだろうか。

私が、このように感じるのは、AmazonレビューやTwitterなどでは反応の大きい、社会・政治問題系の話題に対する反応が、noteでは鈍いように感じたからだ。
つまり、意識が「自己(表現)」に向かっていて、あまり社会性(他者性)を持っていない。社会的なことを語っていたとしても、それは自己表現のため(の道具)であって、運動的な具体性や主体的な関わりが、そこでは欠けるように感じるのだ。

つまり、note利用者の意識とは、端的に言って「私を見て」「私を(特別な存在だと)認めて」というようなものなのではないだろうか。

こう書かれて不愉快な人は、たぶんこの指摘が当たっているからだろう。
だが、この指摘が当たっていたからといって、なにも卑下する必要はない。今の時代、多少の承認欲求があるのは当然で、無い方が不自然だからだ。

したがって、私がここで、note利用者の「承認欲求」の強さを指摘したからといって、それは単なる否定的な批判なのではない。
そもそも、クリエイターになろうというような人間は、多かれ少なかれ「自意識過剰」なものなのである。

だから、大切なのは、自身の「自意識」の強さ、「承認欲求」の強さを自覚し、それをコントロールすることなのだ。

そんなものは私には無いと、自身を無欲な聖人君子ででもあるように思い込もうとしても、そんな「自己欺瞞」は、すぐに他人に見抜かれて、逆に赤っ恥をかくことになるだけだろう。
だからこそ私は、この、note利用者においては比較的当たり前であろう傾向性を、あえて指摘したのである。

人は、自分が「目立ちたがり屋」だなどとは認めたくないものだ。
しかし、別に「目立ちたがり屋」が悪いわけではないのだから、そんな自分の本音をきちんと自覚して、うまくコントロールした方が、自分も(無駄に間違った足掻き方をしなくて済むから)楽でいいよ、ということなのである。

「目立ちたがり屋」であることが悪いのではない。
「目立ちたがり屋」にも、良い「目立ちたがり屋」と悪い(ダメな)「目立ちたがり屋」がいるということであり、前者になれるように、自覚を持って、うまく自身をコントロールすべきだという、これはそういう助言なのである。