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恋愛至上主義社会からあぶれたわたしたち

だいすきな友だちに彼氏ができた。

衝撃だった。いきなり死角から顎パンチを食らった気分だ。

「あ、付き合うことになったよ」

LINEの一行にこれほどのダメージ力があるとは思っていなかった。

いや、2週間前に一緒に出かけた時、彼女から何度か食事に行った男性がいるという話は聞いていたので覚悟はしていたのだ。

それにしてもこんなに早く結ばれてしまうとは。完全に心の準備ができていなかった。

おめでとう、という気持ちもうっすらとシミのように広がってきてはいたが、それ以上にクレヨンで塗りつぶされるような悲しみに急速に侵食されていた。

これが傷心、ハートブレイクの風味というものか。

報告を受けたその日、わたしは心の中で「さみしいーーーー!」と叫びながら夜道を一人でとぼとぼと歩いたのだった。


彼女は、中学時代からの友人だ。親友と書くとなんとなく安っぽく響くので控えるが(関係性や間柄にすぐに名前をつけたくなってしまうのはそれがないと不安になってしまうからではないかとわたしは思う)、わたしにとっては常にこころの支えとなっている、とても大切な存在だ。

昔から冷静でさっぱりとした性格で、誰に対しても態度を変えず、思ったことをきちんと口に出して伝えられる人だった。

美人で人気者の彼女とわたしが仲良しでいられた理由のひとつに、共通して冷めた恋愛観を持っているということがある。

わたしも彼女も、恋だの愛だの彼氏だのなんだのいうものは、総じて面倒くさい厄介なものと捉えており、人生の中で極力回避したいものなのだった。

中学時代、友人のうちの多くが恋愛ドラマにはまり、恋バナに明け暮れ、頬をピンクに染めてそれぞれの想い人を追いかけていた。

そんな子たちの話を聞くのは楽しかったが、好きな人や恋人の趣味や気分、スケジュールに自分が合わせていき、時には振り回されるという恋愛たるものは、すげえ面倒くさそうだな、というのが正直なところだった。

わたしたちは自分で自分の機嫌の取り方を知っていたし、さらに楽しみたい場合は、友人たちと一緒に過ごせば良かった。

それで充分、充実した日々を送れていたのだ。

つまり、彼氏などというわけのわからない存在がわたしたちの生活の中に入る隙間などなかったのだ。

周りで彼氏持ちの子たちはちらほらいたので、惚気話を聞いてはかわいい〜!といじり、カップルが二人、手を繋いで下校しているのを見てはニマニマするなどはしていた。

ただ、わたしたちは別に彼氏必要ないね、という感じだった。

高校に入り、お互い彼氏ができたこともあったが、「彼氏のことは別に嫌いじゃないけど、ねねと一緒にいた方が楽しい」「わたしが男だったらねねと付き合いたかった」と彼女は言ってくれたし、わたしも同様のことを何度も彼女に言った。

全く可愛気のない彼女らだったろうと思う。

わたしたちは、恋愛至上主義社会にあぶれた人間だった。


そんな彼女に彼氏ができた。

これまで彼女に彼氏ができた時のようにわたしが余裕を持っていられなかったのは、今回、彼女は結婚を目的に彼氏を作ったからだ。

彼女は、わたしを含む多くの社会人と同様に、働くことに疲れていた。自分だけのためにこの先何十年と働くことはできない。だけど、子どもを守るためなら頑張れる気がすると考えた。ただ、ここで立ち塞がるのが、子どもは父親がいないと生まれないという大問題だ。

生きがいのための子ども。その子どもを生み出すために必要となるのは男親。そんなわけで仕方なく彼女は父親候補探しに繰り出したというわけだ。

冷酷までにドライな発想がまた彼女らしいのだが、彼女のお眼鏡に叶う男性がこんなに早く現れるとは思っていなかったのだ。

ひとしきり悲しみに沈んだが、彼女が結婚を考えるくらい素敵な人と出会えたのであれば、それは紛れもなく素晴らしい出来事だ。

こうなったらわたしは、絶対に間違いなくかわいいに決まっている彼女の未来の子どもを馬鹿みたいに愛でる友人Aとして生きていこうと思う。

肩を組んで一緒に歩む強力な相棒を失ったが、わたしはわたしでこのまま独身ロードを進んで行くのだろう。

独身も、きっと楽しいよ。


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