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野外保育現場から学んだ「思考の多様性」と「社会の多様性」のこと|本当のしあわせってなんだろう?

今日、山梨県韮崎市に、ある講演会を聞きにいきました。
同県北杜市にある「森のようちえん ピッコロ」の15周年記念で作られた映画の上映会と、代表の中島先生、保育スタッフ、保護者のトークショーです。

私は自己紹介でも書いた通り、10年前保育士をしていました。
自分が保育士をしていた時は、上司や保護者の目を気にしての保育ばかり
子どもを人として尊重したいのに、座る場所から一挙手一投足まで、全部を決めつける保育しかできなくて、そのギャップに戸惑っていました。
自分はなんでこんな保育しかできないんだろう、もっとのびのびしたい保育がしたいのに…

こんなはずじゃなかった

私はそんな思いを抱えながらの保育で心を病み、闘病生活を送ることになったのです。

今、障害者になり、多様性について発信している中で、「ほんとうのたようせいってなあに?」を未来の社会を担う子どもたち、そしてその保護者と考えたいと思い、子どもの思考の多様性についてまずは知るべくこの講演に参加したのです。

私はこの講演会で、たくさんの「私が探るほんとうの多様性」と通ずる部分を見つけてきたので、今日はそれをご紹介します。


あなたが思ってる相手の気持ちは「仮」のもの


まず、『森のようちえん  ピッコロ』についてはHPをご覧ください。
野外保育を行う幼稚園ですが、他の幼稚園と一味違うのは、「大人が決めない」「子どもを最後まで信じる」という保育方針です。

大人が思ってる子どものことって大体的外れ
子どもがしていることを大人は「いたずら」と捉えても、子どもにしたら「お母さんのために〇〇をしようとして失敗した」という場合もあります。
大人と同じように、子どももいろんなことを考えてる。
ひとつの角度から見る教育や保育ほど、勿体無いものはないと思います

私たち障害を持つ人たちと、障害がない健常な人もそういう関係にある。
健常の人が考える障害を持つ人の気持ちって、結構的外れなことが多いんです。

たとえば「障害って、”障がい”って書いた方がいいよ」という健常の人は多いけど、そうやって言う障害当事者は少ないよねえ、と今日その園の保護者の方と話をしました。
私は、自分の障害について書くとき、「障害」と表記します。
障害は実際あるものだし、社会的な障壁はものすごく多いからです
中には「障がい と表記してほしい」と言う当事者もいるかもしれません。
いろんな考え方があるし、あっていいんだと思う
でも「障がい」と言う表記をすることで、生きていく中で社会的な障害を感じている人々の苦悩を「なかったこと」にはしてほしくないなあ、と言うのが正直な気持ちです。
「障がい」と書く人を否定しているわけではなくて、その気持ちを分かった上で、「障がい」と表記してほしいなあって思う。

それで言うと、「障害は個性」と言う健常者の考え方も、案外、的外れかもしれません。
私は実際この言葉と何年も戦ってきました。
私の障害って、個性なのかな。でも個性で終わらせるにはあまりにも辛すぎる」って思っていました。
当事者自身が個性と言われて幸せを感じるなら個性でいいし、個性と言われて「ちょっと違う」と苦しい思いをするならその人の障害は個性と違うんです。
それは周りが「個性だね」「個性じゃないね」とか言うより、本人が胸を張って言える時に言ったらいい言葉なんじゃないかな、と思う時も多々あります。

きっと障害者から見た健常者も同じような感じですよね。
私の書いていることは、必ずしも「正解」ではないんです
健常者の中にもこれを読んで、「おや?」と思う人はいるかもしれません。
その気持ちも私の気持ちも確かにあるもので、嘘じゃないし、それはお互いに否定するべきものではない。
それぞれに、それぞれの思いには理由があるから。

子どもが喧嘩した時、気持ちを大人が代弁して仲裁するケースもありますが、それと同じです。
お互いにお互いの思いを思いやるには、「私はこんな気持ちがあって言ったよ」とか、「そうなんだ。私はあなたへのこういう思いがあってアクションしているよ」とか、意思の開示も大事なことなのかなあ、と思います。

「〜かもしれない」思考は社会の生きやすさを作る

昔の教育で大人から色々決められて育った人の中には、物事を一点集中で考えてしまっていろんな角度から子どもの思考を観察するのが難しい人もいる、と言う話を聞きました。
確かに「人に迷惑をかけるべきじゃない」とか「学校に行くべき」とか、私たちは「べき」の社会の中で育ってきたから、固定概念にがんじがらめにされているのかもしれません。

それを覆すのが、「〜かもしれない」という思考を働かせること。
「学校に行きたくないのは友達と何かあったからかもしれない
「本当に人に迷惑をかけてはいけないという概念自体、そうでないかもしれない

ピッコロようちえんでは、保育の中で子どもを信じ、子ども主体で活動をします。
子どもが喧嘩をしたら、手っ取り早く1日で済まそう、とはしません。
あの子は「〜な気持ちだったかもしれない」と、じっくりその子を取り巻く大人が、そして子どもが想像力を働かせます。

障害者は、不幸とか、可哀想とか思われがちです。
本当にそうでしょうか。
目の前にいる障害当事者は、本当にそう思っているでしょうか。

「不幸なんて感じたことがないかもしれない
「これはこれでいいじゃん、って思ってるかもしれない
「こんな自分もイケてんじゃん、って感じているかもしれない

かもしれない思考は人の困りごとや、マイナスの部分だけに働かせるものではないし、プラスの部分だけに働かせるものでもないと思います。

統合失調症で自分中心と思われがちな人が、なぜ自分中心と思えるような動きをしてしまうのか。

「あの人に良く思われたかったのかもしれない
「目立って褒められたかったのかもしれない
「それが誰かのためだと思っていて、裏目に出たのかもしれない

かもしれない思考はいろんなところで活躍します。
もちろん子育てだけじゃない。
障害者理解だけでもない。
友達や、会社の人間関係などでも、いつでも自分の概念を疑って、「〜かも…?」といろんな角度からその人の気持ちを観察することで、人同士が歩み寄れることもあると、今日のお話を聞いて感じました。

いつもまっさらな心で社会を考えよう


私は保育の現場にいる時、「子どもを安全に家に帰さなきゃ」「成長させなきゃ」「ちゃんと真っ直ぐ育てなきゃ」って思っていました。
私は「〜するべき」に囚われすぎて、「先生」「大人」になりすぎたのかもしれない
子どもと同じように、対等になることで見えたこともあるんだと思います。

それから、中島先生をはじめ、ピッコロようちえんの大人たちはみんな、まっさらな気持ちで、子どもの気持ちを自分の概念抜きで白紙から考えます
子どもと一緒に考え、子どもと一緒に大人になっていく。

私は時々「多様性」って言葉にがんじがらめにされてしまうこともあるけれど、嘘じゃない「私のきもち」を私が認めて、私が1番信じてあげられるように、そして社会をいつも「本当に、そうかな?」っていろんな角度から見れるように、いつもまっさらな気持ちで多様性を考えていきたいな、と思います。

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