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透明人間だった私

1、どこにもいない自分

私は高校時代の思い出がほとんどない。そこにいた自分があまりよく思い出せない。思い出そうとしても記憶にモヤがかかっているし、心のブレーキがかかるようだ。友達と遊んだ記憶もない。そもそも、遊んでいないから当たり前だが。

大学に入ってから、高校時代の1番の思い出は?と聞かれて答えに窮したのは言うまでもなく、なんとか絞り出して答えたものの全くしっくりこなかった。とか言いつつ、3年間皆勤賞だし部活だってやっていた。それなのに思い出と言えるものがないのである。まるでそこに自分が存在していなかったような感覚になる。

確かに楽しかった気がする、人間関係も良好、周りは賢い人ばかり、ウィットの富んだジョークが飛び交う日常。いじめられてもいない。「良いじゃない、なんて平穏で楽しい高校生活!」きっと多くの人はこのように反応するに違いない。

きっとそうなのだろう。

それなのに、自分の存在が認識できない。

どうしてだろう、何がそうさせたのか、、。

2、浪人時代

その答えは一年の浪人期間を経てようやく解明する。

2019年、私は浪人生となった。自分と向き合う時間を十分に与えらえた。高校3年間、用事がなければ自分の部屋という聖域に篭っていたから、ほとんど自分と向き合っていたようなものだけど、真に向き合ってはいなかったようだ。

浪人は人生で一番充実していた。本当に楽しかった。何より自分が「自分」であると認識できたから。何をしたかを具体的に思い出すことはできないが、自習室にいた私、教室にいた私、机に向かってひたすら勉強していた私、(1日のほとんどを座っていたせいで痔になった)ラウンジでご飯を食べながら勉強していた私、勉強の合間の散歩と一欠片のチョコを食べる時間も自分と向き合っていた私、類稀なる才能と非凡な性格を持った友人に刺激を受けた私、模試を受けた後も自習室へ駆け込んだ私、試験を受けた私、全ての私がようやく一つに統合したと感じた。その時間、その場所で、確実に存在したのが、誰でもなく私自身なのだと心から実感できた。そして、何より大学にも合格した。

1年間の浪人生活の成果は、大学合格もさることながら、大きく分けて2つある。

一つ目、自己認識することができたということだ。自分の能力を過大評価せず、自己を客観的に見ること。高校3年間はそれが全くできなかった。特に私が在籍していたのが進学校だったこともあり、努力しないものの居場所はなかった。それなのに努力もせず、周囲と自分を同一化し、自分には能力があるという根拠のない自信を持っていた。だからこそ、主観的な自己認識と客観的な自己認識に乖離が生まれてしまったのだと思う。客観的な自分に向き合う勇気も自信もないせいで、「逃避」に走った。さもそこに自分がいないかのように思い込むことで自分を守ったのだ。以下のサイトによると、能力の低い人ほど自己認識がうまくできないようだ、まさに私。サイトにリストアップされていた特徴の全てに当てはまっていた。

二つ目に、自分に自信が持てたことだ。朝から晩まで勉強に勤しむ生活は、ある意味健康的だった。私の体と心を蝕んでいた根拠のない自信をそぎ落とし、否が応でも弱い自分と向き合わざるを得ない状況にした。後がない怖さ(もう一年浪人にしたら大学入学共通テストを受けなけばならない)、勉強をするしか今の状況を脱せない辛さ、しかし、勉強をすることで少しずつ未来が明るくなっていく希望。常に先が見えない不安を抱えていたが、ただ愚直に勉強に邁進していたような気がする。そうして培ってきた自信は私の血肉となり、精神を強くした。

「どうすれば自信がつきますか?」ある生徒が講師に質問していた。私の尊敬する講師は言った「自信は後からついてくるもの。今頑張れば、自ずと自信はついてくるよ。」まさにその通りだった。根拠のある自信、自分を信頼できる嬉しさ。これは、とてつもなく私が私として生きられる強さに変わった。

浪人を終えてから母が言った。

「ようやく膿が出たね。透明人間だったもんね」

ああ、そうか、私は透明人間だったのか。妙に納得した。そこにいるのにいないような感覚を見事に言語化した言葉だった。自分の自信のなさから、殻に籠って自分を守り、うわべだけで人と接していた日々。

そんな透明人間から脱却する方法は一つだけ。自分と向き合い、弱い部分に目を瞑らないこと。その手段が私にとっては勉強だったのだ。

もし、高校時代にこの事実に気がつき、自分と向き合っていたら、どれほど多くの経験と楽しい思い出を作ることができたのだろう。どれほど友達と本音で会話できていただろう。後悔を挙げ連ねてもなんの意味もない。

今できることは、過去から学び、未来に進むだけ。

さて、今それができているのか、また過去の自分に戻っていないのか。それを自問するために、こうして改めて自分と向き合っている。

3、終わりに

私の人生の転機となった出来事を時系列を追って言語化するまで、2年の月日がかかった。実際、この文章は一息で書いているが、重い腰を上げ、暗黒の高校時代という、ある意味パンドラの箱を開けるのには時間を要した。しかし、こうして言葉にしたのには何か意味があるはずだ。確かに、ここ半年ほど、大きな課題が鎌首をもたげて私にのしかかっている。そして私はその課題から目を背けて逃げているのかもしれない。また、自己認識の乖離に陥りかけているのかもしれない。それを再確認するために、過去の過ちを繰り返さないために、私はこの文章を書いているのだと思う。

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