トルストイの日露戦争論/「平民新聞」の関連記事(1)
先だって、「平民新聞」の記事をマイクロフィルムで閲覧し、またプリントアウトを取る機会がありました。
見落とした記事もあったようですが、とりあえず今回入手した範囲のトルストイ論文関連記事を文字起こしし、以下にご紹介することにします。
なお、既に文字起こし済みの論文本体(平民社訳)と「トルストイ翁の非戦論を評す」は、もちろん省略します。
これ以外の記事を別途文字起こしする機会があるかは分かりませんが、一応(1)としておきます。
※文字起こしの方針等は基本的に論文本体と同じです。原文ママを基本としていますので、例えば「トスルトイ」などとあっても、それを「トルストイ」に「直す」ようなことはしていません。
※元記事には、文字に傍点がついているなどの修飾も見られますが、基本的に反映していません。ただ、小文字で書いている部分は、ある程度「それっぽく」してみました。
※記事中のある文が一行ぴったりで終わった場合には、句読点の類を省いている……というように見える箇所もあるのですが、この文字起こしでは、それについては一切判断せず、そのまま次の行の文に続けるようにしました。
(参考・再掲)
明治卅七年七月廾四日づけ「平民新聞」(第37号)5ページ2段目〜3段目「トルストイの戦争反対大論文」
●世界之新聞
○トルストイの戦争反対大論文 トルストイ翁が倫敦タイムスの紙上に戦争反対の大論文を載せたる事は曩[さき]に本邦にも電報せられしが、今米国新聞がそれに就て受取りたる電報を見るに、略[ほぼ]その内容を察するに足るものあり、曰く
トルストイをして若し日本人ならしめば彼れが日本を攻撃すること決して茲に止[とど]まらざりしを知らざる可らず
※この同じページの上には、有名な「露国社会党に与うる書」に対する、ロシア社会党の返文が紹介されています。
明治卅七年八月七日づけ「平民新聞」(第39号)1ページ1段目〜6ページ3段目「トルストイ翁の日露戦争論」
※省略(過去記事の文字起こしを参照)。
なお、加藤直士訳の序文には「平民新聞亦全紙面を割いて之を訳出せり」などと書いてありますが、これは少々大げさで、マイクロフィルムで確認した限りでは、全8ページ中の5.5ページほどがこの論文に充てられていました。)
明治卅七年八月十四日づけ「平民新聞」(第40号)1ページ1段目〜4段目「トルストイ翁の非戦論を評す」
※省略(過去記事の文字起こしを参照)。なおこの号、同ページの下に次の記事。また、2ページ目に「ト翁と日本の論壇」。
明治卅七年八月十四日づけ「平民新聞」(第40号)1ページ5段目(最下段)「THE INFLUENCE OF TOLSTOI IN JAPAN.」
Sunday, August 14th, 1904.
THE INFLUENCE OF TOLSTOI IN JAPAN.
The name of Tolstoi is now quite familiar to the Japanese, and especially, since the war broke out, his views on war have been quated in the papers here with great interest. His article on war that appeared in The “London Times” was reproduced in the last number of our paper. So we think it timely to speak a little about his influence in this country.
It was about fifteen or twenty years ago that his name began to be talked about among us.
Indeed he was introduced to us at first as a great literary genius. If our memory serves us rightly the Min yusha was the first to publish the Life of Tolstoi in vernacular, together with those of Carlyle, Emerson, Hugo etc. His literary works are well known in our reading circles, and his new works have always been welcomed with great enthusiasm. The translation of “The Resurrection,” one of his recent works, appeared in one of the papers here last year. But his influence as a man of literary art is overshadowed by his greater and deeper influence as a religious thinker.
I dare say that his professed followers in this country are by no means many, but that he is moulding the religious belief of the Japanese indirectly is doubtless true. During the last few years, several of his religious works have been translated ; and “My Religion” or “My Confession” is preaching a new Gospel even to those who read neither Russion nor English. The prophet-like austerity of his teachings does not apparently attract many admirers, because it is not easy for men of weak purpose to bring his teachings into practice. But we do nat doubt that there are sincere and earnest followers of Tolstoi in our country, though their numbers may be small. We welcome his teachings with open hands, because we believe that they are a healthy autidate to the degrading influence of the modern civilization.
But Tolstoi's mission as either literateur or religionist is perhaps not so conspicuous as that of his anti-militarism. At this time his image is reflected to the Japanese eyes as a huge incarnation of non-resistance who fearlessly declares his principle irrespective of time and place. For him there is no distinction between Russians and Japanese ; therefore he condemns both nations as responsible for this bloody war. His book, “The Kingdom of God is within you,” may be considered as a standard work elucidating the principle of anti-militarism ; and we believe it will be translated some day.
Russia may well boast of having such a great man as Tolstoi, though he may whole wored, rather than by a nation.
The Greek Church can neither persecute him nor the Tzar expel him from the country ; he stands like an immovable mountain on the unstable strata of Russian society. The Russians had better lose Manchuria than to see Tolstoi expelled from Russia. The fact that the Russian Government gives comparatively much freedom of speech to Tolstoi, indirectly influences Japanese socialists who are constantly protesting against the war. If a goverument so despatic as the Russian, government is tolerant toward Tolstoi, it is no wonder that the Japanese government, which pretends to be more refind and constitutional, takes Such a geverous attitude towards socialists. Tolstoi is a perfectly harmless man, therefore if he is loaked upon as dangerous to Russian society, it is not his fault but on account of a defect inherent in that society. In the same way, the government that persecutes men who hold anti-militarist principles, simply shows that it has some weakness in itself.
※平民新聞の1ページ目最下段は毎号、英文の記事が載る欄となっていて、これがいろいろ活用されていました。
※安部磯雄は、トルストイあてに書簡を書き送り、それにこの英文記事及び、トルストイ論文の日本語訳(=第39号)を同封しました。この文通については過去記事を参照。
※文中、誤植ないし誤スペルが疑われる部分もありますが、やはり全て原文ママとしています。
当方で「気になった」ものとしては
quated(quoted?), Russion(Russian?), nat(not?), autidate(antidote?),
If a goverument so despatic as the Russian, government is tolerant toward Tolstoi,
→If a government so despotic as the Russian government is tolerant toward Tolstoi,(?)
refind(refined?), geverous(generous?), loaked(looked?)……など。
明治卅七年八月十四日づけ「平民新聞」(第40号)2ページ5段目(最下段)「ト翁と日本の論壇」
●ト翁と日本の論壇
▲トルストイ翁の日露戦争論は、大に欧米の論壇を騒したが、日本には案外反響を見出さない、之が全文を掲けた新聞は『東京朝日』と本紙のみで、外には加藤直士氏が一冊の書物に訳して有隣堂から売出す筈、又本文は載せないで、批評のみを書たのは、『国民』、『電報』『読売』位いで、其他にもあったかは知らぬが、我等には見当らなかった
▲『国民』は、翁が露国を攻撃した点に対しては『是れ恐くば天がトルストイ伯の口を仮りて、露国の罪悪を弾劾せしめたる言なるべし』と賞賛しながら、日本の行為を攻撃したのを見れば、此に至りて伯も亦スラーヴ人の本色を脱する能わず候』と直ぐ中傷を試みて居る
▲ト翁の意見の当否如何に就ては、欧米到る処、随分激しい議論もあったが、未だ翁の正直、真摯、公平なのを疑った者は一人も無かった、其之れ有るは蓋し国民記者を以て矯矢とするであろう(a)
▲『国民』は又翁の如き極端なる非戦論を生したのは、露国が極端なる侵略国なるが故なりといい『但だ我帝国の如き、立憲国、平和国に在りて、伯の口吻を摸するは畢竟無病呻吟の徒なり』と非難し、『電報新聞』も亦翁の言説は露国には善いが、日本人には穏健でない、其儘我に行わんとするは、大なる誤りだと絶呌して居る、余程お気が揉めると見える
▲彼等は皆な日本の非戦論をもて、直ちにト翁の流れを酎み、ト翁の意見を信仰する者として居るらしい、『読売』の如きも、トルストイも日本の非戦論者も古の古公亶父の無抵抗主義の範囲に出でないと評して居る(b)
▲彼等は社会主義者の議論と個人主義のト翁の議論とを全く混同して居るのである、否な其区別を知らないのである、甚しきはト翁を以て社会主義者なりと信する者もあれば、社会主義者を以て直ちに耶蘇教信徒なりとする者もある
▲戦争の罪悪と悲惨とを認めることは、社会主義もト翁も同じだ、恐くは天下皆な同じである、而も其起因の診断と其救治の方法とは全く違う、日本に於て強てト翁と同じ意見の人を求むれば、内村鑑三君一人位いなものだ、社会主義者の戦争に対する救治の意見は、内村君と異なる如く、ト翁とも異なるのだ、我等は世間の新聞記者諸君が、今少しく社会主義の論旨の如何を研究して貰いたいと思う
▲別に我等に奇異を感じて起させたのは、トルストイ翁の崇拝者として紹介者として反訳者として名高い加藤直士君が『新人』雑誌紙上に自分が、戦争論者たることの言訳を書く其筆序でに、日本の非戦論者を罵しって居ることである
▲加藤君も亦、ト翁の非戦論は善いが、日本人の非戦論は悪い、日本の非戦論者が主戦論者に対して非人道と罵り、悪魔と呌ひ罵詈するものは、ト翁の精神とは違うのだと書いて居る、併し世に反対論者を罵詈することト翁の如く酷烈な者はあるであろう歟
▲加藤君は更に、日本の非戦論者は、軍人や其遺族の悲惨や災厄に同情せぬから、非人道没道義だと怒って居る、彼は何を根據として、そんなことを言うかは知らぬが、軍人や遺族や其他一切の悲惨災厄が、見るに忍びねばこそ、非戦論も出て来るではない歟、
▲要するにト翁に対する日本論客の意見は、非戦論は露国に適切だが日本には宜しくないというに帰着する随分都合の善い論法だ、ト翁をして聞かせたら何というだろう(c)
※タイトルほかの「壇」の字は、実際の印刷では右下「且」の形。
(a)…「真摯、公平」と文字起こしした部分は判読難しく、おそらくということでアテたもの。また矯矢→嚆矢の誤りか?
(b)…「古公亶父」については、次のような説明記事がありました。
(c)…元の新聞のレイアウトでは「帰着する」のところで行末となり、「随分都合の」以下は次の行。句点が省略されただけで、文章としては「帰着する」で切れていると見ることも可能だと思います。
(ここは特に「気になった」ので、冒頭の断り書きとは別に、あえて付言しておくことにしました。)
明治卅七年八月廾一日づけ「平民新聞」(第41号)3ページ1段目〜2段目「ト翁日露戦争論の勢力」
●世界之新聞
○ト翁日露戦争論の勢力 ト翁の日露戦争論一たび倫敦タイムスの紙上に現れてより、欧米の社会は到る処に之を伝唱せざるは無く、新聞雑誌は一として之を紹介せざるは無く、数日の後には更に無数の小冊子に刷出[さっしゅつ]せられて各地方に配布せられたり、露の本国に於てはノヴオスチ{今日の一般的表記では"ノーヴォスチ"}新聞が之を紹介して発売を禁ぜられたること前号所報の通りなるが、今又米国新聞の報ずる所に依れば、ト翁は彼の一文を倫敦タイムスに寄するの前聖彼得堡[セントペートル]{今日の一般的表記では"サンクトペテルブルク" 等}の革命委員会に送り同会は秘密に之を印刷して広く全国内に配布したりと云う、皇帝を罵って『昏迷せる一少年』と云えるが如き、ト翁は蓋し其老躯を擲つの覚悟ありたるなるべし、然るに露国政府は此不敬漢、不忠者、非愛国者に対して一指を加うること能わず、米国の雑誌『新時代』之を評して曰く
然り露帝[ツアール]{今日の一般的表記では"ツァーリ" }の無上権力も亦、正義に依れば一個のト翁を奈何[いかん]ともすること能わざる也、日本の新聞雑誌は之に就て多くを語らず、(否、語るを欲せず、又語ること能わず)と雖も、本紙のトスルトイ号(卅九号)が再販となりたるを見て、以て人心の趨向を察すべし、浦潮[うらじお/ウラジオ]{今日の一般的表記では"ウラジオストク"等 }艦隊全滅を歓呼する提灯行列の間を縫うて、此の非戦論の一紙片が心ある人々の手より手に渡されつつあるを想えば、吾人は茲に無限の感慨なきを得ざるなり、噫ト翁の力は(即ち正義の力は)真に偉大なる哉
(※今回、ノーヴォスチ紙発売禁止の記事は見落としたようです。)