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私が好きな夏目漱石の講演(の枝葉部分)番外編 「吾輩は猫である」より「結婚が不可能になる」議論

前置き

(承前)
さらに勢いで。と言っても、今回はタイトルに偽りありでして、講演ではなく小説。
日本人なら誰でも知っている(?)「吾輩は猫である」。

これを読んだことのない日本人はまずいない……というイメージすらある「猫」ですが。
これから引用する箇所はあんまり話題にのぼらないような。
皆さん、読んでるようで、実際にはあんまり読んでなかったりするのでは?と、ちょっと疑問が湧くところです。

引用箇所は小説のラストに近いあたり。「いつもの面々」が、あーでもない、こーでもないと、浮世離れした哲学的(?)議論を交わしているのですが。その中で迷亭氏が語る、冗談とも本気ともつかない「未来記」の一部分。

これまでの記事以上に引用の分量が多いですが、太字にした部分だけを拾えば、一応の話の流れは追えるのではないかと思います。
とは言え、大文豪の代表作ですから、できればトータルで味わっていただければと(笑)。

「吾輩は猫である」より「将来、結婚が不可能になる」議論(附:芸術も不可能になる)

僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢を卜すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛でも人を侵してやろうと、弱いところは無理にも拡げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家一門ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考ではいっしょにいるから夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。いっしょにいるためにはいっしょにいるに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか云って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前なんだからね。それだから偕老同穴とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴を穿いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。……」
「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が云った。
「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。
今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲しているものは夫婦の資格がないように世間から目されてくる」
「すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と寒月君は際どいところでのろけを云った。

未来記の続きを話すとこうさ。その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説に曰くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしくも人間の意義を完からしめんためには、いかなる価を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ知らず、文明の今日なおこの弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき謬見である。開化の高潮度に達せる今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫に合巹の式を挙ぐるは悖徳没倫のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手で膝頭を叩いた。「私の考では世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に分れます。それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」
「なければ結構だが、今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。
個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日に生れたから、天下が挙って愛読するのだろうが……」
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、人文の発達した未来即ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」

「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的にそう思うまでさ」

夏目漱石「吾輩は猫である」より

引用箇所の初出となる「ホトトギス」誌の「国立国会図書館デジタルコレクション」リンクも貼っておきます(要、国会図書館アカウント)。

「ホトトギス 第九巻第十一号」(1906年8月)

あと、文中で引き合いに出されている小説家。



今回引用した箇所。核家族化とか、結婚の困難化とか、現代芸術の辿った隘路とか、なかなか鋭く予言しているのではないかと思います。
(核家族化についてはすでに始まっていたのでしょうから「予言」というほどではないかもしれませんが。)

その原動力としては「個性の発展」が挙げられているわけですが。そこまで含めて当たっているかは、人によって判断が分かれるかも?
ただ、控えめに見積もっても「当たらずといえども遠からず」ぐらいのところには達しているのでは。

今日、こうした問題(から生じる、少子化問題など)について。
女性に高学歴を与えず、無知蒙昧たらしめれば良い的な「解決策」を口走る人がいたりはしますが。
まぁ無理なことだと思います。
というより、そういう話なら別に女性に限らず、「男女とも、学校はなるべく中学校ぐらいでさっさと終わらせ、早めに結婚して、たくさん子供を生み育てるようにせよ」とでも言えば良い理屈のはず。
もちろん、時代錯誤この上ないですけどね。

漱石が100年以上前に見て取っていたように、「文明が進むと、個性が発展し、結婚が不可能になっていく。」
そういう力学が働くことを大前提に、こうした問題への対処は考えられねばならないのだと思います。

* * * * *

現代芸術については……。
自分にそこそこ分かる芸術音楽のジャンルで言いますと。
ストラヴィンスキーが1910年(上記引用文の4年後)に書いた「火の鳥」は、「個性的」な作品ではあるけれど、今日でもそれなりに愛好されていると言えるでしょう。

しかし、さらに「個性の発達した」現代の音楽作品となると……。

例えばシュトックハウゼンの「ヘリコプター弦楽四重奏曲」なんかは、現代音楽作品としては相当に名前が知られている部類かと思いますが。

この作品を日々愛聴しているという人は、いるとしても、ごく少数だろうなぁ、と(苦笑)。

じゃ、そんなこんなで「芸術も滅びる」宿命なのかというと、「どうも直覚的にそう思われないんです」と、私も思ったりはするのですが。