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社会への片思いは父親への片思い。かもしれない。

これはわたしだけかもしれませんが、社会に対する気持ちと、父親への気持ちってリンクしているなって思ったんです。

いつもそうだというよりは、なんか社会的な面でつまずいたときに出てくる気持ちが、未消化だった父親への思いを彷彿とさせるんですよね。


個人的な話ですが、うちの父はわりと自分の子どもに無関心だなーと感じていて(本人はたぶん全くそんなつもりない)、そんな空気が父の言動から垣間見える度にわたしは父に心を閉ざしていきました。

小さい頃からなんとなーく「うちの親って自分の子どもよりも他んちの子のほうが大事なんだろうな」とか「わたしの気持ちをきくよりも、自分が会話に “勝つ” ことのほうが大事なんだろうな」って感じていました。

子どもに寄り添ったり肯定することを彼は「甘やかし」だと思っていると思います。逆に自分の子どもを否定して認めないことで、子どもは成長していくと信じているんだと思います。

誠に残念ながら、わたしにはそのやりかたは合っていなかったんですね。厳しくされると粗雑に扱われていると感じてひねくれるのみです。


そして完全にいじけてしまったわたしに残ったものといえば

「どうせ認められない」

「どれだけ頑張っても評価されない」

「どうせわたしのことなんて誰も興味ない」

「何をやっても、“わたしだから” 評価もお金も手に入らない」

という圧倒的虚無感・無力感・孤独感のみでした。


社会的な面で何かある度に、この観念が呪いのように思い出されるんですよね。これは今でも完全に消えたわけではありません。

「三つ子の魂百まで」という言葉もあるように、本当に強い意志をもって自分を教育し直さないと、子どもの頃に身につけた観念って(悪いほうに働くと)呪いのように時々何か問題を起こしてはその存在を強烈に思い出させるように暴れだしたりするんですよね。

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性の受容&女性性開花特化BOXです。 女性性とは生命力であり、現実を生み出すチカラのこと。 自分の中の性・感受性に絡まりついた罪悪感や被害…

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