昨日、髪を切った。 #2000字のドラマ
「失恋したから髪を切る」みたいなベタな事象が自分に起こるなんて、想像もしていなかった。
「バッサリいっちゃって良いんですね?」
美容師の念押しに、私は無言で頷く。
間もなくして、私の髪の毛は、美容室の床に黒々ととぐろを巻いた。
胸に渦巻く黒い気持ちもこんな風に切り落とせたら良いのに、と考えていたら、私の気も知らずに、
「お客様、すごく綺麗な髪だったから、ちょっと勿体ないですね」
と美容師が声をかけてくる。
そうでしょう、綺麗でしょう。
特にお手入れをしなくても艶々サラサラで、長年私のチャームポイントでした。
彼も凄く綺麗だっていつも褒めてくれました。
だから、切るんです。
「でも、頭の形綺麗だし、ショートも似合うと思いますよ! イメチェンって良いですよね」
「…たんです」
「え?」
「失恋したんです」
言うつもりじゃなかったけど、言ってしまったらもう止まらなかった。
別れの経緯、そして彼の悪口を、散髪が終わるまで、私はノンストップで喋り続けた。
*
「あら、イメチェン?」
「…の、つもりなんですけど。どうですかね?」
「良いじゃん良いじゃん、似合ってるよ」
オフィスにいるのも居た堪れず、屋上のベンチでお弁当を広げていたら、女の先輩に声をかけられた。
ベテランで面倒見も良いこの女の先輩に、私は大変懐いている。
「失恋?」
急に言い当てられて、心臓がドクンと跳ねた。
はは、やだなあ、としれっと流すつもりが、流し切れずにふにゃっと変な顔になったのが、自分でも分かる。
「図星かあ」
先輩は、そう言いながら笑うと、私の横に腰かける。
「あの、私実は…、つい最近まで、鈴木課長と付き合ってたんです」
「そりゃまたデンジャーなところを攻めるねえ」
「ねえ! 馬鹿ですよねえ、まさか奥さんが居るなんて知りませんでした」
鈴木課長は、仕事ができて、イケメンで、物腰が紳士的で…つまり、若い女子に人気のある男の人だった。
指輪はしていなかったし、女性社員には
「バツイチだから、しばらく恋愛や結婚は良いかな。今は仕事に打ち込みたい」
で通していて、私もそれを信じ込んでいた。
そんな、男女の色恋に疲れて、そういうものからちょっと距離を置いている男の人が、私だけは特別扱いしてくれたから、すっかりハマってしまった。
自分だけは特別で、彼の傷を癒やしてあげられて…そんな風に本気で信じていた。愚かにも。
幕切れは、呆気なかった。
たまたま、彼とのデート中に、スマホ画面がチラッと見えてしまって、それが奥さんとのやり取りだった。っていう、それだけの話。
問い詰めたらあっさりとゲロって、カッとなった私は、「奥さんと別れて」とか「会社に訴えてやる」とか泣き喚いた。
ドラマや漫画でよくある泥沼を見ながら、私は絶対そんなありきたりな女にはならないけどね、とか思っていたけど、いざ現実に起こると、陳腐な台詞しか出てこない自分が、本当に馬鹿みたいだった。
そのまま別れ話にもつれ込んで、ひとまず頭を冷やそうとか丸め込まれて解散して…もう24歳の良い大人なのに、泣きじゃくりながらタクシーに飛び乗った。
1ヶ月、毎晩夜は泣き腫らしていたと思う。
彼の手酷い裏切りに何か復讐してやりたくて、でも何も思いつかなくて、悲しくて、自分が馬鹿みたいで、ただただ泣いた。
そんなボロボロな精神状態で鏡を見たら、髪の毛だけは相変わらず艶々していて、そういえば彼がよくこの髪を褒めてくれたな、と思った瞬間に、居ても立ってもいられず美容院に駆け込んだのだ。
*
「ほんと最低だね。でも告発とかは考えない方が良いよ、あんたが不利になるだけだから」
そういう先輩の横顔は、過去に私と似た辛酸を舐めてきたんだな、と察するに相応しい苦さに満ちていて、なんとなく気が楽になった。
「そうですね、せめて先輩に話せて良かったです。ってか、先輩は薄々勘づいてたんじゃないですか?」
「うーん、半々? なんとなく、課長のこと好きなのかな、ぐらいには思ってた」
昨日、美容院で散々毒を吐いて。
吐き切った後で、今更我に返って、
ああ、なんて恥ずかしい、穴があったら入りたい…とジタバタしている私に、美容師が言ったひとこと。
「その人のこと、本当に好きだったんですね」
裏切りが分かって以来、私の心は、彼への憎しみで黒く染まってしまって。
過去の思い出も、全部黒で塗り潰されたようで。
でも、改めて人に言われると、本当に私は彼のことが好きだったんだ、と思うことが出来た。
「これからどうするの?まさか会社辞めるとか言わないよね?」
「はは、まさか」
私達の日常は、物語では無いから劇的なことは起こらない。
明日急に世界が滅亡することも無ければ、課長が奥さんと別れて、私を選んでくれることもない。
『新着一件:昨日はご来店いただき、ありがとうございました。もし良ければ今度ご飯に…』
でも、そんな日常の中にも小さなドラマはある。
新たなドラマが始まる予感がした。
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