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日本人は「Polite」である。

レッテルや偏見に縛られることは、恥ずべきことではない。誤解を恐れずに言えば、それらは時に物事を整理する有効な手段でさえあると思う。知らないことにレッテルや偏見を代用することで、事物を相対化したり、自分の中の世界のバランスを保ったりすることができる。勿論、一度用いたが最後、「それ」を解消すべく努力を重ねなくてはならない。南米に住む人は時間にルーズなのか、イタリア人はいつでも陽気なのか。アメリカ人はファーストフードを好むのか。云々。

そして、頭の痛いことに、この作業には終わりがない。何かをカテゴライズした時点で、そぎ落とされた何かが必ず存在する。「概念化する」とは、無数の要素の共通項を半ば無理やり見出しグルーピング(観念化)して、言語化する行為だ。それが、何かを認識する唯一の方法なのだ。言語、ないしはそれに類する機能が無ければ、認識したり、思考したりすることができない。そぎ落とされた何かに注意を払うには、最高法規同様、「不断の」努力を要する。

日本人は、とかく「polite(礼儀正しい)」だと言われる。ズボラな私でさえ、イギリスに来て日常的に接する人という人から言われている始末だ。そして、彼らは目の前の日本人に対し、心からそう思っているのだ。一体、何故か。

我々は他者が何かを論じる時に、それを遮ってまで話を通そうとしない。物事をはっきり言い切ったり、「あの先生はダメだな。」等とおおっぴらに非難したりはしない。口癖は「I think...」「May be...」「Depend on the situation.」あるいは「Is this a queue?」といった具合である。机や椅子を元の位置に戻し、机上に放置された紙コップをついでにゴミ箱に捨てる。約束を果たせない時には、その期日前に詫びを添えた連絡を入れるのが筋だ。そういう所作の集合が、我々を「polite」足らしめている。

といって、別段謙遜する必要はない。politeの定義は、次の通りである。

【polite】
behaving or speaking in a way that is correct for the social situation you are in, and showing that you are careful to consider other people's needs and feelings  (LONGMAN AMERICAN DICTIONARY)

「polite」という単語は、所作の背景に漂う 「あなたを理解しようとしています。」という意思表示をも内包する。類義語に「sincere」という単語があるが、こちらはこんこんと湧き出る泉のようにあくまで自発的(based on what you really feel and believe)な振る舞いだ。なるほど、合点がいく。これ以上的確に、日本人の本質を形容する表現があるだろうか。そうしないと決まりが悪いから、そうするに過ぎない。

そうやって我々は、恥の文化を生きる。「人様に迷惑をかけてはいけない。」と育てられる。公共の場で大声を出す人を見ると、モヤモヤした感情に苛まれる。「公共の福祉」は、名実ともにあらゆることに優先する。だから「身の丈」を飛び越えない存在で落ち着きたい。一方で、真逆の自分を強烈に渇望する。日本人の、特に年配者が「酒」を愛するのは、自分をさらけ出す場の創出のためだ、と考えるのは邪推が過ぎるだろうか。そして、一部の若者はこの価値観の破壊に躍起だ。たくさんの矛盾と、その矛盾を両立させる発明品をもって、今の日本が形成されている。

ルース・ベネディクト著『菊と刀』に出会えたことは、私の人生の数少ない幸運だ。何回と捲ったページを、今も異国の地で追っている。色々な批判もある。それでも、我々の体を縛る、見えない鎖の本質は何か。その解の一端が、鮮やかに言語化されている。どこに向かうか決める前に、本書を一読して、損は無いだろう。「 彼を知り己を知れば百戦殆ふからず。」というやつだ。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)