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「ことばのひと」として、生きていく。

「ことばのひと」という単語に驚いてしまった。

友人によると、わたしは「ことばのひと」らしい。ライターを職業としているのを知りながら、あえて違う表現をしたセンスに脱帽する。と、同時に「ことばのひと」について思いを馳せてみた。

わたしは子どもの頃から文章を書くという作業に困ったことがない。作文では意図した通りの評価をもらい、学校代表にも難なく選ばれてきた。早い話が、大人の求める文章を書く力に長けていたのだ。

きっかけは、母に強制的に日記を書かされてきたことだろう。ある日突然、寝る前に日記を音読させられることになった。母は自分の決めたことは絶対だと頑なに信じるタイプ。泣こうが叫ぼうが、母が決めたルールに逆らうことは許されない。

スパルタを超えた環境に置かれた幼きわたしは、熱を出したとき以外は日記を書き続けた。ただ書けばいいのではなく、音読して母のOKをもらわなくてはならない。つまり、日々の振り返りというより、母を満足させるための日記だ。

母は日本語の能力が高いわけではなかったので、大切なのは内容だった。取り上げる題材から感想に至るまで、彼女の意に沿う必要がある。いつしか、瞬時にその日の要点を考えつく能力を身につけていた。

そして今、わたしの仕事はクライアントの意向に沿って文章を書くライターだ。40歳を過ぎた未経験の主婦ながら、細々と続けられている。おそらくは、あの頃の経験が生きているのだろう。

クライアントの多くは、「こちらの意図を汲み取る力が高い」と評価してくれる。たしかに、わたしには読心術並みの察知能力があるのかもしれない。先方の要件を聞けば、大抵のビジョンが浮かぶのだ。

そのため、自分としては言葉を操っている感覚はほぼ皆無。どちらかというと、クライアントの代筆屋という感覚だ。だからこそ、「ことばのひと」という表現が心に残ったのだと思う。

わたしは自分の中から溢れでる想いを綴るのが得意ではない。正解を待っている人がいないと迷子になってしまうからだ。それでも、書くという行為はやめられない。気がつくとノートやPCに書き散らかしている。そして、書き散らかした文章を振り返って我に返ることが多い。

まるでキャンバスに向かうアーティストのようだと感じる。内面にあるものを吐き出して創作していく。そういう意味では、わたしは「ことばのひと」で間違いない。ただし、それを世間に向けて発表できるかどうかは別の話である。

ここまで書いて、「ことばのひと」という響きに含まれるのは、わたし自身の表現方法なのかと気づく。

人はきっと、何かしらのカタチで自分を表現しているのだろう。美容やファッション、写真もあるかもしれない。自分の内側に眠るパッションと外界をつなぐ手段。それを人は得意なことを通じて表現しているに過ぎない。

だとしたら、わたしは「ことばのひと」だ。職業とは関係のない話だったのか。ライターをしていると、自分の文章力の低さに打ち負かされそうになることが多々ある。その度に「書くことが好き」と言えなくなっていたから、素直に受け取れなかったのだ。

すべてが腑に落ちた今、わたしは「ことばのひと」だと自信を持って言える。そして、明日からも堂々と言葉を吐き出して生きていこうと思う。

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